水野鼎蔵
水野 鼎蔵 みずの ていぞう | |
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生年月日 | 1890年3月26日 |
出生地 | 日本・長野県小県郡上田町(現・上田市) |
没年月日 | 1968年8月17日(78歳没) |
出身校 | 旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)卒業 |
前職 | 上田化工専務取締役工場長 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1951年4月23日 - 1959年4月30日 |
上田市会議長 | |
在任期間 | 1944年7月21日 - 1946年 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1939年7月17日 - 1947年4月 |
水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月26日[1][注釈 1] - 1968年(昭和43年)8月17日[2])は、大正から昭和期の実業家、政治家、教育者。長野県上田市長。
来歴
[編集]長野県小県郡上田町房山[2](現上田市上房山[2])で、旧家・水野茂平の長男として生まれた[3]。1910年(明治43年)旧制上田中学(現長野県上田高等学校)を卒業[1][2][4]。国内外の玩具に興味を持ち、1922年(大正11年)地元に日本アルプス玩具水野工場を創業し[2][3]、海外輸出を軌道に乗せ、日本貿易協会から表彰された[2][3][4]。1941年(昭和16年)上田化工を設立し、専務取締役工場長となる[3][4]。戦後はアルプス玩具を経営[3]。その他、上田商工会議所議員、長野県商工経済会評議員、上田ガス取締役、上田信用金庫理事なども務めた[2]。1961年(昭和36年)事業を長男・洋三が継承した[2]。
1937年(昭和12年)長野県司法保護委員となり[1]、1939年(昭和14年)7月、上田市会議員に当選し[4]、1944年(昭和19年)議長に就任し1946年(昭和21年)まで在任[1][2][5]。1951年(昭和26年)4月、上田市長に当選し1959年(昭和34年)4月まで2期務めた[1][2][3][4]。在任中は上田市立高等学校の県立移管(現長野県上田千曲高等学校)、小中学校の学区改革、国立療養所の移転、市営産院の新設、産業道路の開通などに尽力し、昭和の大合併では小県郡6村との合併を実現させた[1][2][3][4]。
退任後は私学振興に力を入れ、学校法人上田学園を設立し理事長に就任し、1960年(昭和35年)上田城南高等学校(現上田西高等学校)を創立し、その経営に当たった[2][3][4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『信州人物誌』486頁では3月27日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 田島清編『信州人物誌』信州人物誌刊行会、1969年。
- 『日本の歴代市長 第2巻』 歴代知事編纂会、1984年。
- 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
- 『上田市誌 人物編:明日をひらいた上田の人びと』上田市、2003年。