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朴吉南

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朴吉南
生誕 1911年
死没 1987年[1]
所属組織 ソ連軍
朝鮮人民軍
最終階級 大尉(ソ連軍)
少将(人民軍)
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朴吉南
各種表記
ハングル 박길남
漢字 朴吉南
朴吉男
発音: パク・キルラム
パッキルラム
M-R式 Pak Killam
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朴 吉南(パク・キルラム、박길남)は、朝鮮民主主義人民共和国軍人ソ連派に所属。ロシア名はニコライ・ニコラーエヴィチ・パク(ロシア語: Николай Николаевич Пак[2][3]

経歴

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1911年、ニコリスク・ウスリースキー出身[3]。1934年9月から1936年10月までソ連軍に勤務。1938年、ソ連軍に再招集。1941年、ソ連軍偵察学校卒業[4]兪成哲によれば朴吉南は偵察学校の朝鮮人学生としては1期生で、朴を含め同期は6人だった[5]極東ソ連軍に配属され、日本軍支配地域に潜入工作[4]東北抗日連軍で活動[6]第88旅団に配属され、第1大隊第2中隊小隊長[7]。この部隊には金日成がいたが、朴の妻が軍服の丈を詰めてくれという金日成の頼みを断ったことから憎しみを買ったという[8]

1945年9月、第88旅団隊員と共にソ連軍艦のプガチョフ号に乗船して9月19日に元山港に入港[9]。第25軍政治委員レベデフ少将の通訳に任命[10]

1946年7月20日、中央保安幹部学校が開校して射撃学部部長に就任[11]。同年9月、保安幹部訓練大隊工兵副部長[12]

1948年、工兵部長の黄虎林が副総参謀長に昇進すると、工兵部長に就任[13]。 同年9月、民族保衛省工兵局長[14]

1950年6月23日、朝鮮人民軍前線司令部工兵局長[15]

1950年代後半に逮捕され、40日間イデオロギー調査をされる[2]。釈放後はソ連大使館のマルチェフスキー将軍の部署に避難し、長期に及ぶ交渉の結果、ソ連大使館は、朴を朝鮮当局からソ連に帰す許可を得た[2]。これには朴の妻がソ連のエリート達に知られており、そのコネクションから決定されたと言われている[2]

人物

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  • 部下である朱栄福が日本軍に服務していたことを知っていたが、彼を信じて昇進の推薦などを行った。朱は「こんな良い上官に仕えてきたのを、僕は幸いだと思う。こういう人には一生のうち二度と会えるものでない」と書いている[16]
  • 1950年8月の解放記念日に「いったい日本の武力統治時代に、彼らに協力せずにどうやって国民が存続しえただろう。南朝鮮に反動分子は多いというが、環境によって当局に協力しなければならないのは、当たり前じゃないか」とつぶやいている[16]
  • 兪成哲は朴を親友と見ていた[17]。いつ粛清されるか戦々恐々としていたときに訪れて「金日成はいま、三種の類型に分類した粛清名簿を持っている。第一の分類対象は処刑し、第二の分類は無期限労役に就かせ、第三の分類は出国を希望すれば、追放するということになっている。ぼくらは第三の分類に入れられている」と教えてもらったという[17]

勲章

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出典

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  1. ^ 우동현 2016, p. 68.
  2. ^ a b c d ランコフ 2011, p. 114.
  3. ^ a b c Шин, Пак & Цой 2011, p. 383.
  4. ^ a b 金 2012, p. 260.
  5. ^ 金 2012, p. 316.
  6. ^ 和田 1992, p. 332.
  7. ^ 和田 1992, p. 317.
  8. ^ 東亜日報 & 韓国日報 1992, p. 72.
  9. ^ “직계만 빼놓곤 숙청” (朝鮮語). 中央日報. (1982年3月27日). https://news.joins.com/article/1625404 2018年12月22日閲覧。 
  10. ^ 東亜日報 & 韓国日報 1992, p. 85.
  11. ^ 赤木 2003, p. 8.
  12. ^ 赤木 2003, p. 10.
  13. ^ 朱 1992, p. 77.
  14. ^ 赤木 2003, p. 24.
  15. ^ 朱 1992, p. 224.
  16. ^ a b 朱 1992, p. 367.
  17. ^ a b 東亜日報 & 韓国日報 1992, p. 154.

参考

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