李家裕二
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李家 裕二(りのいえ ゆうじ、1859年10月20日(安政6年9月25日)- 1901年(明治34年)4月29日[1])は、日本の内務官僚。三重県知事(官選第7代)、徳島県知事(官選第15代)、内務省神社局長(初代)。旧名・左馬之助[2]。
経歴
[編集]長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で、長州藩士の家に生まれる[2]。
東京英語学校、東京大学予備門を経て、1884年7月、東京大学文学部政治学及理財学科を卒業した[2]。
1884年7月17日、内務省に入省し同省御用掛に就任。1886年3月、内務属となり、県治局郡区課勤務となる[2]。1887年11月、内務書記官に昇格。長野県書記官を経て、1898年7月、三重県知事に就任[3]。1899年2月、徳島県知事に転任[4]。1900年4月、初代の内務省神社局長に転じた[5]。1901年4月17日、依願免本官となり退官した[6]。
官歴
[編集]- 1887年(明治20年)11月11日 - 内務書記官(奏任官五等) 任官[7]、上級奉俸下賜[8]。
- 長野県書記官 任官
- 1895年(明治28年)4月12日 - 長野県参事会員 任命[9]
- 1898年(明治31年)7月16日 - 三重県知事 任官
- 1899年(明治32年)2月21日 - 三重県知事 免官、徳島県知事 任官
- 1900年(明治33年)4月27日 - 徳島県知事 免官、内務省神社局長 任官
- 1901年(明治34年)4月17日 - 内務省神社局長 免官
栄典
[編集]- 1891年(明治24年)12月22日 - 従七位[12]
- 1893年(明治26年)9月30日 - 正七位[13]
- 1895年(明治28年)12月10日 - 従六位[14]
- 1897年(明治30年)12月24日 - 正六位[15]
- 1898年(明治31年)8月4日 - 正五位[16]
- 1901年(明治34年)7月20日 - 従四位[17]
脚注
[編集]- ^ 『山口県人物・人材情報リスト 2011』693頁。
- ^ a b c d 「内務属李家裕内務書記官ニ被任ノ件」
- ^ 『新編日本の歴代知事』607頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』871頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』92頁。
- ^ 『官報』第5334号、明治34年4月18日。
- ^ 『官報』第1314号「叙任及辞令」1887年11月14日。
- ^ 『官報』第1315号「辞令」1887年11月15日。
- ^ 『官報』第3533号「辞令」1895年4月13日。
- ^ 『官報』第5054号「辞令」1900年5月11日。
- ^ 『官報』第5105号「叙任及辞令」1900年7月10日。
- ^ 『官報』第2546号「叙任及辞令」1891年12月23日。
- ^ 『官報』第3079号「叙任及辞令」1893年10月2日。
- ^ 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
- ^ 『官報』第4347号「叙任及辞令」1897年12月25日。
- ^ 『官報』第4530号「叙任及辞令」1898年8月5日。
- ^ 『官報』第5415号「叙任及辞令」1901年7月22日。