徳川武定
生誕 |
1888年(明治21年)10月12日 日本・茨城県[1] |
---|---|
死没 | 1957年11月29日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1916年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍技術中将 |
墓所 | 豊島区の染井霊園 |
徳川 武定(とくがわ たけさだ、1888年〈明治21年〉10月12日 - 1957年〈昭和32年〉11月29日)は、日本の海軍軍人(海軍造船官)、造船学者、華族。東京帝国大学教授、海軍技術研究所所長。最終階級は海軍技術中将。工学博士。子爵。
生涯
[編集]武定の父・徳川昭武は最後の水戸藩主であったが、1883年(明治16年)に水戸徳川家の家督を甥(前藩主であった長兄・慶篤の遺児)の篤敬に譲って隠居した後、実子の武定をもうけた。1892年(明治25年)5月3日、父の勲功により特旨によって武定は華族に列し子爵を叙爵して[2]、松戸徳川家が創設された。
東京高等師範学校附属小学校、東京高等師範学校附属中学校、第八高等学校を経て[3]、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学工科大学造船学科を卒業[3][4]。
1918年(大正7年)12月に海軍造船大技士(大尉相当官)、呉海軍工廠造船部員[3][注釈 1]。海軍に入ってから平賀譲(のちに海軍技術中将・東京帝国大学総長)の部下となり、その影響を強く受けた[5]。八八艦隊計画では、4万7000トン・18インチ砲搭載の巨大戦艦を設計した。1922年(大正11年)3月から1925年(大正14年)3月まで、3年間イギリスに私費留学した[3]。
1924年(大正13年)から1944年(昭和19年)まで20年にわたって海軍技術研究所に勤務した。当初、同研究所は築地市場の傍にあったが、徳川はしばしば市場に通っては魚を観察して、新造艦のアイデアを求めたと言われている[6]。特に昭和初期に帝国海軍が優秀な潜水艦を多数保有できた[7][8]のは、徳川の研究成果によるところが大きいとされている[8][9][10][11]。1942年(昭和17年)11月、海軍技術中将に進級すると共に海軍技術研究所長に就任し、1944年(昭和19年)12月に海軍艦政本部出仕となり、1945年(昭和20年)4月に予備役に編入された[3]。
海軍士官として勤務しつつ、東京帝国大学工学部教授を、1938年(昭和13年)3月から1944年(昭和19年)10月まで兼任した[3]。
戦後は公職追放令によって、一時丸善の顧問(研究員)となる[12]が、畑違いと思われた永井荷風の研究論文で文学界の注目を集めた。また、技術者らしく「ペンを科学する」というペン先を科学的に分析した研究論文も執筆した[13]。追放解除後は、防衛庁技術研究所[14]や川崎重工業の顧問を務めて、日本の造船業の再建に尽力した。
松戸市にある武定の邸宅である戸定邸には多くの工学関連、あるいは趣味によるアフリカ関連書籍が収蔵されていた[15]。前者は藤原工業大学(慶應義塾大学に統合)、後者は天理大学に寄贈された。
1951年(昭和26年)に戸定邸を松戸市へ物納し、以後はその離れに住した。登山も楽しんだ[16]。
栄典
[編集]家族
[編集]妻は徳川達孝の四女・繡子(ぬいこ)[18](母・鏡子は昭武の七兄・徳川慶喜の長女)。その間に長女・宗子(ときこ)がおり、その婿・徳川博武(母・保子は昭武の十三兄・土屋挙直の娘)が松戸徳川家を継いだ[18]。ついで博武・宗子の子の徳川文武が3代当主となっている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 出典には、海軍造船中技士(中尉相当官)への任官については記載がない。
出典
[編集]- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「徳川武定」
- ^ 『官報』第2652号、1892年(明治25年)5月4日、p26。
- ^ a b c d e f 秦 2005, p. 232, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-徳川武定
- ^ 高木 1917, pp. 145–150.
- ^ 山本 1997, pp. 39–43.
- ^ 谷口 1970, pp. 53–57.
- ^ 鬼頭 1979, pp. 620–623.
- ^ a b 鬼頭 1967, pp. 523–528.
- ^ 竹沢 1978, pp. 467–474.
- ^ 吉織 1980, pp. 267–272.
- ^ 山本 2000, pp. 812–814.
- ^ 「鹿鳴館資料・1867年渡仏の徳川民部公子一行に関する資料・その他(德川武定氏出品)」『日仏文化交流展 : 解説及出品目録 資料,文献,絵画 日仏文化協定締結記念』文化懇話会、国際文化振興会、東洋文庫(編)、丸善、1953年(昭和28年)、p76(コマ番号0048.jp2)、全国書誌番号:54013658、doi:10.11501/2987565。戦後の日仏文化交流再開を祝う展覧会の図録。徳川は父・昭武がフランスを訪問したとき受贈した懐中時計ほかを出展した。会期は1953年(昭和28年)11月3 - 14日、会場は日本橋丸善本店。
- ^ 中村 1985, pp. 427 -.
- ^ 佐藤 2003, pp. 676–682.
- ^ 新聞集成昭和編年史 2003, p. 418.
- ^ 小林義正「徳川武定氏」『山と書物』築地書館、1957年、343頁。doi:10.11501/3013071。全国書誌番号:57000125。国立国会図書館内限定・図書館送信対象(コマ番号0191.jp2)
- ^ 『官報』第379号「叙任及辞令」1913年(大正2年)11月3日。
- ^ a b 平成新修旧華族家系大成、p173。
参考文献
[編集]主な執筆者名の50音順。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』 下巻、東京 : 霞会館、吉川弘文館 (発売)、1996年11月、173頁。:注記『昭和新修華族家系大成』1982年刊(昭和57年)の改訂版。
- 鬼頭史城「流体力学の回顧」『造船協会誌』第462号、1967年12月25日、523 - 528頁、doi:10.14856/kyokaisi.462.0_523。
- 鬼頭史城「水力学よもやまばなし」『日本機械学会誌』第82巻第727号、1979年6月5日、620 - 623頁、doi:10.1299/jsmemag.82.727_620。
- 佐藤隆一「防衛庁技術研究本部第1研究所(〈シリーズ〉研究所紹介)」『Techno marine 日本造船学会誌』第875号、2003年9月10日、676 - 682頁、doi:10.14856/technom.875.0_676。
- 高木栄二郎「耐圧球殻の圧壊強度について」『日本造船学会誌』第501号、1971年、145 - 150頁、doi:10.14856/zogakusi.501.0_145。
- 竹沢誠二「本邦試験水槽発達小史〔1〕」『日本造船学会誌』第592号、1978年10月25日、467 - 474頁、doi:10.14856/zogakusi.592.0_467。
- 谷口中「船型開発ものがたり (その 1)」『日本造船学会誌』第488号、1970年、53 - 57頁、doi:10.14856/zogakusi.488.0_53。
- 中村貴憲「漢字の制限などについて思うこと」『日本造船学会誌』第673号、1985年7月25日、427 -、doi:10.14856/zogakusi.673.0_427。
- 秦郁彦(編著)『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 明治大正昭和新聞研究会(編)「『アフリカ文献』を完成・徳川武定博士三十年の努力」『新聞集成昭和編年史』 昭和27年版、3号、新聞資料出版、2003年4月、418頁。<GB511-H9>
- 山本善之「平賀 譲先生を考える2」『らん:纜』第38号、1997年12月30日、39 - 43頁、doi:10.14856/ran.38.0_39。
- 山本善之「徳川武定先生と鬼頭史城先生」『Techno marine 日本造船学会誌』第857号、2000年11月25日、812 - 814頁、doi:10.14856/technom.857.0_812。
- 吉織正雄「弾性安定論覚書」『日本造船学会誌』第611号、1980年5月25日、267 - 272頁、doi:10.14856/zogakusi.611.0_267。
関連資料
[編集]- 松戸市教育委員会(編)『松戸徳川家資料目録』第2集、松戸市教育委員会、1990年。<GK138-E25>
- 原剛、安岡昭男(編)「徳川武定」『日本陸海軍事典』新人物往来社、1997年、p466。<A112-G101>
- 「徳川武定」『ドキュメント人と業績大事典』第16巻、ドキュメント人と業績大事典編集委員会(編)、ナダ出版センター、2001年、p52。<GK13-G691>
- 沢井実「徳川武定」『近代日本の研究開発体制』名古屋大学出版会、2012年、p86。<M33-J39>
- 板倉聖宣(監修)「徳川武定(造船工学)」『事典日本の科学者 : 科学技術を築いた5000人』日外アソシエーツ、2014年、p535。<M2-L18>
関連項目
[編集]
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
子爵 (松戸)徳川家初代 1892年(明治25年) - 1947年(昭和22年) |
次代 華族制度廃止 |