山口十八
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山口 十八(やまぐち じゅうはち、1878年(明治11年)10月1日[1] - 1937年(昭和12年)1月30日[1])は日本の陸軍軍人。歩兵第11旅団長、近衛第1旅団長を歴任した。最終階級は陸軍少将。陸軍大将をつとめた山口素臣の養嗣子[2]であり子爵。
経歴
[編集]大賀幾輔の四男として生まれる[2]。1899年(明治32年)11月21日に陸軍士官学校(11期)を卒業し[1]、翌年6月22日、陸軍歩兵少尉に任官[3]。1904年(明治37年)9月17日、養父山口素臣の薨去に伴い子爵を襲爵した[2][4]。歩兵中尉を経て、1909年(明治42年)、陸軍大学校(21期)を卒業[1][5]。この時の同期には寺内寿一元帥陸軍大将・植田謙吉陸軍大将がいる。第13師団参謀に発令[5]。
その後、歩兵将校として累進し1920年(大正9年)8月10日、歩兵大佐に進み近衛師団司令部附を命ぜられる[6]。1923年(大正12年)8月6日、歩兵第15連隊長に進み、翌年8月、陸軍少将・歩兵第11旅団長に就任する[1][6]。1927年(昭和2年)3月5日に陸士・陸大共に同期の森連少将(後に陸軍中将・第1師団長)の後任として近衛歩兵第1旅団長に移る[1][6]。1929年(昭和4年)7月30日、予備役編入となる[1][6]。
家族
[編集]- 実父・大賀幾助(幾介、春哉、大眉、1827-1884) ‐ 毛利藩儒臣[7]。萩の酒造業・大賀家に生まれ、松下村塾に入り、吉田松陰に協力、萩前小畑の泉流山窯の古窯を復興、長州戦争の兵糧用のパンを製造などを手掛け、その後大阪で鎮台出入りの御用商人となった[8]。1869年より軍靴製造業に乗り出し、手代として働いていた藤田伝三郎に製靴業を譲る[9]。母方のいとこに三浦梧楼[10]。
- 養父・山口素臣
- 妻・ヌイ ‐ 養父・素臣の弟・山口宗太郎の次女で児玉源太郎の養女[2]。十八はヌイとの間に三男六女をもうけた。
- 長男・元吉 ‐ 妻は東郷彪(東郷平八郎の長男)の長女・良子。
栄典
[編集]- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』754頁。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下巻、785頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156、160頁。
- ^ 『官報』第6368号、明治37年9月19日。
- ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、556-557頁。
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』160頁。
- ^ 山口十八『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 大賀大眉(おおがたいび)萩の人物データベース
- ^ 『藤田組の発展その虚実』佐藤英達, 三恵社, 2008、p20
- ^ 古い手記から山本孝夫(幾助の曾孫)ブログ、2021.2.20
- ^ 『官報』第6599号「叙任及辞令」1905年6月30日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 山口素臣 |
子爵 山口(素臣)家第2代 1904年 - 1937年 |
次代 山口元吉 |