戴国煇
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人物情報 | |
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生誕 |
1931年4月15日 日本統治下台湾 新竹州中壢郡平鎮庄 (現:桃園市平鎮区) |
死没 | 2001年1月9日(69歳没) |
学問 | |
研究分野 | 農学 |
戴 国煇 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 戴國煇 |
簡体字: | 戴国煇 |
拼音: | Dài Guóhuī |
和名表記: | たい こくき |
発音転記: | タイ・クオホイ |
戴 国煇(たい こくき、1931年4月15日 - 2001年1月9日)は、台湾の農学者、著作家。祖籍は広東省梅県。
経歴
[編集]1931年、日本統治下の新竹州中壢郡平鎮庄(現在の桃園市平鎮区)に生まれる。祖父と父は日本語を敵視していたため、日本語の習得が遅く、新竹中学に入学した後も日本人教師らからいじめられた。1945年年に日本が敗戦すると、国民政府の成立を歓迎した。二二八事件が発生すると、建国中学に在学していた戴国煇もまた弾圧を受けた。
1955年、東京大学へ留学、農業経済を学ぶ。1966年に「中国における甘蔗糖業の発展過程」により東京大学から農学博士の学位を授与される[1]。
1966年4月から1976年3月までアジア経済研究所研究員(主任調査研究員)。アジア経済研究所が刊行した雑誌「アジア経済」1969年刊行号において「台湾研究をタブー視し、台湾について書く人間を台湾ロビースト扱いする特殊な日本的雰囲気の存在」が問題であると述べていた[2]。
1976年4月から1996年3月まで立教大学教授[3]として教壇に立つ傍ら、執筆活動にも精を出していた。一時期中華民国のブラックリストに載っていたが、李登輝時代になるとブラックリストから外されたびたび台湾に帰国していた。
1996年には中華民国の総統府国家安全会議諮詢委員に招かれた。
エピソード
[編集]- 客家人意識が非常に強く初対面の小説家の司馬遼太郎に対し「司馬さん、僕客家」と紹介したエピソードがある。
- 2001年初頭、小林よしのりの台湾論を批判していた最中に死去。告別式には陳水扁などが訪れた。
- 門下から、若林正丈、春山明哲らの台湾研究者がでた[4]。
著作
[編集]- 『中国甘蔗糖業の展開』アジア経済研究所(学位論文)
- 『台灣史研究:回顧與探索』台北:遠流出版公司、1985年3月
- 『台湾』岩波新書、1988年10月(中国語訳『台湾総体相』台北:遠流出版公司、1989年9月)
- 『台湾と台湾人:アイデンティティを求めて』研文出版、1979年11月
- 『台湾往何処去』
- 『華僑:落地生根から落葉帰根への苦悶と矛盾』研文出版、1980年11月
- 『台湾霧社蜂起事件』社会思想社、1981年6月
- 『愛憎2・28:神話與史實、解開歷史之謎』台北 : 遠流出版公司、1992年2月
- 『台灣結與中國結』台北:遠流出版公司、1994年5月
- 『台湾という名のヤヌス』三省堂、1996年5月
- 『台灣史探微:現實與史實的相互往還』台北:南天書局、1999年11月(文集第1冊、続巻計画は不明)
- 『愛憎李登輝:戴國煇與王作榮的對話』台北:南天書局、2001年2月(没後出版、日本語版は草風館より刊)
参考文献
[編集]- 立教大学史学会委員会「戴国煇先生略歴と主要著作目録」『史苑』第58巻第2号、1998年、99-101頁、doi:10.14992/00001450。
脚注
[編集]- ^ “書誌事項(CiNii Dissertations)”. 国立情報学研究所. 2017年7月30日閲覧。
- ^ 野嶋剛『タイワニーズ』(小学館)P.301-303
- ^ 立教大学史学会委員会 1998
- ^ 野嶋剛『タイワニーズ』(小学館)P.302