山崎景則
表示
山崎 景則(やまさき かげのり、1838年3月2日〈天保9年2月7日〉 - 1909年〈明治42年〉10月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将[1]。
人物
[編集]佐賀市大字水ケ江町に佐賀藩士・山﨑平太として生まれる。鍋島隼人率いる隼人組の一員として長崎出島の警備にあたった。大隈重信とは、家も近く、組も同じで親交があった。 戊辰戦争で新政府軍軍艦孟春丸の副長を務めたほか、政府軍の軍人として活躍した。1871年(明治4年)、海軍大尉に任官。1872年(明治5年)に日進副長を拝命する。1873年(明治6年)から、鳳翔艦長、第二丁卯艦長、東艦艦長、日進艦長、摂津艦艦長、龍驤艦長、比叡艦長、高千穂艦長、扶桑艦長を歴任した。1888年(明治21年)、海軍省軍務局次長兼将校課長法規課長、次いで1889年(明治22年)3月、海軍省第一局第一課長、同年4月、呉軍港司令官兼呉鎮守府造船部長を務め、1892年(明治25年)には海軍兵学校校長となったが、翌年5月に後備役に編入された。横須賀軍港司令官も務めた。墓所は青山霊園立山墓地にある。
親族
[編集]63歳でもうけた八男・平八郎の娘・光子(てるこ)は国立音楽大学卒業後、中村梅之助 (4代目)の妻となった[2]。平八郎は神戸一中に進学したが、近視のため軍人を諦め、大隈が創立した早稲田大学商学部を経て三井生命保険(現・大樹生命保険)に勤務した[2]。
略歴
[編集]- 1871年(明治4年)5月19日 - 任 海軍大尉[3]
- 1872年(明治5年)7月23日 - 補 日進 副長[4]
- 1873年(明治6年)3月3日 - 補 鳳翔 艦長
- 1878年(明治11年)11月25日 - 補 第二丁卯 艦長
- 1880年(明治13年)6月14日 - 補 東艦 艦長
- 1881年(明治14年)7月7日 - 補 日進 艦長
- 1882年(明治15年)10月16日 - 補 摂津艦 艦長
- 1883年(明治16年)12月15日 - 補 龍驤 艦長[5]
- 1884年(明治17年)2月8日 - 補 比叡 艦長[1][6]
- 1885年(明治18年)6月20日 - 任 海軍大佐[1]
- 1886年(明治19年)
- 1888年(明治21年)8月16日 - 補 海軍省軍務局次長[1] 兼 将校課長法規課長[9]
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)9月24日 - 任 海軍少将、呉軍港司令官[1]
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)5月24日 - 予備役[1][3][13]
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『帝国海軍将官総覧』203頁
- ^ a b NHK『ファミリーヒストリー 中村梅雀~名優の家に生まれて 祖父の事件の真相』2019年9月16日放映
- ^ a b 「海軍少将山崎景則特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090017700
- ^ 「丙4号大日記 福島少佐へ達 山崎大尉日進艦副長申付の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09110262500
- ^ 『官報』第143号「叙任及辞令」1883年12月18日。
- ^ 『官報』第184号「叙任及辞令」1884年2月13日。
- ^ 『官報』第872号「叙任及辞令」1886年5月31日。
- ^ 『官報』第913号「叙任及辞令」1886年7月17日。
- ^ 『官報』第1541号「叙任及辞令」1888年8月17日。
- ^ 『官報』第1706号「叙任及辞令」1889年3月11日。
- ^ 『官報』第1737号「叙任及辞令」1889年4月18日。
- ^ 『官報』第2712号「叙任及辞令」1892年7月13日。
- ^ 『官報』第2969号「叙任及辞令」1893年5月25日。
- ^ 「式部寮達書 式部寮達 近藤真琴外24名任叙拝命の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111301200
- ^ 「甲1番大日記 式部寮達 赤塚真成外15名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111306600
- ^ 『官報』第695号「賞勲叙任」1885年10月23日。
- ^ 『官報』第2187号「叙任及辞令」1890年10月11日。
- ^ 『官報』第7901号「叙任及辞令」1909年10月23日。
- ^ 『官報』第728号「賞勲叙任」1885年12月3日。
- ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
参考文献
[編集]- 『官報』
- 『帝国海軍将官総覧』太平洋戦争研究会
- 「海軍少将山崎景則特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A12090017700 等