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戸塚文海

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戸塚文海

戸塚 文海(とつか ぶんかい、天保6年9月3日1835年10月24日) - 明治34年(1901年9月9日)は、日本海軍軍人医師茶人。最終階級は海軍軍医総監。海軍軍医制度創設に貢献した。

経歴

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備中国浅口郡玉島村(現在の倉敷市)出身。中桐幸右衛門の息子として生まれ、幕府奥医師・戸塚静海の養子となる。適塾シーボルトに学び、将軍侍医となる。

明治維新後、静岡病院頭となる。明治5年(1872年)、海軍省5等出仕となり、軍医寮学舎長、海軍省医務局長兼本病院長、本病院長などを歴任し、明治9年(1876年)12月、海軍軍医総監少将相当)に進級した。

明治10年(1877年)1月から同16年(1883年)10月まで医務局長に在任。明治15年(1882年)8月から同20年(1887年)1月まで有志共立東京病院長を勤めた。明治28年(1895年)12月、後備役となり、明治33年(1900年)12月1日に退役した[1]

茶人としても知られ、市隠と号した。1898年(明治31年)、松浦詮(心月庵)が在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員となる。会員は、青地幾次郎(湛海)・石黒忠悳(况翁)伊藤雋吉(宗幽)伊東祐麿(玄遠)・岩見鑑造(葎叟)・岡崎惟素(淵冲)・金澤三右衛門(蒼夫)・東胤城(素雲)東久世通禧(古帆)久松勝成(忍叟)・松浦恒(無塵)・三田葆光(櫨園)・三井高弘(松籟)安田善次郎(松翁)の以上16人(後に益田孝(鈍翁)高橋義雄(箒庵)が入会)で、世に「十六羅漢」と呼ばれた。

栄典

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位階
勲章等

親族

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  • 実父・中桐幸右衛門
  • 養父・戸塚静海
  • 養嗣子・戸塚環海 (1854年生) ‐ 海軍軍医総監。愛知・林九一郞の長男。妻・はなの父は渡辺温、兄弟に渡部朔渡部康三。娘婿に百瀬結がいる。[6][7]
    • 養嗣孫 戸塚文卿 ‐ 環海の長男。医師でカトリック司祭。聖ヨハネ会桜町病院、結核療養施設「海上寮」創始者)
    • 養嗣孫 戸塚武比古 ‐ 環海の二男。海軍技術少将。東京大学工学部卒。岳父に海軍少将、日本製鋼所常務の水谷叔彦[8]

脚注

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  1. ^ 『官報』第5227号、明治33年12月3日。
  2. ^ 式部寮より大久保戸塚叙位宣下御達」 アジア歴史資料センター Ref.C04026923400 
  3. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  4. ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。
  5. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  6. ^ 戸塚環海『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  7. ^ 渡部朔『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  8. ^ 造兵科士官参拾壱頁

参考文献

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