柳田館
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柳田館 (岩手県) | |
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別名 | 片寄城、吉兵衛館、中野館 |
城郭構造 | 城館 |
天守構造 | なし |
築城主 | 片寄氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 中野康実 |
廃城年 | 1613年(慶長17年)以降 |
遺構 | 堀、土塁 |
指定文化財 | 町指定史跡「片寄城跡」 |
位置 | 北緯39度31分44.0秒 東経141度06分08.0秒 / 北緯39.528889度 東経141.102222度座標: 北緯39度31分44.0秒 東経141度06分08.0秒 / 北緯39.528889度 東経141.102222度 |
地図 |
柳田館(やなぎだたて)は、岩手県紫波郡紫波町片寄にあった日本の城。別称は片寄城・吉兵衛館・中野館。「片寄城跡」として紫波町指定史跡[1]。
概要
[編集]柳田舘は従来「吉兵衛館」、あるいは「中野館」と伝承され、柳田館の名称は所有者の屋号により、「柳田」所有の館跡として呼称されるものである。
東北自動車道建設に伴ない、東館の大部分と北・南館の一部の発掘調査が1975年(昭和50年)、1976年(昭和51年)の2次にわたり実施された[2]。
安倍道や奥大道などの古道を見下ろせる丘陵上にあり、東・南・北の3郭からなり、本丸にあたる南館は南西の頂部400メートル×200メートルの規模[3]で鞍部を挟んで、北館の平坦地に連なっている。
1975年(昭和50年)3月25日、「片寄城跡」として紫波町指定史跡に指定された[1]。
沿革
[編集]天正16年(1588年)の斯波氏の滅亡ののち、中野康実が南部信直より片寄3000石を賜わり、片寄修理と称す(『奥南旧指録』ほか)。
天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「糠部郡之内 片寄 山城 中野 修理 持分」と記されている。
慶長17年(1613年)修理康実の子、正康の代に至って郡山城に移っている。
紫波地方における城館は、伝承にあるが明確な遺構の判明していない館跡や、文献に記される館城についても史料が極めて少なく所在地が比定できない例がある[4]。
脚注
[編集]- ^ a b 「紫波町内指定文化財一覧」紫波町公式HP
- ^ 児玉・坪井 1980
- ^ (地図閲覧システム) 国土地理院
- ^ 「大瀬川館遺跡と柳田館遺跡出土の陶磁器について」『岩手県立博物館研究報告』
参考文献
[編集]- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2。