巨勢邑治
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時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 神亀元年6月6日(724年6月30日) |
別名 | 祖父 |
官位 | 正三位・中納言 |
主君 | 持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 巨勢氏 |
父母 | 父:巨勢黒麻呂 |
兄弟 | 邑治、小邑治 |
巨勢 邑治(こせ の おおじ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿。名は祖父とも記される。左大臣・巨勢徳多の孫で、中納言・巨勢黒麻呂の子。官位は正三位・中納言。
経歴
[編集]持統天皇7年(693年)事情を知りながら官物を盗難させたため、冠位を二階下げられた上で監物の官職を解任された[1]。内蔵寮允・大伴男人ら他の関係者も断罪されており、内蔵寮の倉庫から官物を盗み出した横領事件と推測される[2]。
文武天皇5年(701年)正月に務大肆・三河守の官位にあったが、遣唐使大位(三等官)に任ぜられる。同年3月の大宝令による位階制度の制定を通じて従五位下に叙爵。同年唐に向けて出航するも風浪が激しくて渡海できず、その後遣唐使節の交替があって邑治は遣唐副使に昇格し、翌大宝2年(702年)6月に唐に渡る[3]。遣唐執節使・粟田真人らは慶雲元年(704年)帰国するが、邑治は唐に残留して慶雲4年(707年)3月に帰国を果たす[4]。渡唐の功労により5月に綿・麻布・鍬・籾を与えられ、8月に位階を進められた(正五位上か)。
元明朝に入り、和銅元年(708年)播磨守に任ぜられると、和銅5年(712年)従四位下、和銅8年(715年)従四位上・右大弁に叙任されるなど、要職を務めて順調に昇進する。
元正朝では、養老2年(718年)中納言に任ぜられて公卿に列すと、養老3年(719年)正四位下・摂津国摂官、養老5年(721年)従三位と急速に昇進を果たした。
聖武朝の神亀元年(726年)2月に正三位に昇叙されるが、同年6月6日薨去。最終官位は中納言正三位。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:監物
- 持統天皇7年(693年) 4月17日:降位二階、解監物
- 時期不詳:務大肆。三河守
- 文武天皇5年(701年) 正月23日:遣唐使大位(三等官)
- 時期不詳:従五位下。遣唐副使
- 慶雲4年(707年) 5月15日:綿・麻布・鍬・籾を賜与。8月16日:進位(正五位上か)
- 和銅元年(708年) 3月13日:播磨守
- 和銅5年(712年) 正月19日:従四位下
- 和銅8年(715年) 正月10日:従四位上。5月22日:右大弁
- 養老2年(718年) 3月10日:中納言
- 養老3年(719年) 正月13日:正四位下。9月8日:摂津国摂官
- 養老5年(721年) 正月5日:従三位
- 神亀元年(726年) 2月4日:正三位。6月6日:薨去