平和橋 (中川)
平和橋 | |
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基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 東京都葛飾区 |
交差物件 | 中川 |
建設 | 1960年5月[1] |
座標 | 北緯35度43分39.7秒 東経139度50分54.8秒 / 北緯35.727694度 東経139.848556度 |
構造諸元 | |
形式 | PC単純桁橋[1] |
全長 | 134.4 m[1][2] |
幅 | 15.0 m[1][2] |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
平和橋(へいわばし)は、中川に架かる東京都道308号千住小松川葛西沖線(平和橋通り)の橋である。 右岸 (北詰) の東京都葛飾区東立石一丁目および東四つ木二丁目と左岸 (南詰) の東新小岩八丁目および西新小岩五丁目の間を結んでいる [3]。 現在の橋は、1960年竣工の2代目である。
歴史
[編集]架橋以前
[編集]現在ある平和橋の両岸には明治時代には右岸に"薬師道"、左岸に"逆井道"という道路が中川に沿うように通っていたが、渡船場
った。
1947年の橋
[編集]架橋まで
[編集]関東大震災の後の帝都復興事業に対応する形で 新たに決定した1927年 (昭和2年) 8月の東京府の都市計画の中に「補助線道路82号」(現在の 東京都道308号千住小松川葛西沖線のうち本田広小路ー八蔵橋間)があり、平和橋はこの新小岩駅(1928年開業)と本田町(1928年町制施行)を 直線で結ぶ新道路の一部に当たっている [4]。 道路部分は中川の両岸で開通していたものの、橋は終戦まで架けられていなかった。
初代の橋は終戦間もない1947年 (昭和22年) 6月開通、橋長144.2 m、幅員6 mの仮設木製であった [5]。 竣工式は6月27日に行われたという [6]。
カスリーン台風
[編集]架橋からわずか3カ月後の1947年 (昭和22年) 9月14日から15日にかけて関東地方はカスリーン台風 の通過に伴う豪雨に見舞われた。その後、天候は回復しても中川の水位は上昇し続け9月19日には葛飾区長による避難命令が下される状況になり 最終的に橋の本田川端町側(現在の東立石、東四つ木)、約二分の一が落下した。 このとき平和橋同様に上流の奥戸橋、下流の上平井橋という木橋がともに落下しているが、これらの橋がしばらく手つかずの状態にある中、平和橋だけは10月中には復旧工事に取りかかっており、1947年 (昭和22年) 12月30日に復旧している [7][8][9]。
1960年の橋
[編集]1957年、仮設橋から永久橋への架け替えが決定し、1960年 (昭和35年) 5月、竣工した。
周辺
[編集]隣の橋
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス 『橋梁史年表』平和橋1960-5
- ^ a b 葛飾区教育委員会 『かつしかの橋 葛飾区橋梁調査報告書』、p.10 1989年
- ^ 石川悌二 『東京の橋ー生きている江戸の歴史ー』 p.355、新人物往来社、1977年
- ^ 葛飾区 『新修 葛飾区史』p.675、1951年
- ^ 土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス 『橋梁史年表』平和橋創架1947-6
- ^ 葛飾新聞社『葛飾新聞』p.2、昭和22年6月15日(1号)、1947年
- ^ 葛飾区 『新修 葛飾区史』p.1049-1054、1951年
- ^ 葛飾新聞社『葛飾新聞』p.10、昭和22年10月15日(8号)、1947年
- ^ 葛飾区『葛飾区政ニュース』昭和24年8月5日(19号)、1949年
参考文献
[編集]- 葛飾区教育委員会 『かつしかの橋 葛飾区橋梁調査報告書』、1989年
外部リンク
[編集]- 平和橋自動車教習所 フォトギャラリー
- 葛飾区史 写真で見る葛飾 - 葛飾区(平和橋の1960年の開通式の様子 [1] が掲載されている)
座標: 北緯35度43分39.7秒 東経139度50分54.8秒 / 北緯35.727694度 東経139.848556度