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明戸古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明戸古墳
明戸古墳石棺
明戸古墳石棺
所属 国府台古墳群
所在地 千葉県市川市国府台里見公園内
位置 北緯35度44分54.7秒 東経139度53分54.0秒 / 北緯35.748528度 東経139.898333度 / 35.748528; 139.898333座標: 北緯35度44分54.7秒 東経139度53分54.0秒 / 北緯35.748528度 東経139.898333度 / 35.748528; 139.898333
形状 前方後円墳
規模 全長40メートル
築造時期 6世紀後半
被葬者 不明
地図
明戸古墳の位置(千葉県内)
明戸古墳
明戸古墳
千葉県内の位置
地図
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墳頂の全天球画像
360°インタラクティブパノラマで見る
墳丘の全天球画像
360°インタラクティブパノラマで見る

明戸古墳(あけどこふん)は千葉県市川市にある古墳国府台城土塁とされていたため、古墳としての判断がつかなかったが、石棺付近の不自然な屈曲により、前方後円墳と判断された[1]6世紀後半ごろ作られた。市川市の古墳の中で墳丘が現存するのは国府台の4基のみで、法皇塚古墳, 弘法寺古墳と共に、旧下総国葛飾郡域最大の国府台古墳群の主要古墳である[2]

概要

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江戸名所図会 7巻. [20] の国府台古戦場の一部[3]

里見公園内に立地。後円部中央に位置する2基の箱式石棺が露わになっている状態。その石材は黒雲母片麻岩、いわゆる筑波石で筑波山麓から水運で運ばれたものと考えられている[4]。石棺は市の文化財にも指定されている。石棺は『江戸名所図会[5]『成田参詣記』[6]にも描かれている。明戸古墳周辺から埴輪も発掘されている。1981年昭和56年)の測量で、前方後円墳の墳丘は約40mと推定されている[7][8][9]

構造

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市川市国府台3丁目、里見公園内にあり、江戸川に面し、下総台地西縁部の台地上に立地している[10]。2基の露出した箱式石棺をもとに想定したものである。石棺は里見公園のほぼ中央に位置している[10]

国府台合戦あるいは中世の館のの造営に伴って土塁や濠をめぐらせたりしたために地形を変えてしまい、2基の箱型石棺も古墳の封土が削り取られ、露呈してしまったと考えられる[10]。以上のことから墳形および規模に関しては、それを復原するべき根拠に乏しく、正確な数値は得ることはできない[11]

1982年(昭和57年)2月19日から26日にかけて大塚初重明治大学教授の指導のもとに実施された実測調査において、一応の復原値として、全長約40m、後円部径約21m、前方部前端部幅約28mであり、その主軸方位は、N-38°-Wを示す。前方部においては、標高28.69m、後円部では28.65mを示している[12]。その前方部の高さについては、5.1mを測る[12]

出土品

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『江戸名所図会』に「その頃櫃のうちより甲冑・太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、いまその一、二を存して総寧寺に所蔵せり」と記載がある[13]も、現在確認できるのは円筒埴輪と形象埴輪の小破片のみである(市川考古博物館と個人所蔵)[14]

交通アクセス

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  • 鉄道
  • バス
    • JR市川駅北口、または京成国府台駅から「松戸駅行き」または「松戸営業所行き」バスで「国府台病院」下車、徒歩10分[15] 

脚注

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  1. ^ 市川市考古・歴史博物館『図設 市川の歴史(第二版)』市川市教育委員会、85-86頁。 
  2. ^ 市史研究いちかわ編集委員会『市史研究いちかわ第8号』市川市役所 文化スポーツ部 文化振興課、2017年3月24日、45頁。 
  3. ^ 松濤軒斎藤長秋 著 他『江戸名所図会 7巻. 20』1834-1836。doi:10.11501/2559059国立国会図書館書誌ID:000007277957https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559059 p.21/61
  4. ^ 市史研究いちかわ編集委員会『市史研究いちかわ第8号』市川市役所 文化スポーツ部 文化振興課、2017年3月24日、60頁。 
  5. ^ 江戸名所図会 國府薹古戰場, pp. 312–313.
  6. ^ 『現代語訳 成田参詣記』大本山成田山新勝寺 成田山仏教研究所、1998年4月28日、75頁。 
  7. ^ 市川市の古墳『山路直充』弘文社、2004年9月1日、13-15頁。 
  8. ^ 市川市出土の埴輪『市立市川考古博物館』市立市川考古博物館、2002年3月17日、6頁。 
  9. ^ 市川市史歴史編III編集委員会『市川市史 歴史編 III』市川市、2019年1月31日、46頁。 
  10. ^ a b c 市川市史編纂委員会『市川市史 第一巻』市川市、1971年9月10日、384頁。 
  11. ^ 市立市川博物館  『市立市川博物館年報 No.10』市立市川博物館、1982年6月、21頁。 
  12. ^ a b 市立市川博物館  『市立市川博物館年報 No.10』市立市川博物館、1982年6月、22頁。 
  13. ^ 江戸名所図会 國府薹古戰場, p. 313.
  14. ^ 市川市出土の埴輪『市立市川考古博物館』市立市川考古博物館、2002年3月17日、33-40頁。 
  15. ^ 文化財(市指定)明戸古墳石棺 | 市川市公式Webサイト”. www.city.ichikawa.lg.jp. 2022年6月26日閲覧。

参考文献

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  • 大本山成田山新勝寺 成田山仏教研究所「現代語訳 成田参詣記」(1998年)
  • 山路直充「市川市の古墳」(市川博物館友の会、2004年)
  • 市立市川考古博物館「市川市出土の埴輪」(市立市川考古博物館、2002年)
  • 市川市史歴史編III編集委員会「市川市史 歴史編 III」(市川市、2019年)
  • 斎藤幸雄「巻之七 揺光之部 國府薹古戰場」『江戸名所図会』 4巻、有朋堂書店、1927年、309-320頁。NDLJP:1174161/159