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東風平安度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東風平親方安度(こちんだうぇーかたあんど、? - 1839年10月21日[1])は、琉球王国官僚。唐名は毛惟新(もう いしん)を名乗った。別名に、沢岻親方安度(たくしうぇーかたあんど)がある。

尚育王は即位に際し、1832年江戸謝恩使を派遣した。この際東風平は副使に任命され、正使の豊見城王子朝春と共に江戸に派遣された。しかしながら、正使の豊見城が鹿児島で急死したため、讃議官として江戸上りに同行していた普天間朝典(兼城朝典としても知られる)を替え玉として正使の豊見城に仕立てて、江戸に向かった。一行は翌年に帰沖した。

1836年から1839年にかけては、三司官務めた[1]

脚注

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公職
先代
宜野湾朝昆
三司官
1836 - 1839
次代
小禄良恭