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孔公恂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

孔 公恂(こう こうじゅん、1413年 - 1471年)は、明代官僚は宗文。本貫兗州府曲阜県孔子の五十八世の孫とされる。

生涯

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1454年景泰5年)、会試を受験する予定だったが、母の病のため受験しなかった。景泰帝がその理由を知ると、使者を派遣して孔公恂を召し出し、翰林院に命じて紙と筆を給与させた。母が死去したため、孔公恂は帰郷して喪に服した。

1455年(景泰6年)10月、衍聖公孔彦縉中国語版が死去する[1]と、その嫡孫の孔弘緒中国語版は幼弱であったことから、景泰帝は礼部郎を派遣して喪を取り仕切らせ、孔公恂に孔家の家事を委ねた。1457年天順元年)2月、孔公恂は礼科給事中に任じられた[2]1463年(天順7年)2月[3]、大学士李賢皇太子朱見深(後の成化帝)を輔導する人物として孔公恂と司馬恂を英宗に推挙した。その日のうちに孔公恂は詹事府少詹事に任じられ、皇太子に近侍して講読した。

1464年(天順8年)、成化帝(朱見深)が即位すると、孔公恂は大理寺左少卿に転じた。10月、孔公恂は法律に通じていないと自ら言上して、少詹事に復帰した。1466年成化2年)、軍事について上奏し、武臣たちの反発を買い、給事中や御史たちに弾劾された。孔公恂は獄に下され、漢陽府知府に左遷された。着任しないうちに父が死去したため、辞職して喪に服した。1469年(成化5年)5月、南京少詹事として復帰した[4]1471年(成化7年)11月癸卯、死去した[5]。享年は59。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻31
  2. ^ 『国榷』巻32
  3. ^ 『国榷』巻33
  4. ^ 『国榷』巻35
  5. ^ 『国榷』巻36

参考文献

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  • 明史』巻152 列伝第40
  • 『明史』巻284 列伝第172
  • 故中憲大夫詹事府少詹事孔公墓誌銘(陳鎬『闕里志』巻13所収)