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楢山節考 (1983年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楢山節考
The Ballad of Narayama
監督 今村昌平
脚本 今村昌平
原作 深沢七郎
製作 友田二郎
出演者 緒形拳
坂本スミ子
左とん平
あき竹城
倍賞美津子
清川虹子
辰巳柳太郎
音楽 池辺晋一郎
撮影 栃沢正夫
編集 岡安肇
製作会社 今村プロダクション
配給 東映
公開 日本の旗 1983年4月29日
フランスの旗 1983年5月CIFF
上映時間 131分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 10億5000万円[1]
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楢山節考』(ならやまぶしこう)は、1983年製作の日本映画深沢七郎同名小説(厳密には『楢山節考』と『東北の神武たち』の2つを原作とする)の2度目の映画化作品。1983年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞した。

概要

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1958年版に続く、同名小説の二度目の映画作品。長野県北安曇郡小谷村の廃村をベースに[2][3][4]、オール・ロケで撮影が行われた[2][5]。(詳細は後述)歌舞伎の用法を取り入れている映画第一作とは異なり、よりドラマチックな展開となっている。

1983年カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールに出される。松竹から公開された『戦場のメリークリスマス』がパルム・ドールの有力候補と見られて大きく報道されていたのに対し、本映画に対する関心は低かったが、最終的には『楢山節考』が受賞。大きな反響を浴びた。

キャッチ・コピーは「親を捨てるか、子を捨てられるか。

ストーリー

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耕地にも気候にも恵まれない山中のとある寒村には、厳然たる3つの掟があった。

「結婚し、子孫を残せるのは長男だけである」
「他家から食料を盗むのは重罪である」
「齢70を迎えた老人は『楢山参り』に出なければならない」。

来年に楢山参りに出る定めの老女・おりんの家では、家族がそれぞれ問題を抱えていた。長男の辰平は去年妻を事故で失い、侘しく鰥夫暮らしをしていた。そんな辰平は母親思いゆえ、とてもおりんを「楢山参り」に出すことはできない。次男の利助は頭が弱くて口臭がひどく、村人から「くされ」と呼ばれ蔑まれている。村の掟で結婚が許されず、家の奴(ヤッコ・下人)として飼い殺しにされる運命の利助は女を知る機会もなく、近所の雌犬を獣姦しては欲求を満たしていた。辰平の息子・けさ吉はおりんの歯が33本あることをからかいながら、村のふしだらな女・松やんと遊びほうけていた。

そんな折、向こう村の若後家・玉やんが、辰平の後妻として家に入る。一方でけさ吉も松やんを妻として家に迎え入れるが、利助は辰平と玉やんの性行為を覗き見てはあらぬ妄想を深めていく。松やんは手癖が悪く、貴重な食料を好きなだけ食い散らかし、挙句は盗み出した馬鈴薯玉蜀黍を実家へ持ち出していく。松やんはほどなく妊娠し、食糧事情は一層の逼迫が予感された。

家の中には波風が立ち始める中、せめて家族の悩みを解決してから楢山に旅立ちたいと願うおりんだった。そんな中、松やんの実家である「雨屋」が、食料窃盗の咎で村人総出の制裁を受けることになる。

キャスト

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辰平
演 - 緒形拳
45歳。家族思いだが短気な性格で、怒るとすぐに手が出る。その反面、状況によっては及び腰になって消極的な一面も見せる。そんな性格が30年前に行方不明になった父親に似ていると周囲から称されるが、それを極端に嫌がる。
末っ子娘・ゆきを産んだばかりの前妻・たけやんを不慮の事故により亡くすが、ほどなく玉やんと再婚する。家の前に大きなの切り株があるため、辰平の一家は周囲から「根っこ」と呼ばれている。
おりん
演 - 坂本スミ子
辰平の母。69歳。腰こそ曲がっているものの、元気で働き者。年の割に歯が丈夫で、孫のけさ吉から「鬼の歯を33本揃えた」などと揶揄されている。普段は穏やかな性格だが、村の厳しい掟である『楢山参り』に自ら望んで行こうとする芯の強さも持つ。さらに老いても健康な歯を食糧不足の村での「恥」と受け止め、石で打ってわざと折っている。川でヤマベを捕るのが得意で、自分だけの穴場を知っている。
自ら進んで楢山へ行こうと考える理由に30年前に旦那を殺めたことへの罪の意識がある事が後に告白される。

辰平の家族

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けさ吉
演 - 倉崎青児
辰平の長男坊。ふざけた性格で、家の仕事こそ手伝うものの勝手気ままに過ごしている。無計画な考え方の持ち主で、自己中心的で女にだらしない。日常的におりんや利助をバカにする言動をする。歌が好きで、地元の民謡「楢山節」を名調子で歌い上げる。
とめ吉
演 - 嶋守薫
辰平の次男。今で言う小学生ぐらいの子供。わんぱくな性格で自分より二回りぐらい年上の利助にもちょっかいを出す。しかし、いずれ「ヤッコ」として飼い殺しにされる運命を利助に指摘されてかんしゃくを起こすなどしている。
利助
演 - 左とん平
辰平の弟。35歳。ヤッコ(家の下人)として雑用を担当する以外に、農耕馬『はるまつ』の世話もする。口臭がひどく、周りから『くされ』という蔑称で呼ばれる。しかし、本人も気にしており山の神様に手を合わせて治癒を祈っている。童貞であり、満たされない性欲に日夜悶々としている。
玉やん
演 - あき竹城
辰平の後妻。37歳。垢抜けた性格で真面目で非常に気立てがよく働き者。おりんともすぐに打ち解けて嫁姑の仲も良好。生まれ育ちは他村だが、厳しい村のしきたりも理解した上で粛々とそれらに従う。作中ではおりんにより「ちっとでかくて不細工だけどいい嫁だ」などとオリジナルの歌で評されている。
松やん
演 - 高田順子
近隣の農家「雨屋」の年頃の娘。恋人のけさ吉との子供を妊娠したことを機に、辰平の家で暮らし始める。実家の家族想いで悪い人ではないが、辰平の家の食べ物を無断で実家に持って行ったり、食べ物に関して意地汚いところがある。顔の右側にアザがある。
杉やん
演 - 岩崎聡子
けさ吉の後妻。若い娘。松やんがいなくなった後、けさ吉たちと一緒に暮らし始める。
利平
辰平の父。作中では30年前(辰平が15歳だった頃)に失踪している。おりんによると利平の母親が『楢山参り』をする年になり、利平が山に連れて行く役目に耐え切れず失踪したのではと言われている。また、失踪したことで利平は、村の恥さらしのような存在になったとのこと。

松やんの実家の家族

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雨屋
演 - 横山あきお
雨屋は屋号。この家の者が山で双頭の蛇を見つけて殺したところ、それ以来、家人が山に入るたびに雨が降ると伝えられていることにちなむ。雨屋の主人は女房と見境なく子供を作り続けたため、食い扶持に悩んで食料の窃盗を繰り返した。結果、発覚して「楢山さんに謝る」(詳しくは後述「村のしきたりなど」)刑罰を受ける。先代の主人も窃盗が発覚して楢山さんに謝った経験があり、村人からは泥棒の血統と見なされて一家全員生き埋めにされ、根絶やしにされる。
雨屋の女房
演 - 志村幸江
子供想いの母。自分の分まで子供たちに食べ物を分ける。障害があるのかは不明だが、声は出せるが言葉を話さない。
雨屋の長男
演 - 岡本正巳
松やんと自身を含めて6人の弟妹がいる家庭の長男。村人総出の制裁を受けた雨屋が食料に事欠いてた折、松やんがおりんから芋を施される。その芋を大喜びで食べていた最中、長男はじめ雨屋の一族は村人の急襲によって全員殺害される。

おかねの家族

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おかね
演 - 清川虹子
病気(詳しい病名は不明)のため、床に臥しており自他共に死が近いと思われている。しかし、『しらはぎ様』(白米)を食べた途端、村人も驚きの回復を見せる。
欣やん
演 - 江藤漢
おかねの家の長男。母の死を予感し、利助に樽型の棺桶を作るように依頼する(棺桶を作る担当は各家の持ち回り)。
仁作
演 - 常田富士男
欣やんの弟。もう長くないと思っていたおかねが奇跡的な回復をしたため驚く。

忠やんの家族

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銭屋の忠やん
演 - 深水三章
銭屋は屋号。越後から持ち帰った天保通宝が家にあることから。
荒い性格で、実父である又やんが家の食糧に手を付けるため、縄で縛りあげて監禁する。
銭屋の又やん
演 - 辰巳柳太郎
70歳。忠やんの父。手癖が悪く「家で飼っている鶏を勝手に食べようとした」とのこと。
おりんと同じくこの冬に『楢山参り』をする予定だが怖がり受け入れようとしない。

おえいの家族

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おえい
演 - 倍賞美津子
シロと名付けた白い犬を飼う女性。父爺の遺言で、村のヤッコたちに一晩ずつ性交渉をすることを約束する。
父が亡くなった後に行動に移すものの、「くされ」の利助のみは拒む。
新屋敷(あらやしき)の父爺
演 - ケーシー高峰
おえいの父。重病で余命いくばくもない。死の床で先代の父親が家の娘に夜這いをしかけたヤッコを殺した顛末を語り、殺されたヤッコの祟りで新屋敷の家が不幸になったと訴える。罪滅ぼしとして村のヤッコたちと一晩ずつ性交渉を行うよう、おえいに遺言する。

その他の主な村人

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勝造(かつぞう)
演 - 小沢昭一
おえいが相手をしたヤッコ。中年になって初めて訪れた女性との交わりに狂喜し、おえいの股間に向けて柏手を打って拝む。
常(つね)
演 - 小林稔侍
村に住むヤッコの一人。間引いた男児を辰平の家の田に遺棄したため、辰平らから抗議される。
塩屋
演 - 三木のり平
行商人。女児の身売りを手掛け、周辺の村々を行き来している。他所の村人に頼まれて辰平に後妻との縁談話を持ってくる。おりんに「ここに来る前に先ほど西の山で辰平を見かけた」と告げる。
照やん
演 - 殿山泰司
村のリーダー的存在。村祭りや、雨屋一家への制裁を差配する。さらに『楢山参り』赴くおりんと辰平に、数人の村の代表者たちを集めて会合を開いて取り仕切り、作法を説明する。
焼松
演 - 樋浦勉
焼松は屋号。家の裏手に落雷で焼けて枯れた松の大木があることから。
村の代表者の一人で、『楢山参り』に行く前のおりんと辰平に村から楢山の年寄りを置いてくる場所までの道順を説明する。

村のしきたりなど

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舞台となる村は気候にも耕地にも恵まれず、住人はわずかな農作物や狩りで細々と暮らす。しきたりの大半は、過酷な環境の中でいかに食料を確保し、家を継いでいくかに従ったものである。

楢山参り

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  • 作中の村の住人が70歳ぐらいになると『楢山参り』をする決まりがある。これは高齢のお年寄りをその家の長男などが背負子(しょいこ)を用いて一人で担いで連れて行き楢山に置いてくるというもの。
  • 『楢山参り』には以下の決まりがある。
    • 山へ入ったら年寄りは、一言も声を発してはいけない。
    • 出発時はひそかに家を出る。誰にも見られてはならない。
    • 背負う者は年寄りを下ろして帰宅する折、振り向いてはならない。

跡継ぎなど

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  • 生まれた子供が男児の場合、長男であれば跡継ぎとして大事にされる。女児だと人身売買で金に替えることができるため重宝される。しかし長男以外の男児は食い扶持が増えるだけなので、家庭の状況により働き手として育てるか、間引くという処置が取られる。
  • 各家庭では長男が一番偉く、弟たちは長男には逆らえない。跡継ぎ以外の男児は結婚して子孫を残すことも許されず、奴(ヤッコ・家の雑用係)として一生を終える。

食べ物の盗みについて

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窃盗、とくに他家の食料を盗んだことが発覚すれば「楢山さんに謝らせる」という制裁を受ける。これは村人総出で犯人の家に押し入り、家財を打ち壊して家探しをして住民を全員殺害、発見した食料を村人全員で山分けする。貧しい村人にとっては、臨時で食料確保ができるため一種のイベントのようなものである。

スタッフ

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製作

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企画

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今村昌平は当時の岡田茂東映社長に「死ぬまでにどうしてもやりたい企画が三本ある」と話し、『楢山節考』『黒い雨』『村岡伊平治(女衒 ZEGEN)』の3本を挙げたところ、「3本ともうちでやりましょう」と引き受けてくれたと述べている[6][7]。今村の話には後述する東映プロデューサー日下部五朗は登場しないが、日下部は今村とは食い違う証言を著書や、連載、最新の東映の社史などで述べている。日下部は『AVジャーナル』1993年10月号のインタビューでは、「岡田から『楢山節考』をやれと言われた際、当たると思えなかった」と述べている[8]

日下部の説明では、日下部が今村監督と仕事がしたい、と最初は自身の企画を用意していたが、テレビドラマに先を越されたため、今村に「何かやりたいものはあるか」と尋ねると、今村から『楢山節考』『黒い雨』『村岡伊平治(女衒 ZEGEN)』の3本のプロットが送られてきた。うち『黒い雨』は大手映画会社でこの手の暗い話は不可能、『村岡伊平治』は東南アジアを舞台にした話で予算がかかり過ぎると判断。『楢山節考』なら舞台は寒村のみで、予算もさほどかからないと判断した。『楢山節考』の企画を通すため、岡田に何度も「映画化したい」と執拗に交渉するうち、以下の理由で岡田が製作OKを出した。岡田が製作を認めなかった1979年の『復讐するは我にあり』が、今村監督で松竹で映画化され高い評価を得たため、今村監督で製作を予定した『楢山節考』に岡田は難色を示していた。ところが日下部が「題は同じでも中身が違う。にっかつロマンポルノ10本分くらいの濡れ場がある」と吹聴したところ、岡田は掌返しでゴーサインを出したというものである[9][10][11][10]。東映は岡田社長があらゆる企画に口を出し[12]、岡田好みの企画しか絶対に通らず[13]、岡田の了解が得られなければ映画は製作されなかった[12][14][15]。岡田は『映画ジャーナル』1982年2月号のインタビューで『楢山節考』を"異色の芸術ポルノ"と表現しており[14]吉本隆明は『楢山節考』をポルノ映画と論じている[16]

脚本

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今村は日活助監督時代に深沢七郎の原作を読んだ。「原作を最初に読んだのは私じゃないでしょうか。『中央公論」に発表になる前から評判が高かったですからね。生意気にも、これはおれの世界だ!と思ったんですね」と話した[2]。おれの世界だと思ってみても映画化のすべはない。木下惠介が映画化すると聞いたときは悔しかったという。木下組の松竹助監督から、「を集めるのが大変だ、烏をセットに放したりして本当に辛い」などと聞き「なんで山村の話なのにオールセットで撮るんだろう」と疑問を抱いた[17]。1958年『楢山節考』封切り初日に観に行くと、ナレーション義太夫を使い、抽象化した手法に驚いた。しかし「まだリアリズムで撮る手は残っているな」と思い「いつかオール・ロケで撮りたい」と願った。以降、しつこく映画化を狙い続け、ようやく実現した。

しかし実際にシナリオを書き始めると木下が抽象化して描いたことが全く卓見だったことが思い知らされたという。深沢の原作には今村が小説の奥に読み取っていた、農村のセックスも、労働も、具体的なことは何も書かれていない。抽象化されたエッセンスだけ。いくつかの歌で、ごく婉曲に生活を描いているだけの"節考"であった。そこでもう一つの深沢作品である『東北の神武たち』を取り入れることを思いついた[2]。『東北の神武たち』は一生結婚することもできず、農奴のように働き続ける、東北の農村の二男、三男のセックスと生活を描いたもの。この二男、三男を神武とかヤッコと呼んだ。片方は信州で、片方は東北、違和感があるかなと思い、深沢に電話したら「それはどうかね」と初めは言われたが「まあ、そりゃ君の腕だから」と言ってもらった[2]

助監督としてクレジットされている池端俊策は「今村が書いた脚本の初稿は、スピード感はあるけど荒っぽく、それは今村さんも認めて、これを映像化できるように書き直してくれといわれ二稿目を自分が書いた。動物は初稿からたくさん出てきて、自然と人間が共生している感じがいいですね、もっと動物増やしましょうかと言ったら、今村さんがいいよって言った。三稿目を今村さんが書いた後、自分が直しを頼まれた後はウヤムヤになり決定稿になった」などと話している[18][19]。池端はその後、動物係兼任の助監督をやってくれと言われ、東北に行って鷹匠と交渉したり、ホン読みなどに参加したが一年半やった後、体調を悪くして降りた。現場にいた時、NHK連続ドラマドラマ人間模様』の脚本オファーが来たので、緒形に出演交渉し1984年に『羽田浦地図』として放映された[20]。今村から「テレビの仕事してもいいからダビングとラッシュは見に来いと言われ、そこで色々意見をした」と述べている[18]。 

キャスティング

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今村が惚れ込んだ緒形拳

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今村はシナリオを書くとき、キャストをイメージに浮かべないが、この作品だけは長男は緒形拳でいきたいと最初からイメージした[2]。『復讐するは我にあり』で初めて会った日に2時間くらい話した夜は、興奮して眠れなかったという程の惚れこみようであった[2]。今村が「どれだけ緒形が多忙でも長男役は彼しか考えられない」と熱望したことから、仕事の掛け持ちを考慮した上での起用となった[21]。出演する俳優全員が合宿しなければならないような僻村で、他の仕事は掛け持ちできない状況であったが、緒形は1982年のNHK大河ドラマ峠の群像』に主演していたため、一週間のうち、3日間が東京で、金曜日に村に来て、月曜日に東京に戻るというスケジュールで計52回現場を往復した[22][23]。上記のような出演者の他の仕事との掛け持ちは今村作品では異例で、NHKも今村に遠慮して文句をいわなかったという[22]

難航したおりん役

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おりん役には最初に杉村春子にオファーを出したが[17]、「もう少し年をとったらやってみたい」と言われ「いや、今でも充分ですよ」と言ったが断られ、清川虹子が名乗りを上げたが重すぎると却下[17]。また、これと前後して今村が高峰秀子に電話でオファーしたが、断られたという[21]。結局、元新国劇の当時72歳だった二葉早苗を捜しあて[2][24]、1982年5月から6月にかけて18シーンを撮り上げたところで二葉が倒れた。二葉のイメージからなかなか抜けられず、回復を待ったが、寒くなってからの撮影を考えると難しいと判断し、腰を痛めていた緒形が「軽い人にしてくれ」と希望したため[17]、7月に坂本スミ子に交代を決めた[2][25]。坂本とは『エロ事師たち』以来16年ぶりの顔合わせであった。坂本は決定時点で45歳で息子役の緒形拳と1歳しか変わらず。実年齢を30歳近くも上回る老女を演じるにあたり、1ヵ月で10キロの減量(54kgだった体重を43kgまで落とした[21])や、ハリウッド直輸入のメーキャップを施し、今村の指示で東京・青山の歯科医院で[21]前歯を4本削り、歯のない役作りをした[3][2][26]。その後、インプラント処理をしている。

撮影

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ロケ地選び

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長野県小谷村の廃村をベースにオール・ロケ[2][3][25]。当地は北アルプスの麓に位置する日本有数の豪雪地帯[27]大糸線南小谷駅から約4キロ[23]。山道を約2時間、車では行けない場所で、あちこちに「クマが出没」の看板が立つ[27]、峠を二つ越した真木集落(小谷村千国・真木地区)がロケ現場であった[2][3][25]。ロケ地選定のためシナリオ作成と並行してロケハンが行われ、1981年2月から今村らスタッフは、富山県新潟県群馬県福島県などを歩きまわった[2][25]。1981年4月にロケ決定地の航空写真を手に入れ、天眼鏡で見るとイメージにぴったりの12軒の農家が写っていた。雪が消えるのを待ち、当地を訪れると桃源郷のように思えるほどイメージ通りでロケ地に決めた。ロケ地交渉の際、小谷村の人から「うちは姥捨ての風習はないから、(ロケ地になると公開後に観客から実際に姥捨てがあった村だと)誤解されると困る」と難色を示された[21]。しかし、地名を明かさないことを条件に何とか撮影の許可が降りた[21](その後上記のようにロケ地が明かされた)。電気がないため、東映製作部が中部電力に日参して特別にケーブルを引いてもらい[11]、美術部で荒れ果てた農家を修復し[注 1]、撮影のセットにも使え、スタッフ、キャストの宿泊所も兼ねるようにした[11][28]。この他、姥捨ての場面は新潟県糸魚川市でロケを行った[4]

作中の村作りや撮影時の生活

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1981年12月3日クランクイン[25]、撮影は本作の終盤である、「緒形演じる辰平が姥捨てを終えて楢山から一人で村に帰る」シーンから始まった[21]。本作の現場は苛酷であった[29]。現地に田や畑を作った他、撮影期間中の炊事、小道具の現地調達、撮影に必要な動物の飼育、冬には除雪などを皆でこなしながら、一年と数ヶ月にわたってスタッフ、キャストたちと寝食をともにした[2][3][11][24][26][21]。リアリズムの徹底から、農耕班が組織され、劇中に必要な田畑を開墾して作物を育てた。今村から「この村は貧しい村です。土地も痩せています。したがって作物もやっと育ったという位にして下さい」という指示が出て、化学肥料を使わず、枯れない程度に肥やしを与えながら、全体的に小粒で色づきの悪い作物やを育てた[11]。日下部は「今村が校長を務める映画学校の学生たちを日給300円くらいでこき使いながら、足かけ三年山に籠った。現場の食事のあまりの粗食ぶりに、あれでは若い連中が可哀そうだと何度も京都一の肉屋から牛肉を買い込んでは陣中見舞いに行った」などと話している[9][11]。何が行われても外部に漏れる心配がない所で、業界で本番シーンが撮影されるのではという噂が流れた[30]。緒形は当時中高生だった二人の息子・緒形幹太緒形直人の夏休みに合わせ、三週間現地に同行させて裏方の雑務を手伝わせた[31][21](詳しくは後述)。

本作で登場する生き物

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春夏秋冬を通じた生き物の営みは、重要な位置を占めると考え、助監督が調達に日本全国を走り回った[32]。この動物班が大変な仕事で、買えるものはいいが、買えないものは捕獲し、撮影日まで生かしておかないといけないため、野生動物を飼育した[19]。さらに野生動物に演技をさせる。素人では演技がさせられないは秋田から鷹匠込みで現場に招いた[19]。冒頭の冬眠中のヘビネズミが食うシーンは、ヘビを冷蔵庫に入れて冬眠させ、バターを塗って、何日も餌をやらずにおいたネズミに齧らせた[32]。再三映し出される生き物たちの映像は自然への畏敬と共生を示唆する[27]吉本隆明は「ふんだんに画面に生き物を画面にうろちょろさせる。食いものがなくて、母親を捨てにいかねばならないような貧困な村なら、なぜ取って喰って飢えを充たさないのだ」と評している[16]。最後の「竜巻のようにむくむくと鳥の大群が盛り上がってくる」というシーンは、運よく大群が生息している場所を見つけても、キャメラと人が近づくと逃げてしまうと判断され、捕獲して一斉に放つしかないという結論に達し、スタッフは半年前から東京の新宿御苑明治神宮など、捕獲可能な場所で烏を集め[27]、烏の飼育を始めた[32]。今村は「できれば1000羽、少なくとも5~600羽は欲しい」と要求した[32][2]。しかしこのシーンは「ほとんど失敗すると思います」と話した。村に輸送した烏(詳細な数は不明)を飼育して一時は600羽くらいまで増えた[21]が、檻の中で烏が共食いして数がかなり減り、撮影日には300羽になっていた[32][33]。やむなく学生総出でその辺のを捕まえ黒く塗った[9][11]。撮影では曇天を一週間待ち、本番では口を縛った烏を一斉に飛ばし、一発勝負だったが何とかOKとなり、合成映像は一切使われていない[21]。カットになると待機させていた猟師に撃たせ、全部殺した[33]

シーンごとの撮影の様子

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今村は濡れ場のシーンを撮るのが好きで、本作のけさ吉と松やんのシーンては「もっと腰を振れ!」と熱のこもった演技指導をした[21]。同役を演じた倉崎と高田順子は「頑張ろうね」とお互いに声を掛け合い、濡れ場ではあったが明るい気持ちで撮影に臨んだ[21]。また、辰平と玉やんの濡れ場は、演じた緒形とあき竹城の役者としての力量や人生経験豊富なこともあり上記の2人より生々しいシーンとなった[21]。このシーンの撮影直後、あきは「えがっだー(良かった)!」と声を張り上げて現場を和ませた[21]。松やんの実家・雨屋の一家を生き埋めにするシーンでは、今村がワンカットで撮ることにこだわった[21]。このため事前に穴の下に横穴を作り、撮影では落とされた雨屋一家の俳優陣をそこから逃げられるようにした[21]。約2分半で大穴を塞がないといけないため土を一気に落とす仕掛けも使り、他の村人役の出演者たちも周りの土を必死にかき集めて大穴を埋めた[21]

クライマックスの姥捨てのシーンは、人骨を完全体で35体そろえ[27]、獣骨もトラック一杯分を集めた[27]。本作のクランクイン前に緒形は当時中学生の息子・直人に体重を聞いて「40kgぐらい」と返された[21]。すると緒形はアウトドア用の背負子を購入して直人をそれに乗せ、数日間自宅前の坂道を何度も登り降りしたりそのままスクワットして、おりんを楢山に運ぶシーンの下準備にした[注 2]。この他、緒形が坂本を背負って歩くお山いきのシーンでは、糸魚川上流の200メートルもの崖の上の狭い尾根にスタッフで道を作り撮影した[33]。今村が気に入りここで撮ると決めたが、その割にカメラのフレームでは崖の高さ、険しさが出ず、助監督の武重邦夫が「あまり効果がないし、もし緒形さんが落ちて死んだら今村プロは潰れますよ」と進言したら、今村は「そうだな」と言ったのに、次の日「やっぱりあそこでやる」と言った[33]。距離としては10メートルぐらいで、緒形と坂本が決死の覚悟でこのシーンを演じ、無事に終わって抱き合ったら、今村が「もう一回」と言った[33][23]。編集した画面には危険を冒してまで撮影した迫力はなかったという。東京で本読みから立稽古と、舞台なみの準備をした後、現地でもまた入念なリハーサルが繰り返された[2]。 

公開は当初1983年の6月を予定し[34]、1982年の春に二葉早苗で撮影していた春のシーンは、坂本スミ子で1983年の春に余裕で撮り直しが出来ると踏んでいた[34]。しかし1983年5月開催のカンヌ国際映画祭に本作の出品が決まったことで公開が急遽4月29日に早まり[21]、東映側への納入も4月9日になって制作現場は大ピンチになった[34]。撮影は1983年3月にほぼ撮り終わり、編集・ダビング作業も終わり、時間にして2分のその春のシーンをはめ込むだけだったが、この年の小谷村の冬は豪雪で、ロケ現場は3月中旬になっても高さ1.5m以上もの雪が解ける気配もなかった[34][21]。納入期限が迫る中除雪機だけでは足りず、人力も用いた過酷な除雪作業が2週間近くも続いた[21]。上映時間2分の春のシーンを納入ギリギリまで粘り、全撮影を4月6日に終えてギリで間に合い完成させた[34][21]

製作費

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日下部は東映が1億円、今村プロが5000万円で、後に東映から2000万円追加が出て、計1億7000万円と話している[9]。垣井道弘の著書では、東映、今村プロが2:1の割合で、東映が2億6000万円、今村プロが1億3000万円(どちらも推定)の合計3億9000万円と記載している[35]。岡田は「もし東映京都撮影所の自主作品だったら、製作費は倍といわないまでも、かなり割高になる」[36]、今村に「君ほどの男が仕事をするんだからリスクをお互いしょってやらなければダメだ。その代わり、儲かった時にはこちらも堂々と儲けを渡すと言ったら、今村は分かったと言った」などと話している[37]

逸話

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  • 先述の通り緒形直人と兄・緒形幹太は夏休みに、父・緒形拳から「やることないなら撮影現場に来ないか?」と誘われ、父が個人的に出すバイト代につられて現地に訪れた[21]。直人はこのとき初めて映画の現場を体験し、幹太と共に機材運びなど雑用係[38]、撮影で使うヘビやフクロウ、馬へのえさやり担当として働いた[21]。幹太と直人が小谷村に行った初日の夜、蛇口をひねっても茶色い水しか出ない風呂を見て、2人は「病気になる」と怖がって湯につかろとしなかった。しかし緒形から「映画っていうのはこうやって創るんだ」と教えられ、以後映画作りを肌で感じながらその風呂に入った[31][注 3]。それまでの緒形の出演作が子供が見るには内容や演出がハードなものが多かったため、本作は直人が初めて観る父の作品となった[21]。直人は本作で今村組を経験したことがきっかけで、その後俳優を目指すようになった[21]。また、直人はこの今村組の熱さがずっと忘れられず、再び参加を願ったが叶わなかった。2000年の『郡上一揆』でようやくそれに匹敵する熱気のある現場に参加できて喜び、「今村組の良さも振り返れば手作りの良さだったんだな、映画は本来こういうものなのか」と感じたという[38]
  • 緒形拳は、撮影時に受けたインタビューで「僕は映画(本作)に入るのが遅かったですけど、こういう映画作りに間に合って、本当に良かったと思います。こんな作り方、もう最後でしょうね」と話した[2]。後に「『楢山節考』では僕は演技というものをほとんどしなかった。苦労した母へのレクイエムみたいなものが凝縮され、涙も自然に出てきました」と話した[23]
  • 『楢山節考』も『戦場のメリークリスマス』とともにカンヌ映画祭に出品されたが、こちらはまったく期待されておらず、東映の誰もカンヌへ行こうとしない。今村は「カンヌがどれほどの映画祭か知らなかった」[32]、「出品すると聞いて『東映め余計なことをしやがって』と思った」[45]、「外国で理解されるとは思ってなかった」[45]、「後輩の大島監督が受賞するのに何でわざわざ行かなきゃならんの」などと言う[41][42]。プロデューサーの日下部は、「どうしてもカンヌに行きたい」と主張すると岡田社長から「恥をかくのは日下部一人で充分」と言われた[41][42]。宣伝も営業の誰も付いて行くと言わず。結局、主演女優の坂本スミ子と2人で、エコノミークラスでカンヌ入りし、現地で東映国際部と合流した[11]。坂本スミ子は、岡田社長に「カンヌに行くくらいのお金は出してよ」と頼んで旅費を出してもらい、「カンヌは私一人で行った」「その頃のカンヌ国際映画祭はレッドカーペットもありませんし、派手な衣装を着た女優さんもいなかった。今と違って地味なフランスの映画祭だったんです」などと話している[26]。大島サイドは、郊外のを借り切り、火の付いた松明を並べ大規模なパーティを実施するなど派手な宣伝合戦を展開した[44][11]。『戦場のメリークリスマス』は、国際的にも知名度が高い大島やデヴィッド・ボウイを擁して注目度が極めて高かったが『楢山節考』が逆転、パルム・ドールを受賞した[41][44]。岡田社長も今村監督もカンヌに来なかったため、世界中の映画人とプレスが日下部の元へ殺到。「あなたの映画が受賞したんですね、おめでとう」「そう、あれ、おれの映画なんです」と日下部はプロデューサーにとっての最高の一夜を満喫した[41]。パルム・ドールを受賞した頃、日本にいた今村は大好きな麻雀に興じていた[21]。また、倉崎青児によると、受賞直後に出演者とスタッフたちで新宿のスナックで打ち上げをし、全員一律で5万円の御祝儀をもらったという[21](詳細な参加者や誰からの祝儀かは不明)。
  • 1983年5月19日、カンヌ国際映画祭最終日であるパルム・ドール授賞式では、日下部が当時16歳のソフィー・マルソーにエスコートされ、坂本スミ子とともにオーソン・ウェルズソフィア・ローレンから賞を貰った[26][44][46]、坂本は"日本のエディット・ピアフ"とフランスの新聞に書かれ、ディスコで朝まで踊りまくり、歌いまくり、こちらも生涯最良の日を迎えたが[41][44]、帰りの飛行機で"戦メリ組"とかち合ってチケットが取れず、行きと同じエコノミークラス。成田空港では意気揚々と凱旋した今村と坂本に大挙報道陣が殺到したが、質問は坂本の大麻容疑に関する質問ばかり[39][44]。大麻と知らず知人に譲り渡したという容疑で書類送検されたのは事実であったが[39]、1ヵ月前に片が付いていた事件を誰かが恨んでリークしたと噂された[39]。坂本への追及は過熱し、受賞パーティなど坂本が出席すると、今村ら他の出演者は蚊帳の外で、坂本に大麻騒動の質問が殺到した[45]。そのとばっちりで『楢山節考』という映画もテレビ画像からかき消された[16][39]
  • 1986年、今村の学校、横浜放送映画専門学院横浜スカイビルの再開発によって建て替えられることになり、新百合ヶ丘に移転したが、この建設に4億5000万円ぐらいかかった[48]。日活や東映の他、フジテレビなどの放送界から寄付が集まったがそれでも足りず。飛鳥田一雄のつながりから小田急電鉄に協力を仰ぎ、土地の購入資金をまけてもらった。さらに足らない1億5000万円は、今村が『楢山節考』で儲けた金を全額入れた[48]。同校の校舎はこの1億5000万円で建てられた[48]。学校は助かったが、借金に苦しんでいた今村プロの社員は恨めしく思ったという。

評価

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第36回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞直後の『楢山節考』評は以下の通り。

  • カンヌの上映会場でフランス人と一緒に『楢山節考』を観た高野悦子は『楢山節考』の逆転グランプリについて、「大島さんはいい作品で当然、今村さんは新しい人だから、フランス人にはショッキングな発見だったんでしょう。『楢山節考』にはセックスシーンがたくさん出てきますが、それが実にいいんです。セックスシーンがとってもおかしくてみんな笑うんです。でもそれがだんだんしんみりしてくるんです。左とん平さんが清川虹子さんとやるところなんか、もうみんな感動してました」などと評している[44]。また海外で顔に広い川喜多かしこも「"戦メリ"は何ヶ国かの資金で製作され多国籍映画だけれど、『楢山節考』は日本プロパーの映画であることをお忘れなく」とアピールしてくれたという[41]。1983年5月15日、『楢山節考』上映後に割れるような拍手が起き[49]、以降、共産党系の『リュマニテ』から、右派の『フィガロ』、『ル・パリジャン』、『リベラシオン』まで、フランスのマスメディアの多くが称賛し、急にダークホースと評価が上がった[44][49][50]ロベール・ブレッソン監督の『ラルジャン』とアンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』が有力との声もあったが[51][52]、最終的には『楢山節考』『戦場のメリークリスマス』の争いといわれた[49][50]。日本の監督同士が賞を争って激突するのは初めてだった[49][53][注 4]。大島サイドが派手に行動したのが反感を買ったため[44]、欠席した今村に対して批判の声は上がらず「精神の自立のあらわれ」などと評された[44]。監督不参加のグランプリは史上初だった[11]

その他の評

  • 原作者の深沢七郎は試写を見て「よかったね。ありゃ前衛だよ。映画ってもんに対する考え方があれ一本で変わっちゃったね。オレはなにしろ、埼玉来て映画見たのは『エルビス・オン・ステージ』1回きり。映画ってのは消費的なもんだと思っていたから(笑)。でも今度のはビックリした。脱帽だよ。緒形拳もよかったね。ベッドシーンは見ものだった。あき竹城とベッコンベッコンやるところ(笑)。ベッドシーンやる緒形拳は初めて見たよ」などと評した[54]

興行成績

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グランプリと大麻騒動で大きな話題を呼んだこともあって『楢山節考』『戦場のメリークリスマス』とも大ヒットした[11][45]。『楢山節考』は1983年4月29日から東映系全国140館で公開[55]。受賞から一夜明けた5月20日から全国的に大入りの盛況となった[55]。公開当初は5、6億円のペースだったが[40]、マスメディアの大々的な紹介もあってメーターが一気に上がり[40]、倍増の入りで配収は10億5000万円を記録した[55]。カンヌでも各国のバイヤーから250万ドル近い引き合いがあったとされ[40]テレビ放映権も1億3000万円で売れ[47]、ビデオなども含め総額20億円くらいの商売になったといわれる[40]。これにより今村は映画学校の経営立て直しに役立てることができたという[47]

脚注

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  1. ^ 1983年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山中登美子「話題作の現場から まだリアリズムで撮る手が残っている! 今村昌平監督がオール・ロケで撮影中の『楢山節考』」『映画情報』、国際情報社、1982年11月号、26–28頁。 
  3. ^ a b c d e 第30回東京国際映画祭 | 『楢山節考』デジタルリマスター版上映 あき竹城、入院中の母のためにも熱演
  4. ^ a b 『楢山節考』上映会 糸魚川|イナ日記
  5. ^ 長野県小谷村観光公式サイト|雪と緑と温泉のふるさと、信州おたりの自然
  6. ^ 映画は狂気 2010, p. 140.
  7. ^ 垣井 1987, pp. 40–41.
  8. ^ 「東映京都・日下部五朗プロデューサー に聞く 『東映というメジャーな場があるから』」『AVジャーナル』1993年10月号、文化通信社、30頁。 
  9. ^ a b c d シネマの極道 2012, pp. 130–134.
  10. ^ a b 日下部五朗 (2013年9月24日). “連載 私の名画座招待席 『勲章を1本残したい(上)』”. デイリースポーツ (神戸新聞社): p. 18 
  11. ^ a b c d e f g h i j k 東映の軌跡 2016, pp. 316–317.
  12. ^ a b 「一九八〇年の日本映画を考える(上) 企画が行き詰ったとき、いつでも帰っていける安全な世界だった『二百三高地』 植田泰治・東映テレビ局プロデューサー」『シネ・フロント』、シネ・フロント社、1983年3月号、20頁。 
  13. ^ 堀江毅「1983年の日本映画を考える=2 1億円かけて1人の作家を育てる力はないと会社はいうけれど...」『シネ・フロント』、シネ・フロント社、1984年3月号、29頁。 
  14. ^ a b 活動屋人生 2012, p. 45.
  15. ^ 「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1984年10月下旬号、164頁。 
  16. ^ a b c d e 吉本隆明. “ふたつのポルノ映画まで”. 「映画芸術」1983年8月~10月 第346号 発行:編集プロダクション映芸 50-53頁。 
  17. ^ a b c d 撮る 2001, pp. 74–76.
  18. ^ a b 荒井晴彦. “今村昌平を語る リアルと寓意の間に インタビュー・池端俊策”. 映画芸術」2006年秋 第417号 発行:編集プロダクション映芸 76–80頁。 
  19. ^ a b c 香取 2004, pp. 364–365.
  20. ^ ドラマ人間模様 羽田浦地図 - NHK放送史
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 週刊現代2023年5月20日号・週現「熱討スタジアム」第468回・映画『楢山節考』を語ろうp140-143
  22. ^ a b 香取 2004, pp. 370–371.
  23. ^ a b c d 「追悼 映画監督 今村昌平 緒形拳」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、2006年8月上旬号、49-50頁。 
  24. ^ a b 五社巴「今月の封切作品ガイド 『楢山節考』」『ロードショー』1984年3月号、集英社、197頁。 
  25. ^ a b c d e ぴあ映画チラシ
  26. ^ a b c d 歌手・女優の坂本スミ子さん パルムドール表彰式の思い出|日刊ゲンダイ
  27. ^ a b c d e f 鈴木隆 (2008年8月11日). “訪ねたい:銀幕有情 楢山節考(長野・小谷)”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 5 
  28. ^ 日本映画学校 OB牧場 - 株式会社シネマネストJAPAN
  29. ^ 野村正昭. “今村昌平全映画 作品解説”. 「映画芸術」2006年秋 第417号 発行:編集プロダクション映芸 84頁。 
  30. ^ 「今村昌平が『楢山節考』のリメイクに挑戦中」『ロードショー』1982年8月号、集英社、219頁。 
  31. ^ a b 津川雅彦「追悼 わが友、緒形拳 最期のことば ガタ、おまえの死に様は理想的だったー」『文藝春秋』2008年12月号、文藝春秋、264頁。 
  32. ^ a b c d e f 映画は狂気 2010, pp. 141–143.
  33. ^ a b c d e 香取 2004, pp. 371–375.
  34. ^ a b c d e 「こちら『楢山節考』はドタン場でピンチに」『週刊読売』1983年4月17日号、読売新聞社、33頁。 
  35. ^ 垣井 1987, p. 46.
  36. ^ 活動屋人生 2012, p. 175.
  37. ^ 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナルワイド版 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして」『キネマ旬報』1987年3月上旬号、キネマ旬報社、94–95頁。 
  38. ^ a b 加藤千代「《話題の人・訪問》 『郡上一揆』に出演した緒形直人さん」『シネ・フロント』2000年11月号 No.289、シネ・フロント社、10頁。 
  39. ^ a b c d e f g 「『楢山節考』グランプリ受傷」『週刊新潮』1983年6月2日号、新潮社、17頁。 
  40. ^ a b c d e 「映画・トピック・ジャーナル グランプリを獲った『楢山』も、逃した『戦メリ』も、共に興行は大成功で、カンヌの影響が一気に噴出する」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1983年7月上旬号、166-167頁。 
  41. ^ a b c d e f g シネマの極道 2012, pp. 11–20.
  42. ^ a b c 華やかな舞台の裏側『シネマの極道 映画プロデューサー一代』日下部五朗さん(2/3ページ)(Internet Archive)
  43. ^ 楢山節考 - 芸能ジャーナリスト・渡邉裕二のギョウカイヘッドロック
  44. ^ a b c d e f g h i j k 「映画より面白い カンヌ映画祭の逆転逆転また逆転」『週刊文春』1983年6月2日号、文藝春秋、186-189頁。 
  45. ^ a b c d 「今村昌平監督のお怒りはごもっともだが...」『週刊文春』1983年6月2日号、文藝春秋、192頁。 
  46. ^ 今年は木村拓哉も登場! カンヌ国際映画祭を彩った歴代日本人をプレイバック
  47. ^ a b c d 映画は狂気 2010, pp. 143–145.
  48. ^ a b c 香取 2004, p. 392.
  49. ^ a b c d 田山力哉「第36回カンヌ国際映画祭カンヌ映画祭報告Ⅰ 二本の日本映画が映画祭の話題を独占!」『キネマ旬報』1983年7月上旬号、キネマ旬報社、84-85頁。 
  50. ^ a b 細川直子「カンヌ映画祭での二本の日本映画評」『キネマ旬報』1983年7月上旬号、キネマ旬報社、90-92頁。 
  51. ^ 齋藤敦子「追悼 映画監督 今村昌平 映画祭で受賞するということ。今村昌平の場合」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、2006年8月上旬号、49-50頁。 
  52. ^ 村川英「第36回カンヌ国際映画祭報告Ⅱ 大島渚インタビュー 国際的視野に立った映画作りを」『キネマ旬報』1983年7月上旬号、キネマ旬報社、89-93頁。 
  53. ^ 田山力哉「日本映画に話題集中、寂しいフランス映画の低迷」『ふらんす』、白水社、1983年7月号、7-8、15頁。 
  54. ^ 「《人物日本列島 深沢七郎》 『これねえ、よく見たら女性のアソコに似てるでしょ!』」『週刊宝石』1983年6月3日号、光文社、153頁。 
  55. ^ a b c 指田洋「世界で評価される日本映画の国内的価値 国際映画祭と国内興行の関連性」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、2000年7月下旬号、73頁。 

注釈

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  1. ^ 後年の特集記事では、「元々あった7、8棟の家屋はそのまま使い、空撮で映えるようにスタッフたちで低層の家をいくつか新たに建てた」とも言われている[21]
  2. ^ 直人は「父から理由を告げられずに背負子に乗せられ、当時思春期迎えていた僕は通りすがりの人に見られるのが恥ずかしくてたまらなかった」と回想している[21]
  3. ^ 具体的には、息子たちが理由を付けて茶色い風呂に入ろうとしないことを、緒形はスタッフから聞いて駆けつけた。緒形は「映画の仕事をする人たちがヘロヘロになっても、次の日また現場を頑張れるのがどうして分かるか?一日仕事を頑張ったら、食事をして風呂に入ってきちんと眠る。そしてまた一日を始める。それが仕事の“土台”なんだ」と諭したという[21]
  4. ^ 木下恵介の『楢山節考』もヴェネツィア国際映画祭に出品された際、同じく日本映画である稲垣浩監督作品の『無法松の一生』とグランプリを争う頂上決戦の形となり、この時は『無法松の一生』に軍配が挙がった。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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