松平親信
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松平親信 まつだいら ちかのぶ | |
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華族画報社『華族画報』より | |
生年月日 | 1875年12月21日 |
没年月日 | 1914年12月18日(38歳没) |
死没地 |
日本 東京府東京市浅草区 (現・東京都台東区) |
出身校 |
東京帝国大学大学院修了 東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業 |
所属政党 | 研究会 |
配偶者 | 松平岳子 |
子女 |
長男・松平親義 三男・松平精 |
親族 |
義兄・徳川義礼(貴族院議員) 義兄・徳川篤敬(貴族院議員) 義兄・松平頼寿(貴族院議員) |
在任期間 | 1906年2月9日 - 1914年12月18日 |
松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12月21日[1] - 1914年〈大正3年〉12月18日[1][2][3])は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・龍若[1][4][5]。
経歴
[編集]旧杵築藩主松平親貴の長男として生まれる[1][4][3]。父の死去に伴い1882年(明治15年)10月12日に家督を継承し親信と改名[1][4][5]。1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した[6]。
学習院高等科を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに同大学院を修了した[1][5]。浅草区教育会長を務めた[5]。
1906年(明治39年)2月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]、死去するまで在任した[2][9]。会派は研究会に所属した[10]。
1914年12月18日、東京市浅草区(現・台東区)浅草北三筋町の自宅で病のため死去した[3][11]。
親族
[編集]- 母 松平ひで(松平乗懿長女)[1][5]
- 妻 松平岳子(たかこ、松平頼聰四女)[1][5]
- 長男 松平親義(貴族院子爵議員)[1][5]
- 長女 稲葉栄子(稲葉正弘夫人)[1][5]
- 二男 酒井忠惇(旧名・惇〔まこと〕、酒井忠純養子)[1][5]
- 三男 松平精(ただし、辻太郎養子、のち離縁)[1][5]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『平成新修旧華族家系大成 下巻』635-636頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』56頁。
- ^ a b c 『大正過去帳』54頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第3版』ま73頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『華族畫報 上』324頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、16頁。
- ^ 『官報』第6782号、明治39年2月10日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、22頁。
- ^ 『研究会所属貴族院議員録 : 創立より解散まで 129コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 日本歴史地名大系. “浅草北三筋町(あさくさきたみすじまち)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年11月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 杉謙二編『華族畫報 上』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (杵築)能見松平家初代 1884年 - 1914年 |
次代 松平親義 |