市瀬禎太郎
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市瀬 禎太郎(いちのせ ていたろう、1860年3月2日(安政7年2月10日)[1] - 1908年(明治41年)3月8日[2])は、明治時代の教育者。
経歴・人物
[編集]丹波国篠山北新町(現在の兵庫県丹波篠山市)出身[1]。7歳で藩学に入り漢学を学び、8歳で篠山藩諸公子相手職を務めた[1]。1875年(明治8年)、旧篠山藩主・青山忠誠が旧藩子弟の優秀者を東京に招致した際に選ばれ、島田篁村の双桂精舎で学んだ[1]。
1880年(明治13年)、多紀郡役所御用掛・学務委員となり、自邸に私塾を開いた[1]。1882年(明治15年)、篠山中学校校長に就任[1]。1884年(明治17年)に篠山中学校は廃止となるが、同年に鳳鳴義塾(現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)が設立されると初代塾長となった[1]。
1887年(明治20年)に鳳鳴義塾塾長を退任した後は、第一高等中学校授業嘱託、同教授、山口高等中学校教授、山形県尋常中学校校長、滋賀県第一中学校校長を歴任[1]。1902年(明治35年)に再び鳳鳴義塾塾長となった[1]。
著作
[編集]- 『雨山先生遺稿』古川岩太郎、1932年。