コンテンツにスキップ

梁熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

梁 熙(りょう き、? - 385年)は、五胡十六国時代前秦の人物。小字は白瓜。

生涯

[編集]

前秦に仕え、中書令の地位にあった。

376年5月、苻堅の命により、梁熙は武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・歩兵校尉姚萇らと共に、与えられた13万の兵を率いて前涼へ侵攻し、秦州刺史苟池河州刺史李弁涼州刺史王統が三州の兵を率いて後続となった。前涼の君主の張天錫は龍驤将軍馬建に2万の兵を与え、前秦軍を迎え撃たせた。8月、梁熙らは清石津から黄河を渡って河会城へ侵攻し、守将の驍烈将軍梁済を降伏させた。さらに梁熙は苟萇と共に石城津から渡河し、纒縮城を攻めてこれを攻略した。馬建は大いに恐れ、楊非から清塞まで撤退した。張天錫は征東将軍常據へ3万の兵を与えて洪池へ派遣し、自らもまた5万の軍で金昌城へ出征した。前秦軍はさらに馬建軍1万を撃破し、さらに洪池へ進んで常據軍を破った。清塞まで侵攻すると、張天錫は司兵趙充哲・中衛将軍史景に勇軍5万を与えて迎撃させたが、赤岸においてこれを破り、3万8千の兵を討ち取った。張天錫は数千騎を率いて姑臧へ撤退するも、前秦軍が姑臧まで進軍すると遂に降伏した。これにより涼州の郡県はみな前秦へ降伏した。

9月、梁熙は持節・西中郎将・涼州刺史・領護西羌校尉に任じられ、姑臧の鎮守を命じられた。梁熙は清廉・倹樸にして民を善く慰撫したので、河西の地は大いに安んじられた。また、前涼の武威郡太守索泮を別駕に、宋皓を主簿に取り立てた。

同月、西平人の郭護が前秦の統治を拒んで反乱を起こしたが、梁熙は宋皓を折衝将軍に任じて討伐を命じ、乱を鎮圧させた。

378年9月、苻堅の命により、梁熙は西域へ使者を派遣し、前秦の威徳が高まっている事を触れ回り、さらに繒彩を諸国の王へ贈った。これにより、10を超える国家が前秦へ朝献するようになった。10月、大宛からは千里を走るといわれる天馬が献上され、いずれも汗血・朱鬣・五色・鳳膺・麟身を始めとした諸々の珍異な種であり、総勢500種余りに及んだ。

378年2月、苻堅は長楽公苻丕に10数万の兵を与え、諸将を統率させて東晋領の襄陽へ侵攻させた。苻丕は同年4月には襄陽へ到達して城を包囲したが、7カ月が経過しても城は陥落の気配を見せなかった。379年1月、苻堅は自ら長安より軍を率いて苻丕らの救援に向かい、冀州苻融に関東六州の兵を率いさせて寿春で合流させ、梁熙には涼州軍を率いさせて後軍としようと考えた。しかし、苻融はこれを諫めて「陛下が江南を取りたいと思っているならば、固く博謀・熟慮すべきであり、慌ただしく行うべきではありません。もし襄陽を取るだけで止めようとしているならば、どうして親征するに足りましょうか。一城のためだけに天下の衆を動かすなどありえません。いわゆる『随侯之珠、弾千仞之雀(得る事が少なく失う事が多い事の比喩)』という事です」と述べ、梁熙もまた「晋主(東晋の孝武帝司馬曜)の暴は孫晧ほどではなく、江山の険固な様は守るに易く攻めるに難いです。陛下は必ずや江表(江南)を廓清せんと望み、多くの将帥を任命しておられます。関東の兵を引き、南は淮・泗より臨み、下は梁・益を卒し、東は巴・陝より出しているというのに、どうして鸞輅(皇帝の車)を親屈(君主自ら行動する事)させ、遠く沮沢の地(湿地帯)にまで巡幸する必要がありましょうか。昔、漢光武公孫述を誅し、晋武帝は孫晧を捕らえましたが、未だ二帝が自ら六師を統率したなど聞き及んでおりません。枹鼓を自ら執れば、矢石を蒙る事にもなりますぞ」と諫めた。これを受け、苻堅は考えを改めた。同年2月には苻丕は襄陽を攻め落とす事に成功した。

前秦の安西将軍呂光383年1月より西域征伐に赴き、384年には西域全土を服属させた。当時、前秦は東晋征伐を敢行するも大敗を喫し、国内は大いに乱れていたので、呂光の下に苻堅からの命は届かず、彼は自らの判断で西域より軍を帰還させる事を決断した。

385年9月、呂光の軍勢は宜禾まで到達したが、梁熙は呂光の動向を警戒しており、境を閉じてその帰還を阻もうと考えた。前秦の高昌郡太守楊翰は梁熙へ「呂光は西国を定めたばかりであり、兵は強く気鋭であり、鋒を合わせるべきではありません。その考えを推し計りますに、必ずや異図(前秦から離反する考え)を有しておりましょう。今、関中は擾乱となっており、京師の存亡は分からぬからです。河の以西より流沙までは万里の遠方にあり、10万の兵を有しているとなれば、自らを保つには十分でしょう。鼎峙の勢は誠に今日の話となりましょう。もし光が流沙を出れば、その勢に対抗するのは難しくなります。高梧・谷口は水険の要であり、先にこの地を抑えて水を奪うべきです。彼らは渇き窮せば、自ずと戈を投じるでしょう。遠くて守るに難しいのであれば、伊吾の関で距んでもよいでしょう。もしこの二要を抑えれば、子房(漢の三傑の一人の張良)の策といえども図るのは難しくなりましょう。地には必争する所があり、これこそ真に機といえましょう」と勧めたが、梁熙は従わなかった。

さらに美水県令張統は梁熙へ「主上(苻堅)は国を傾けて南討しましたが、覆敗して帰還しました。関中は大乱に陥り、京師の存亡は分かりません。慕容垂は河北で恣まに振る舞い、泓(慕容泓)・沖(慕容沖)は京師を寇逼しており、丁零や雑虜が関・洛で跋扈し、州郡の奸豪は至る所で風扇し、王綱は弛絶し、人は利己を求めんとしております。今、呂光は軍を返しましたが、その志は測り難いものがあります。将軍はどのようにこれを拒まれますか」と問うと、梁熙は「誠に深く憂いているが、どう計を為すべきか分からぬのだ」と答えた。すると張統は「光(呂光)は雄果にして勇毅であり、智略は常人を超越しております。今、西域の威を除いた事で、帰師には勢いがあります。その鋒は野原における猛火の盛であり、これに対抗すべきではありません。将軍は代々殊恩をうけており、忠誠はかねてより明らかであり、王室に勲を立てて今に至っております。行唐公洛(苻洛)は上(苻堅)の従弟であり、その勇猛ぶりは当代随一であります。将軍が計を為すのであれば、彼を盟主として奉じ、衆人の望みを治めるべきです。群豪を総率して忠義を推せば、光であっても異心を抱く事は無くなりましょう。その精鋭を足掛かりに、東は毛興(河州刺史)を兼ね、王統(秦州刺史)・楊璧(南秦州刺史)と連なれば、四州の衆は集結し、諸夏の凶逆を一掃出来、関中において帝室が安んじる事も出来ましょう。これこそ桓文(桓公文公)の挙であります」と建議した。だが、梁熙はこれにも従わず、却って苻洛の存在を危険視するようになり、西海において処刑してしまった。

呂光もまた楊翰の謀略を聞いて憂慮し、軍をここに留めようと考えた。だが、杜進はこれを諫めて「梁熙は文雅であると評判ですが、機鑒が不足しております。進言を納れて従う事など出来ず、憂うに足る存在ではありません。上下の心は一つではないと聞き及んでおり、ここは速進すべきです。進んでもし勝利を得られなくば、過言の誅を受ける所存です」と述べると、呂光はこれに従って進軍を続けた。

同月、呂光の軍勢が高昌まで到達すると、楊翰は郡ごと降伏して迎え入れた。さらに呂光軍が玉門まで進撃すると、梁熙は各地へ檄文を飛ばし、呂光が命を違えて自らの独断で軍を返した事を責めると共に、子の梁胤を鷹揚将軍に任じ、振威将軍姚皓・別駕衛翰と共に5万の兵を与え、酒泉において進路を遮断させた。だが、敦煌郡太守姚静晋昌郡太守李純はこれに応じず、郡を挙げて呂光に降伏した。呂光もまた涼州各地へ檄文を飛ばし、梁熙に赴難の誠(苻堅の危機を救おうとしない事)が無く、勝手に帰還を阻もうとしているとして、その罪を数え上げた。そして彭晃・杜進・姜飛らを軍の前鋒として安弥に進ませ、梁胤を攻撃して大いに敗った。梁胤は配下の数百騎と共に東へ逃走したが、杜進はこれを追撃して捕らえた。ここにおいて四山の胡人はみな帰順を申し出た。

同月、武威郡太守彭済は政変を起こして梁熙を捕らえると、姑臧城を開いて呂光へ降伏を請うた。こうして呂光は姑臧へ入城を果たすと、梁熙は処刑された。

これにより涼州の郡県は尽く呂光に降ったが、西郡太守索泮・酒泉郡太守宋皓らだけは梁熙への忠義を貫いて降伏を拒み、呂光に処刑された。

怪異譚

[編集]
  • まだ前涼が存続していた頃、前涼の天水郡太守史稷は急死したが、50日後に蘇って「涼州の謙光殿の中に、白瓜が生い茂るのが見える」と告げたという。後に前秦軍の攻勢により前涼は滅亡したが、梁熙の小字は白瓜だった。
  • 苻堅の末年、当陽門が震動するといった出来事が起きた。西平郡主簿郭黁は天文に明るく、占候に長けていたので、梁熙は彼へ「これは何の祥なのか」と問うた。すると郭黁は「四夷に関する事です。外国の2王が主上へ来朝しますが、1人は国へ帰り、1人はこの城(姑臧)で死ぬでしょう」と答えた。1年余りすると、車師前部王弥窴・鄯善王休密馱が苻堅の下へ来朝したが、西へ帰還する途上に休密馱は姑臧で亡くなったという。

参考文献

[編集]