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岩崎行親

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岩崎行親
岩崎行親

岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日[1]1857年12月28日) - 昭和3年(1928年4月24日[2])は、日本教育者。号は岳東

経歴

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讃岐国(現在の香川県丸亀出身[1]1881年明治14年)、札幌農学校を第2期生として、新渡戸稲造宮部金吾内村鑑三広井勇南鷹次郎らとともに卒業した[2]農学士の称号を得て、開拓使御用掛、札幌県属、大阪府属を歴任[1]1894年(明治27年)より鹿児島県で教職につき、1901年(明治34年)に鹿児島県立鹿児島中学校校長から第七高等学校造士館校長に転じた[2]1912年大正元年)に退官[2]

1918年(大正7年)から1924年(大正13年)まで福山中学校校長を務めた[2]。校内に敬天塾を建て、西郷隆盛の精神を標榜して福山聖人と呼ばれた[2]

漢詩

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  • 『国体篇』(1921年)

脚注

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参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。 
  • 岩崎行親『国体詩』敬天舎、1936年。 
公職
先代
鹿児島県尋常中学校長
田島彦四郎
鹿児島県第一中学校
1899年 - 1902年
鹿児島県第一尋常中学校長
1898年 - 1899年
鹿児島県尋常中学校長
1894年 - 1898年
次代
吉村兼富
先代
(新設)
鹿児島県立中学造士館
1899年 - 1901年
鹿児島県立尋常中学造士館長
1897年 - 1899年
次代
鹿児島県立第二鹿児島中学校長事務取扱
沢田重遠
その他の役職
先代
(新設)
私立福山中学校
1918年 - 1924年
次代
日高重孝