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張弘綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

張 弘綱(ちょう こうこう、1237年 - 1301年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は憲臣。父は日本遠征(弘安の役)にも従軍したことで知られる張禧

概要

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張弘綱の祖父の張仁義は金末にモンゴルに降った人物で、父の張禧も幼い頃からモンゴル軍に従軍して各地の征服戦争で功績を立てていた。しかし峻烈な性格の張禧は同僚から疎まれ誣告を受けてしまったため、張弘綱が18歳の時に張禧と張弘綱は獄中に入れられてしまった。この時、張弘綱は狂人のふりをして獄卒の油断を誘い、夜間に逃れ去ったという逸話が残されている。その後、ココの助けを得て罪を免れた父子は南宋との戦闘に活躍し、張弘綱は昭信校尉・管軍総把の地位を授けられた。そこから更に、千戸、総管・広威将軍・招討副使、定遠大将軍・招討使と昇進を重ねている[1]。特に、1259年己未)の鄂州包囲戦では南宋軍の奮戦に苦戦を強いられたため、決死隊が募られ、これに張禧と張弘綱の父子が応じた。張禧父子は東南から城内に入り、張禧は途中で槍を受けて負傷するも張弘綱が奮戦して城の東南隅を破った。戦後、クビライは張禧父子の奮戦を称賛して治療を命じたとされる[2]

盗賊が安吉州に起こった時には、張弘綱が兵を率いて盗賊の首領を捕らえている。その後、参政の高興に従って建徳渓寨の諸賊を討伐し、この功績により三珠虎符を下賜され、昭勇大将軍・河南諸翼征行万戸の地位を授けられた。大徳5年(1301年)、右丞の劉深による八百媳婦国(ラーンナー王国)侵攻に加わったが(モンゴルのラーンナー侵攻)、この侵攻のために多大な負担が課されたことから同年5月に水東土司の宋隆済が水東・水西・羅鬼の諸蛮を率いて蜂起した[3]。そのため、張弘綱は宋隆済討伐に派遣されたが、雲南全土に波及した叛乱の鎮圧戦は泥沼化し、張弘綱はそのさなかに戦死するに至った[4]

死後、張弘綱の地位は息子の張漢が後を継いだが、張漢はこれを弟の張鼎に譲り、自らは監察御史・集賢直学士を歴任した[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「弘綱字憲臣、年十八、父禧為主将所誣、繋獄、将殺之、弘綱直入獄中、獄卒併繋之。弘綱佯狂謔笑、守者易之、既寝、遂与其父逸去。後従其父攻城徇地、屡有功、自昭信校尉・管軍総把、佩銀符、換金符、為千戸、陞総管・広威将軍・招討副使、加定遠大将軍・招討使、襲鎮江陰」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「歳己未、従世祖南伐、済江、与宋兵始接戦、即擒其一将。進攻鄂州、諸軍穴城以入、宋樹柵為夾城於内、入戦者輒不利、乃命以厚賞募敢死士。禧与子弘綱倶応募、由城東南入戦、将至城下、帝憫其父子倶入険地、遣阿里海牙諭禧父子、止一人進戦。禧所執槍、中弩矢而折、取弘綱槍以入、破城東南角。有逗留不進者十餘人、立城下、弘綱復奪其槍入。転戦良久、禧身中十八矢、一矢鏃貫腹、悶絶復甦、曰『得血竭飲之、血出可生』。世祖亟命取血竭、遣人往療之。瘡既愈、復従大将納剌忽与宋兵戦于金口・李家洲、皆捷」
  3. ^ 『元史』巻63地理志6湖広等処行中書省,「貴州、下。……大徳六年、雲南行省右丞劉深征八百媳婦、至貴州科夫、致宋隆済等糾合諸蛮為乱、水東・水西・羅鬼諸蛮皆叛、劉深伏誅」
  4. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「盗起安吉、弘綱率兵往捕、未踰旬、擒之。従参政高興破建徳渓寨諸賊、後賜三珠虎符、授昭勇大将軍・河南諸翼征行万戸。従右丞劉深征八百媳婦国、師次八番、与叛蛮宋隆済等力戦而歿。贈宣忠秉義功臣・資善大夫・湖広等処行中書省左丞・上護軍、追封斉郡公、諡武定」
  5. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「子漢、当襲職、譲其弟鼎。漢後為監察御史、累官至集賢直学士。鼎、襲江陰水軍万戸」

参考文献

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