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榊原政敦

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榊原政敦
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦5年8月20日1755年9月25日
死没 文政2年2月24日1819年3月19日
改名 小平太(幼名)、政敦
戒名 景徳院殿潤誉光岸湊鷗大居士
墓所 江東区霊巌寺
官位 従四位下式部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
越後高田藩
氏族 榊原氏
父母 父:榊原政永、母:堀田正亮の娘・園
兄弟 政敦政晨政億政成職序稲垣長続京極高貞大久保政敏、亀姫、喜連川彭氏正室、内藤正弘正室ら
正室:池田宗政の娘・
側室:象(きさ)の方
政令石河貞大有馬徳純本多忠知正室ら
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榊原 政敦(さかきばら まさあつ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名越後国高田藩の第2代藩主。官位従四位下式部大輔。榊原家10代当主。

略歴

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先代藩主・榊原政永の次男。寛政元年(1789年)、父の隠居により家督を相続した。文化7年(1810年)家督を長男の政令に譲って隠居した。

文政2年(1819年)死去、享年65。奥州領5万石余を頸城郡公儀領と交替することに成功した[1]

系譜

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父母

正室

側室

  • 象(きさ)の方、三宅氏

子女

脚注

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  1. ^ 『物語藩史第4巻』(兒玉幸多・北島正元著、人物往來社刊、1966年)103p
越後高田藩主・榊原家を祀る榊神社(さかきじんじゃ)[新潟県上越市]