大人漫画
大人漫画(おとなまんが)とは、大人向けの漫画。「ナンセンス漫画」「成人漫画」ともいう。
1930年代から1960年代にかけては日本の漫画の本流であり、単に「漫画」というと「大人漫画」のことを指した。ただし、戦前の『のらくろ』『少年倶楽部』を経て戦後の手塚治虫に至る「子供漫画」の系譜が1970年代以後の漫画の本流になったため、漫画史上において「大人漫画」の流れは存在しなかったことにしている漫画史家も多い(いわゆる「手塚史観」「トキワ荘史観」「『まんが道』史観」)。もっとも「トキワ荘」系の「子供漫画家」にも、1960年代後半には「大人漫画家」として活躍した側面があり、手塚治虫『人間ども集まれ!』や藤子不二雄『黒ィせぇるすまん』などといった軽視すべからざる作品を著しているため、注意が必要である。
概要
[編集]風刺とユーモアを旨とする漫画であり、一コマ漫画(カートゥーン)を中心とするが、四コマ漫画やストーリー漫画、果ては絵本やフォトモンタージュ(写真)すらも「大人漫画」の一形態でありうると考えられている(少なくとも、「大人漫画」を顕彰する「文藝春秋漫画賞」はそのように考えていた)。もともと「漫画」と言う大カテゴリにおいて、「子供漫画」や「劇画」はニッチな小カテゴリの一つに過ぎず、それ以外の大人向けの漫画がすなわち「漫画」の本流と暗黙に見なされていたが、1970年代以後には「子供漫画」と「劇画」以外の漫画がほとんど衰退したことから、「子供漫画」と「劇画」を合わせたものがすなわち「漫画」と暗黙に見なされるようになり、逆に「子供漫画」と「劇画」以外の漫画が「大人漫画」と言うニッチとみなされるようになった。
「文藝春秋漫画賞」は、(子供向けのニッチなジャンルである)「子供漫画」と「劇画」以外のあらゆる漫画を網羅して評価する賞として、1960年代まで大きな権威を持った。「文藝春秋漫画賞」は、本来は様々な表現を「漫画」として顕彰することで、日本の漫画の豊かな多様性を担保する存在であったが、「子供漫画」と「劇画」のシェアが著しく拡大したために、1970年代以後は「大人漫画」と言うニッチを顕彰するニッチな漫画賞だとみなされるようになった。「文春漫画賞」は、市場にあるほとんどの漫画(「子供漫画」と「劇画」)を「漫画」とみなさずに無視する閉鎖性、にも関わらず「漫画」という大ジャンルを評価するという権威主義、1960年代の価値観を保ったままの選考委員が年を経るごとに「漫画」が出なくなる漫画界の現状をひたすら嘆くなど、迷走の末に2001年に終了し、これがそのまま「大人漫画」の歴史とされている。
明治時代の漫画(「ポンチ絵」)と違う点として、「ポンチ絵」が低俗すぎて話にならないのに対し、「漫画(大人漫画)」は大人の鑑賞に堪える。単なる滑稽画だった「ポンチ絵」に対し、1930年代以後の「漫画」には「コマ割り」「ストーリー」「キャラクター」など数々の革新的な手法が次第に導入され、滑稽だけでなく悲劇など「全て」を描けるようになった。そのため、「漫画家」を名乗った最初の世代である岡本一平は「ポンチ絵」という言葉を嫌い、「漫画家」を自称し、「芸術家」を自認した。(岡本一平らの世代を「大人漫画」に含めるかどうかは諸説あり、峯島正行は「漫画集団」以後の世代を「近代漫画」としている)
大正時代の漫画と違う点として、日本画の筆ではなくケント紙にペンとインクを使って描く[1]。つまり、普段は筆を使っている美術家が余技として漫画を描くのではなく、本職の「漫画家」が描く漫画である。読売新聞の近藤日出造、朝日新聞の横山泰三など、「漫画家」として大新聞社に雇われ、高給を貰って漫画を描いていることから、大人漫画家はプライドが高かった。
セリフは写植(活字、フォント)ではなく、全部ペンで手書きである。書き文字も含めて「描線」を味わう楽しみを知っているのが読者である「大人」だった。
「子ども漫画」との違いとして、子ども漫画は子供が読むものだったのに対し、大人漫画は大人が読むものだった。つまり、(繰り返しになるが)「大人漫画」は大人の鑑賞に堪える。逆に言うと、大人漫画は知的過ぎて子供は読むことができなかった。また、大人漫画は大人向けなので、おっぱいやセックスなど性的なネタも多かったので、子供が大っぴらに読んで良いものではなかった。1960年代には「劇画」の表現技法が発達した末に、劇画の手法で「エロ」が描けるようになり、1970年代に入ると「エロ劇画」が誕生するが(同時期の「子ども漫画」はまだ「お色気漫画」に留まっており、「子ども漫画」の手法でエロを描く、現代のエロ漫画の直接的な祖先となる「ロリコン漫画」が誕生するのは1980年代以降になる)、それ以前の時代に「成人漫画」と同義だった「大人漫画」は、こんな絵柄ながら本気で「エロ漫画」たりうると考えられており、1950年に青姦をテーマにした横山泰三の大人漫画『噂の皇居前広場』が「わいせつ画」として戦後漫画史上初の発禁を食らっている。エロ(下ネタ)の表現に特化した大人漫画である「艶笑漫画」と言うジャンルもある。
子ども漫画は子供の代替わりに従って価値観が変わり、数年で漫画家の入れ替えが起きる。そのため、1960年代までは子ども漫画から大人漫画に移行する漫画家も多かった。「俺はね、もう子供漫画には疲れたよ」と言い残して大人漫画の世界へ移っていった元・子供漫画家の馬場のぼるの例が挙げられる[2]。もっとも、大人漫画家として成功するには、大人漫画の業界を牛耳っていた職能集団「漫画集団」の中で政治力で地位を高める必要があったことから、結局大人漫画にも馴染めない人も多く、馬場のぼるはやなせたかしらと「漫画家の絵本の会」を結成し、絵本作家となった。
「劇画」と比較すると、「劇画」が教育を受けていない人が描いていたのに対して、「大人漫画」は大卒が書いていた[3]。1968年当時の代表的な大人漫画誌である『漫画サンデー』初代編集長の峯島正行によると、「大人漫画」は描くのに高度な知性が要求され、教養がなければ描けない物であった。それゆえ、新人が育ちにくく、「漫画ブーム」と呼ばれた1960年代の全盛期でも「おとな漫画」の漫画家は3、40人しか存在しなかった。また、「劇画」は社会の底辺の人たちが読む漫画だったのに対し、「おとな漫画」は知的な大人が読む漫画であった[4](注:この峯島の見解は事実ではなく、「大人漫画家」の差別意識を表している)。
1ページの作品が主流であるが、1960年代には4pから8p程度の「長編」も登場した。「大人漫画」の時代の末期となる1960年代後半における佐川美代太郎の諸作品を見る限り、さらに長い作品を書くことも不可能ではなかったと考えられているが、そのような可能性が開拓される前に「大人漫画」が衰退し、「大人漫画誌」の廃刊により発表の場が失われてしまった。
内容は、風刺漫画などもあるが、ほとんどがナンセンス漫画である[5]。作者の主義主張がある「風刺漫画」や「政治漫画」に対して、そのようなものがない「ナンセンス漫画」は従来は低く見られていたが、1960年代には秋竜山をはじめとする若手のナンセンス漫画の逸材が多く登場し、大人漫画の本流となった。
「子供漫画」や「劇画」は人物のアップなどを多用するが、「大人漫画」の作者はまさしく「大人」であり人物を客観的に見ることができるので、人物を遠くから描写するのが基本である。
1960年代が全盛期で、多数の「大人漫画誌」が刊行されていた。格式の有る月刊の大人漫画誌に加え、1950年代後半の「週刊誌ブーム」に乗って、大衆向けの週刊大人漫画誌がたくさん創刊された。月刊誌の『漫画讀本』、週刊誌の『週刊漫画TIMES』『漫画サンデー』『漫画娯楽読本』(後の『漫画ゴラクdokuhon』、現『漫画ゴラク』)などが、当時の代表的な大人漫画誌である。特に『漫画讀本』は「月刊誌」という立場上、速報性が問われる時事風刺漫画ではなくナンセンス漫画が主体となったことから、「大人漫画」の代表とされる。
1950年代から1960年代にかけて隆盛した「大人漫画誌」は、漫画を見るだけでなくちゃんと長い文章も読める大人向けの雑誌なので、「漫画誌」を称しつつも漫画より読物の比重が多い、「読本(どくほん)」という形式を取っている。『漫画ゴラクdokuhon』の誌名からわかる通り、「読本」の読みは「どくほん」であり、「よみほん」「とくほん」は間違いである。その内容は誌風にもよるが、「大人向け雑誌」なので性的な内容のものも可能であり、特に「昭和元禄」と呼ばれた文化の爛熟期である1960年代後半においては各誌ともド下品な記事が多い。巻頭には、エログラビアが載っている。おっぱいは、見えてしまっている。「大人漫画誌」の代表でもっとも高尚とされた文春の『漫画讀本』にしても、セックスや風俗(当時は「トルコ」と呼ばれた)の記事が普通に載っており、女性読者は想定されていない。1950年代当時、七色ネオンの夜の銀座で妻ではない女性と「かりそめの恋」をしたり、ストリップ劇場(当時は「ミュージックホール」と呼ばれた)などのお店に行くことは、成熟した「大人」の嗜みだとみなされており、それと同じく「大人漫画」を読むことも、成熟した「大人」の嗜みだとみなされていた。「大人漫画誌」は、文士や俳優など各界の名士がこぞって寄稿しており、したがって漫画の執筆者も、彼らと同列の「名士」であり「文化人」として扱われた。
漫画の殿堂・芳文社が1956年(昭和31年)に創刊した、当時の代表的な大衆向けの週刊大人漫画誌である『週刊漫画TIMES』のキャッチコピー「一週間をユカイに生きる!」が端的に示す通り、「大人漫画誌」の想定読者は、1週間単位で生活する「サラリーマン」である。ゼニとオンナとギャンブルが大好きで、若く、大卒は少ないものの、ちゃんと長い文章も読める上に漫画も理解る、「知的大衆」とみなされていた。貸本劇画の想定読者である、漫画を買う金もないその日暮らしの下層労働者とはランクが違った。
1930年代から1960年代にかけて並立していた漫画のジャンルである「大人漫画」「子供漫画」は、その読者層も漫画の内容も全く違っていた。「子供漫画誌」の傾向が貸本劇画作家の流入によって変貌し、次第に分別のあるいい大人の大学生までが「子供漫画」(少年誌)を読み始めた。 1965年(昭和40年)、法政大学の書籍部が『週刊少年マガジン』、『週刊少年キング』を並べたところベストセラー上位となったほか、京大新聞の学生調査でも、よく読む週刊誌部門の上位に『週刊少年サンデー』がランクインした[6]。 さらに1969年(昭和44年)には、「右手にジャーナル、左手にマガジン」が流行語となった。それまではまともな「大人」が「子供漫画」を読むなんて考えられず、まして「まともな大人」にとって、下層の人間の読み物である「劇画」など「漫画」とすらみなされなかった。
1960年代までが全盛期であるが、1970年(昭和45年)頃になると、大人漫画の業界を牛耳った大人漫画家の職能集団「漫画集団」の閉鎖性により、大人漫画のなり手が少なかったことと、劇画の人気に押されて大人漫画専門誌が休刊、あるいは劇画誌に鞍替えするなどして大人漫画の発表の場が減少するなどの事情があり、衰退した。
大人漫画家は、その知性を生かしてタレントとして活動する者も多い。特に、1970年代に大人漫画が衰退した後、テレビタレントにほとんど転進した作家は多く、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』の加藤芳郎、『クイズダービー』のはらたいらなど、作品よりもむしろその顔がテレビを通じて知られる作家が多い。また、政党や電力会社などのプロパガンダ漫画で活動した物も多い。
「村」意識と衰退
[編集]漫画評論家の石子順造が1967年(昭和42年)に発表した論説によると、1967年(昭和42年)当時、大人漫画の世界は近藤日出造を頂点とする業界団体の「漫画集団」が牛耳っていた[7]。漫画集団は「大人漫画」の掲載先であるマスコミと結託し、「大人漫画」業界を独占していた。「大人漫画家」になるには漫画集団に加盟する必要があったが、そのためには漫画集団全員の同意が必要で、具体的には横山隆一や加藤芳郎などの幹部に気に入られる必要があった。大人漫画家として成功するかどうかは、実力ではなく、集団内の「序列」で決まった。
戦前からの「大人漫画家」は戦時中の戦争責任を無かったことにしていた点も、戦後の世代から批判を浴びた。「漫画集団」の漫画家は戦時中、鬼畜米英を風刺し軍国主義を翼賛する政府のプロパガンダ漫画を描いておきながら、戦後すぐに手のひらを返し、日米安保体制を翼賛する政府のプロパガンダ漫画を描いた点を石子順造は批判した。この「転向」に関しては、特に近藤日出造が甚だしく、「戦争責任を問うべきだ」として、石子順造と同時代の漫画評論家である石子順も批判している[8]。また終戦当時に少年として近藤の漫画を読んだ小林信彦なども怒りを表明しており[9]、当時の読者にとっては一様に衝撃的だったらしい。
また、「漫画集団」の人間はエリート意識が強く、「子供漫画」を軽蔑しており、特に手塚治虫に代表される、戦後に流行した「俗悪な子供漫画」に対して激しい罵倒を行った。1947年に大阪の出版社から刊行された手塚治虫の『新宝島』が大ヒットしたことにより、全国的に赤本漫画ブームが巻き起こったが、このような「俗悪な子供漫画」に対し、近藤は1949年に、「俗悪なる子供漫画は大阪がもと」「だいたい大阪人というものがそういうもの」「売れて金さえ儲かればそれでいいという恥知らず」「その恥知らずのつくったのが、こういう赤本漫画だ」「絵というようなものじゃない」[10]と手厳しく批判した。また1956年当時、子供漫画で最も人気のある作家となった手塚が大人漫画への意欲を見せたのに対し、近藤は『ぼくのそんごくう』を例に挙げ、手塚が「『絵の点』での力量不足」の為に大人漫画を描けない状況を指摘し、手塚に代表される「一般の子供漫画家」が「箸にも棒にもかからない粗末な絵描き」である点を指摘した[11]。1950年代当時、手塚治虫は『鉄腕アトム』のような「残酷」な漫画を描いており、当時の子供漫画に要求された通念である「童心主義」からかけ離れた、売れるためにどんな酷い漫画でも描く「算盤主義」として、当時の社会運動である「悪書追放運動」のやり玉に挙げられていたが、良識ある大人の代表として積極的に「俗悪な子供漫画」を批判したのが、讀賣新聞社社員として讀賣新聞に政治漫画を描いていた「大人漫画家」の近藤日出造であった(なお、手塚は後年『手塚治虫 漫画の流儀』において、1950年代当時に「大人漫画」の立場から「俗悪な子供漫画」を糾弾した「漫画集団」の漫画も、当時は悪書とされた点を指摘している)。
さらに「漫画集団」は、1960年代に勃興して「大人漫画」を衰退に追い込むことになる「劇画」に対しても激しい罵倒を行った。「漫画集団」は、1964年に日本の漫画家の職能集団である「日本漫画家協会」が創設された際も主導権を握った。1972年当時、劇画界の代表としてさいとう・たかをと佐藤まさあきが日本漫画家協会の理事として参画したが、さいとうが日本漫画家協会に「劇画賞」の創設を提案したところ、理事長の近藤日出造以下、当時の日本漫画家協会の主導権を握る「大人漫画」系の漫画家の逆鱗に触れた。『週刊子供マンガ新聞』の時代から親しんできたベテラン漫画家たちから悪罵された佐藤は日本漫画家協会を脱退した[12]。1960年代当時の新進の世代の漫画家は、近藤を筆頭とする旧世代の大人漫画家に激しく敵視されていたが、一方で彼ら自身は近藤らの漫画で育った世代でもあり、アニメーターとして横山隆一に師事した手塚治虫の例にみられるように、憧れている部分もあった。
「大人漫画」時代の末期には、大人漫画誌『漫画サンデー』の売り上げに腐心する峯島編集長の仲介もあり、1960年代当時を代表する子ども漫画家であった手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄(藤本弘、安孫子素雄)を「漫画集団」に加盟させるなど、新たな世代の人を入れる動きがあったが、子供漫画から大人漫画に移行する例が多かった旧世代の子供漫画家と違い、彼ら「トキワ荘」系の「子供漫画家」は本職の「大人漫画家」になるつもりなどなかった。1970年には劇画の隆盛および峯島編集長の退任に伴い、彼ら「トキワ荘」系の「大人漫画家」も劇画を描くに至り、大人漫画は衰退してしまった。
1970年代には谷岡ヤスジなど、「村」の外から現れた若い大人漫画家が活躍するなどの動きもあったが、彼らの主な発表の場となるはずであった「大人漫画誌」が消滅していたため、一般漫画誌の添え物としての限定的な活躍にならざるを得なかった。
歴史
[編集]戦前
[編集]明治以来、漫画は「ポンチ絵」と呼ばれて蔑まれていたが、大正時代になると大人の鑑賞にも耐えうる漫画が登場。1915年(大正4年)には東京漫画会が結成され、このような高尚な漫画を「漫画」と呼ぶ運動が行われた。その結果、昭和時代に入るころには「漫画」の語が定着した。
しかし、それでも漫画家の地位はまだ向上せず、朝日新聞と専属契約を結んだ岡本一平のような一流漫画家ですら、低俗な「ポンチ絵」と同列に扱われていた。そして当時の一流漫画家はそのような地位に甘んじ、各界の有力者に太鼓持ちをすることで、漫画家としての発表の機会と場所を独占していた。
1932年(昭和7年)、当時の新進の漫画家は、このような状況を打破し、漫画家の地位を向上させると同時に、先輩漫画家を排除して自らを売り込むため、集団を組むことにした[13]。1932年、横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄らにより「新漫画派集団」が発足。峯島正行は、この時をもって近代漫画(大人漫画)の始まりと考えている。
戦後の代表的な子供漫画家であった手塚治虫によると、「大人漫画」と「子供漫画」の区別がついたのは、「漫画」という語が誕生した大正五、六年から昭和初期にかけてのことだという。「大人漫画」が「漫画」と呼んでも良い所までクオリティが高いのに対し、「子供漫画」は「ポンチ絵」の延長線上にあるとみなされていた。昭和初年の当時の代表的な漫画家(大人漫画家)であった岡本一平は、大人漫画のことを「漫画」と呼んだのに対し、子ども漫画のことは「ポンチ絵」と呼んだ。これは、子供漫画に対する差別意識の表れであると手塚は論じている[14]。
新漫画派集団の試みは成功し、彼らの作品は当時のエログロナンセンスと呼ばれる時代の先端として盛んに持て囃された[15]。
戦中
[編集]1937年、日中戦争が勃発。やがて軍国主義の時代となる。
1938年、近藤日出造の描いた風刺画が憲兵の逆鱗に触れ、連行される。漫画に対する統制が強まる中、「三光漫画スタジオ」の松下井知夫の発案により、漫画家の自由な発表の場を守るため、新漫画派集団を含む複数の漫画グループおよび団体に属さない個人を統合して「新日本漫画家協会」を結成[16]。1940年10月には新日本漫画家協会の機関誌として『漫画』誌が創刊された。新日本漫画家協会は、1940年10月に結成された大政翼賛会の提唱するメディアミックス構想に協力する形で、同年12月には「翼賛一家」を生み出している。
新日本漫画家協会内部の政治的対立により、結成早々に加藤悦郎らのグループが追放された後、『漫画』誌は近藤日出造を中心とする漫画集団系の漫画家が主導権を握り、『漫画』誌の1941年8月号より有名無実となった「新日本漫画家協会」の名称が消えた。加藤は政治色の強い急進的な風刺漫画家で、もともと新日本漫画家協会の結成前より、ナンセンス漫画を志向する近藤らを強く批判していた。新日本漫画家協会へと大同団結した後においても、加藤らの漫画は政治色が強すぎるため、『漫画』誌の方針をめぐって近藤らのグループと対立しており、脱退は時間の問題であった。新日本漫画家協会を脱退した加藤らは、新しい日本の漫画芸術を建設するために「建設漫画会」を結成した。
1941年、『漫画』誌の発行元として合資会社「漫画社」が設立され、取引先の出版社社長であった三協美術印刷の菅生定祥が社長に付いた。創刊当初の『漫画』誌は売れ行きが悪くて大きな赤字を抱えていたが、近藤は菅生を通じて大政翼賛会宣伝部副部長の川本信正に働きかけ、1941年7月号より「大政翼賛会宣伝部推薦」となったことにより、経営が安定し、また統制下においても用紙が確保されるようになった(これをもって、漫画史家の石子順および石子順造は「翼賛体制に阿った」としているが、峯島正行は著書『回想 私の手塚治虫』において、むしろ「権力と戦った」として、両者に反論している)。
大政翼賛会のプロパガンダ雑誌として「眼で見る時局雑誌」と銘打たれた『漫画』誌に掲載される漫画は、やがて「米英嘲笑漫画」(いわゆる「鬼畜米英漫画」)と戦時生活指導漫画に収斂されていく[17]。しかし『漫画』誌は、大政翼賛会のプロパガンダ雑誌と言っても、近藤日出造を筆頭とする当時のトップ漫画家を揃えており、似顔絵の名手である近藤がユーモアたっぷりにサタンとして描いたルーズベルト大統領などお馴染みのキャラクターが盛んに登場し(『漫画』1943年2月号表紙、1944年2月号表紙など)、国策の宣伝に終始した『写真週報』や『アサヒグラフ』などの漫画と比べても漫画のレベル自体は高かった。また『漫画』誌は投稿欄も充実しており、西川辰美や加藤芳郎などが活躍した。
1943年5月、大政翼賛会文化部の主導で、川原久仁於を中心とする「国防漫画連盟」、杉柾夫や南義郎を中心とする「新鋭漫画グループ」、そして近藤日出造を中心とする「新日本漫画家協会」などといった複数の漫画家団体に、岡本一平や麻生豊と言った上の世代の漫画家を統合する形で、「日本漫画奉公会」(会長・北澤楽天)が結成された。これにより、日本の漫画界は北澤らの大御所が実権を握ることになった。当時のプロパガンダ漫画は日本漫画奉公会を通じた大政翼賛会の発注を請けて執筆されることになったが、もともと新聞漫画を主戦場としていた北沢や岡本らの大御所も、この頃より新聞社系の雑誌など(『週刊朝日』など)で積極的に鬼畜米英漫画を描くようになる。しかし、大御所が業界の実権を握ることに対して若手は面白くなく、近藤らのグループは海軍系の「大東亜漫画研究所」、陸軍系の「報道漫画研究会」などの結成に参加し、海軍報道部および陸軍報道部の仕事を請けて主に活動した。一方、近藤らから嫌われていたので業界団体に大同団結させてもらえなかった加藤悦郎らのグループは内閣情報局の仕事を主に請けていた。加藤が主導で漫画家を大同団結する動きもあったが、加藤らは近藤らから嫌われていたのと、大政翼賛会も乗り気ではなかったので、実現しなかった。
1938年には清水崑や村山しげるが報道班員として戦地に派遣されるなど、漫画集団の同人は多くが戦地に派遣され、従軍漫画を描いていた。やがて戦局が激しくなるにつれ、1941年に横井福次郎や村山しげるが出征するなど、若い漫画家が中心であった漫画集団の同人は次々と兵士として招集され、メンバーが少なくなる。漫画集団の事務所は1944年11月および1945年3月の空襲(東京大空襲)で全て焼けてしまった。1945年7月には漫画集団で一番の年長者であった近藤すら召集される。『漫画』誌は12ページになりながらも発行が続いていた。そして1945年8月15日の終戦を迎える。
戦後
[編集]1945年10月、復員後に郷里に帰っていた近藤日出造が上京。旧・大東亜漫画研究所のメンバーを中心として「漫画集団」を発足させる。旧「新漫画派集団」のメンバーに加え、松下井知夫など旧「新日本漫画家協会」のメンバー、加藤芳郎や六浦光雄など旧『漫画』誌の投稿欄で近藤の教えを受けた者などを加えた大所帯となった。
1946年、伊藤逸平が漫画雑誌『VAN』を創刊。『VAN』からは横山泰三らがデビューした。また同年、戦時中のプロパガンダ漫画雑誌であった『漫画』が近藤日出造主宰の漫画雑誌として刷新される。終戦直後は粗末だった『漫画』誌は、出征していた漫画家が復員するにしたがって豪華になり、また新人の荻原賢次、六浦光雄、加藤芳郎らがデビューしたが、1951年に休刊。
1945年11月、元同盟通信社出身の人物によって新聞『民報』が創刊される。近藤日出造の風刺漫画をウリとした新聞だった。『民報』(1946年5月26日付)では、1946年5月19日開催の「食料メーデー」を受け、昭和天皇がラジオ放送を通じて米の供出を訴えたニュースに関連して、近藤は『打つ手なし あるは食ふ口 しやべる口』と題して両手の無い昭和天皇の風刺画を描き、警視庁より不敬罪として発禁処分を食らった(GHQにより即座に撤回)。戦時中にあれだけ軍国主義を煽った近藤は、終戦から数か月で「転向」した。
1947年、近藤日出造が読売新聞に再入社。政治漫画を1976年まで担当した。
1948年、加藤悦郎は日本共産党に入党しアカハタの風刺漫画を担当する。加藤は戦後も近藤を激しく批判し、特にその「転向」を批判した。しかし近藤は、1959年に死去した加藤の追悼漫画集である『加藤悦郎漫画集』(1960年)の出版に協力するなど良いところもあった。
1950年、横山泰三の『噂の皇居前広場』が、『ホープ』(実業之日本社)1950年8月号に掲載された。皇居前広場でアオカンに興じる人々の姿を描いたもので、「わいせつ画」として戦後漫画史上初の発禁を食らった。『ホープ』誌は、1940年代後半に唸るほど創刊されたカストリ雑誌の一つとして歴史的には分類されるが、実業之日本社社員の峯島正行の回想では「高級娯楽誌」としている。「3号で潰れる」他のカストリ雑誌と違い、『ホープ』は「総合誌」「大衆娯楽誌」として人気を博したが、誌勢の衰退に伴い1951年に『オール生活』へと誌名を変更し、当社の看板雑誌である『実業之日本』誌の兄弟誌として小銭を稼いだり蓄財したりを指南する「生活指導雑誌」として生まれ変わった。漫画誌としての流れは、1959年創刊の『漫画サンデー』に引き継がれることとなる。
全盛期
[編集]1954年、文藝春秋新社より初の「大人漫画」誌として『漫画讀本』(通称『漫讀』)が創刊される。横山隆一や加藤芳郎などの日本漫画に加え、ボブ・バトル『意地悪爺さん』(アメリカの漫画家 Bob Battleの作品『Egoist』の翻訳とされるが、実在が確認されていない。『漫讀』1963年9月号目次絵に伊坂芳太良とあることから、伊坂の変名らしい)やチャールズ・アダムス『幽霊一家』(1964年のドラマ版タイトル『アダムスのお化け一家』、1991年の映画版タイトル『アダムス・ファミリー』でも知られる)などの海外漫画、そして大人向けの文章記事などで構成される、高級な雑誌である。当初は『文藝春秋』の別冊として発売されたところ、評判がよく、初版の17万部が数日で売り切れたことから、月刊紙として独立創刊された。
1955年、文藝春秋漫画賞が創設される。大人漫画においては、「1枚絵」の「カートゥーン」こそが王道とされていたが、1955年度(第1回)には谷内六郎の抒情的な1枚絵作品『行ってしまった子』を選出、1959年度(第5回)には長新太の絵本『おしゃべりなたまごやき』(『ぼくは王さま』シリーズ) を選出するなど、文春漫画賞は当時においては革新的な価値観で「漫画」の概念を拡張し続けた。谷内六郎は文春漫画賞を受賞したことでその評価を確立し、1956年に創刊された週刊誌『週刊新潮』の表紙絵を担当することになる。
1955年、折からの漫画ブームに乗じ、読売新聞社でも『漫画読本』に対抗して『漫画読売』を発刊した。それほど続かなかった模様。
1956年、折からの週刊誌ブームに乗じ、漫画の殿堂・芳文社より日本初の週刊漫画誌として『週刊漫画TIMES』(通称『週漫』)が創刊される。『漫画読本』と比べるとかなり大衆的な漫画誌だった。また1959年には実業之日本社より『漫画サンデー』(通称『マンサン』)が創刊。峯島正行編集長の意向により、漫画集団(特に横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄という「集団御三家」)を中心とした古臭い面子で、競合誌と比べて人気はいまいちだったが、富永一朗の『ポンコツおやじ』(1960年-1968年)やサトウサンペイの『アサカゼ君』(1963年-1965年)など、新人のヒット作により安定する。
『マンサン』の売れ行きに腐心する峯島編集長は、『マンサン』にプラスアルファを加えるべく、当時の子供漫画家で最も人気があった手塚治虫に対して執筆を依頼。その最初の作品として、『別冊漫画サンデー』1963年8月号に『午后一時の怪談』が掲載された。以後、手塚は『マンサン』の常連執筆者となる。「大人漫画家」となった手塚は1964年に漫画集団に加盟する。
1965年、日本初の漫画の学校として「東京デザインカレッジ」漫画部を創設。現役の人気大人漫画家を講師として、泉昭二や二階堂正宏などプロの大人漫画家を大勢輩出するが、東京デザインカレッジは放漫経営の末に3億5000万円の赤字を出し、1969年に倒産。理事の近藤日出造や部長の横山隆一らの幹部はそれぞれ3000万円の借金を抱えた。
衰退期
[編集]1967年7月、最初の週刊劇画誌である『週刊漫画アクション』(双葉社)創刊。劇画の人気の高まりにより、以後、劇画誌が続々と創刊されるに至り、1968年には『週漫』や『漫画娯楽読本』(日本文芸社、通称『ゴラク』)と言った当時の代表的な大人漫画誌も劇画誌に鞍替えし始める。大人漫画家は次第に連載を切られ、少年漫画または貸本劇画出身の劇画家に次第に置き替えられた。雑誌のカラー変更に伴い、大人漫画から劇画への転身を試みた漫画家も居るには居るが、数は少なく、あまり大した評価も得られないまま消えていった(その点で、『漫画サンデー』のカラー変更に伴い大人漫画から劇画に転進し、しかも作品として高い評価を得た『トキワ荘』系の漫画家は特異である)。「大人向け」の劇画は、やはり大人向けなので性的なものも多く、やがて「エロ劇画」というジャンルを生み出す。
1967年、菅生定祥および近藤日出造、杉浦幸雄、横山隆一らを中心として漫画社が再興され、『漫画』誌が復刊された。「見る時局雑誌」と銘打たれ、戦時中とほぼ同じ構成だった。近藤日出造と付き合いが長い編集者の峯島正行ですら「時代逆行も甚だしい」と酷評するほど、古臭すぎて誰も読まず、1968年に廃刊。巨額の借金を抱えた近藤は、『漫画』誌の復刊を夢見ながら借金を返すために再びプロパガンダ漫画に手を染め、政党や電力会社のプロパガンダ漫画を主に手掛けたが、1976年に脳卒中で倒れ、1979年に死去した。
1967年、漫画評論家の石子順造が『週刊大衆』(1967年12月28日号)で「風刺を忘れたマンガ天国の住人達」と題する評論を発表。石子順造によると、当時の漫画界は近藤日出造をトップとする「漫画集団」に牛耳られ、停滞していた。石子順造はこの評論において、手塚治虫のアニメプロダクション「虫プロ」の放漫経営についても批判したことから、手塚が激怒。
1960年代を代表する「子供漫画家」であり、1964年に漫画集団に加盟し「大人漫画家」としても活動していた手塚治虫は、この石子順造の論に対して激しい反論を行った。漫画集団の一員として、またアニメーターとしても横山隆一に私淑する手塚は、『COM』誌(昭和四三年二号)において、「こんなバカな相手は無視しよう」と石子順造のことを激しく罵倒すると同時に、「楽しい雰囲気」「メンバーひとりひとりの実力への尊敬と、(中略)はっきりとおとなであるということへの尊敬」と漫画集団を擁護した。しかし結局、大人漫画の衰退には歯止めをかけられず、虫プロも放漫経営の末に1973年に倒産した。(なお手塚は、漫画集団のメンバーでは小島功や馬場のぼると親しかったものの、近藤のことは嫌っていたらしく、当時の漫画集団の人間関係に関して直接的には批判していないものの、近藤日出造の師であった岡本一平の「一平塾」に関して、弟子として「先生の七光」でデビューするという「親密」な側面を著書で指摘している[14]。)
末期
[編集]1968年には『週漫』『ゴラク』など「大人漫画」各誌が劇画誌に舵を切る中、当時の『マンサン』編集長の峯島正行は劇画を嫌っており、劇画誌へは移行しなかった。「ナンセンスに賭ける」という峯島の方針により、『マンサン』の執筆陣は漫画集団系の漫画家が独占しており、手塚に続いて漫画集団に新たに加盟した子供漫画家の赤塚不二夫、藤子不二雄をレギュラーに加えた。1969年より藤子不二雄(当時の名義、後に藤子不二雄Ⓐ名義)の『黒ィせぇるすまん』を連載。同じく1969年より連載された赤塚不二夫『天才バカボンのおやじ』は、セリフが手書きであるなど、彼らは「大人漫画」の習得のため「漫画集団」の画風に意図して寄せていた。
『マンサン』の峯島編集長は、ナンセンス漫画誌として出発した『マンサン』に長編ストーリー漫画を載せるという野心を持っており、手塚に長編漫画の執筆を依頼。1967年1月より『マンサン』で連載された手塚の『人間ども集まれ!』が「大人漫画」初の長編漫画である。「長編」と言っても毎回せいぜい10ページ程度だった(単行本は大幅に修正されている)。同時期の『マンサン』で、「長編」大人漫画の執筆者として手塚と並ぶ看板だったのが佐川美代太郎で、『望郷の舞』『汗血のシルクロード』などの作品において、大人漫画の長編ストーリー漫画における可能性を示した。
『マンサン』を盤石の布陣とした峯島は、実業之日本社において小説部門への異動を受け、1970年に『マンサン』編集長の職を辞した。ところが旧態依然として「大人漫画」を中心に据える(しかも古臭い「漫画集団」系の作家で、しかも「漫画集団」トップの近藤日出造がもう漫画すら描かないのに文章記事のコーナーででかい顔をしている)『マンサン』は売り上げが悪化しており、二代目編集長の福島健夫は劇画路線に舵を切る。当時の『マンサン』に連載していたほとんどの大人漫画家は、同誌の方針変更に順応できなかったものの、手塚治虫や藤子不二雄などトキワ荘系の漫画家はあっさり順応し、1971年より藤子不二雄(同、後に「藤子不二雄Ⓐ」名義)が『マンサン』で『劇画毛沢東伝』を連載。大きな評判を呼び、その後も「革命家シリーズ」として水木しげるの『劇画ヒットラー』など類似の劇画が連載される。福島編集長は他誌からの遅れを取り返すために試行錯誤し、『マンサン』に次第に劇画が増えていった。その末に、1975年、三代目編集長の山本和夫は小島功以外の大人漫画を全員切り、本格的な劇画誌となった。
1970年、筑摩書房より「現代漫画」シリーズが刊行。「現代」の主要な漫画家の主要な作品を収録した選集で、「劇画」「子供漫画」「大人漫画」が満遍なく収録されているが、第1巻が横山隆一、第2巻が横山泰三、第3巻が荻原賢次、第4巻が加藤芳郎と、序盤から大人漫画が続いた。この頃が、大人漫画こそが「現代漫画」の本流とされていた最後の時期である。
1970年、文藝春秋社の『漫画讀本』が休刊。大人漫画の時代は終わった。
その後
[編集]『文春漫画読本』が休刊し、大人漫画がほとんど衰退した後も、大人漫画を顕彰するために創設された文藝春秋漫画賞は、加藤芳郎を中心とする主な選者と、「大人漫画を顕彰する」という目的はそのままで継続され、迷走する。1970年代以後には「劇画」以外にも様々な漫画のジャンルが生まれたが、それらに対し、選考委員の大人漫画家らはただただ困惑した。
1980年代に入ると「劇画」が衰退したこともあり、1982年には文藝春秋臨時増刊号として『漫画讀本傑作選』が出版された(1989年に文春文庫化)。「劇画よ、さらば!帰ってきた'60年代の爆笑」とサブタイトルが付いており、劇画の衰退に伴い大人漫画が復活すると思っていた節があるが、そんなことはなかった。いちおう漫画史においては、「大人向け漫画」「成人向け漫画」の語が暗黙に指すものとして、『漫画讀本』が休刊した1970年頃までが「大人漫画」、『漫画エロトピア』が創刊された1973年頃より「エロ劇画」、『レモンピープル』が創刊された1982年頃より「美少女漫画」の時代となる。1980年代以後は「やおい(BL)」「ケモノ」「TSモノ」など「成人向け漫画」にいくつかのサブジャンルが登場しているが、いずれにしても手塚治虫から「トキワ荘」「大泉サロン(花の24年組)」へと継承された「子供漫画」の延長線上にあるとみなされており、近藤日出造から漫画集団の同人へと継承された「大人漫画」は、再び「成人向け漫画」の代名詞となるどころか、「成人向け漫画」のサブジャンルとしても復活しなかった。むしろ、かえって衰退した(1970年代に隆盛した「エロ劇画誌」において、ブリッジとして「大人漫画」が掲載された例は多かったが、1980年代以後に隆盛した美少女漫画誌に「大人漫画」が掲載された例は皆無である)。
やがて、新聞と並ぶ大人漫画の最後の牙城となった「4コマ漫画誌」にすら美少女漫画が侵食し始めた。漫画の殿堂・芳文社が、既に劇画誌となった『週刊漫画TIMES』の増刊として、読売新聞の新聞漫画『コボちゃん』も担当する大人漫画の王道である植田まさしを主力とする日本初の4コマ漫画誌『まんがタイム』を独立創刊するのが1981年である。創刊当初は大人漫画(というよりむしろ植田まさしに酷似した作家)が雑誌を埋め尽くしていたが、「美少女系4コマ」の増加に伴い、1993年には『まんがタイム』系4コマ誌から「美少女系」「少女漫画系」のみを選抜した『まんがタイムラブリー』が独立創刊された。やがて『まんがタイムスペシャル』『まんがタイムジャンボ』などの「美少女系4コマ漫画誌」が増殖し、さらには「萌え系4コマ」が登場。2002年には『まんがタイム』系4コマ誌から「萌え系」のみを選抜したドキドキ☆ビジュアル4コママガジン『まんがタイムきらら』が独立創刊された。2000年代には『まんがタイムきららMAX』『まんがタイムきららキャラット』などの萌え系4コマ漫画誌が増殖し、2010年代に入ると「家族そろって笑って楽しく」のキャッチコピーでおなじみの『まんがタイム』本誌すら『大家さんは思春期!』『レーカン!』などの「萌え系」で埋め尽くされることになるが、それでも2020年代に至っても植田の『おとぼけ課長(おとぼけ課長代理)』が同誌に連載され続け、植田は同誌の表紙も担当している(植田の病気に伴い、2022年9月号より連載は中断され、表紙も退いた。2023年5月号より復帰したが、扱いは小さくなり、表紙のメイン絵は持ち回りとなっている)。
文春漫画賞は、特にいしいひさいちが受賞した1985年以後[18]は迷走が激しくなった。いしいとともに1985年度の有力候補に挙がった畑中純『まんだら屋の良太』は、その物語性に高い評価を与える選者が多かったが、「『漫画」とは異質を感じる」(加藤芳郎)ということで、代わりに産経新聞の新聞漫画である西村宗「サラリ君」が受賞した。そもそも「漫画」の定義が問題であった。選者の間で、「劇画」を「漫画」に含めるべきか?「物語のある漫画」は漫画なのか?漫画とは「物語+絵」ではなく「案+絵」であるべきではないのか?などと言った議論が紛糾した[19]。選者らは1枚絵の漫画の傑作が登場することを待望していたが、既に正統派の1コマ漫画は発表されることが少なくなっており、毎回選考に苦心していた。それでも、谷岡ヤスジ(1983年度)、高橋春男(1984年度)、いしいひさいち(1985年度)といった異端の作家を授賞させることで、関川夏央曰く、「既に定評を得て久しい作家に対して出し遅れの証文のきらい」はありながらも[18]、文春漫画賞および大人漫画というジャンルはその命脈を保った。
大人漫画の衰退に伴い、1986年度の文春漫画賞ははついに「受賞者なし」の事態となった。元々は古谷三敏『寄席芸人伝』がほぼ満票で決まり、あとは杉浦日向子『百日紅』を選出することで決まりかけていたが、時代に迎合せず大人漫画の伝統を守るという文春漫画賞の本来の目的を貫くため、議論の末に「受賞者なし」とされた。翌年より「カートゥーン」と「劇画」の二部門制にするという案で、議論は一応まとまったが、1987年度にはわたせせいぞう『私立探偵フィリップ』という大人漫画の傑作を選出したことで、文春漫画賞は現状方針の維持が決定。
1988年度の文春漫画賞は杉浦日向子『風流江戸雀』が賞に選ばれたが、選考委員の加藤芳郎は「ドコが面白いのかさっぱりわからない」とコメントした。また、1992年度の受賞者である江口寿史に対しては「久しぶりの『大型新人』」とコメントするなど(江口は当時『すすめ!!パイレーツ』『ストップ!! ひばりくん!』などのヒット作で世間では有名なベテラン)、加藤は時代から取り残されて毎回とち狂ったコメントをして受賞者から失笑と反発を買いながらも、文春漫画賞が終了する2001年まで選考委員を務めた。加藤は、古典的漫画(「大人漫画」)以外の漫画を最後まで全て「ゲキガ」と呼び、最後まで嫌悪していた[20]。
文春漫画賞の最末期である1999年には、テコ入れの為に若手(と言っても50代)の高橋春男が選考委員に選ばれたが、最後の選考となった2001年の時点においては、もはや文春漫画賞の継続を願っている選者は高橋のみであり、元々2001年度をもって退任する予定であった加藤芳郎を初めとして、旧来の選考委員は賞の終了を当然のこととして受け止めた。賞の終了に際して、砂川しげひさは「ナンセンス漫画時代は終わったなあ」とコメントし、東海林さだおは「『漫画読本』をもう一度復刊させれば、漫画界は隆盛を取り戻す」とコメントした。加藤芳郎は「ナンセンス、ギャグ、ユーモア、ペーソス、風刺等(中略)コミック以外のエスプリのあるカツゥーンが大人の漫画の魅力」と考えており、「惜しむべしと思うのも確かだが、文春漫画賞マラソンレースに、再び粒ぞろいが疾走する時代は恐らくもう来ないのではないだろうか」と嘆じた。一方、選考委員としてこれからも「ほんとうに面白い漫画」を選ぶ気がマンマンだった高橋は「諸先輩との感覚のズレ」を語り、「文春漫画残念賞」「老害のたれ流し」[21]とコメントした。
1999年、「現代」を代表する大人漫画家であった谷岡ヤスジが死去したとき、その著作が当時一冊も刊行されておらず、作品を読むことができなかった。そのため、追悼作品集として谷岡ヤスジ傑作選『天才の証明』を実業之日本社より出版したところ、売れ行きが好調で、増刷が続いた[22]。それを受け、2002年には大人漫画の研究者である夏目房之介・呉智英により大人漫画のアンソロジー『復活!大人まんが』が実業之日本社より刊行されるなど、大人漫画の再評価の動きが出た。本書で呉は、過去の名作がいつでも入手可能なように、大人漫画のシリーズを継続的に発行してはどうか、『COMIC CUE』などのオルタナ系漫画のアンソロ(書籍扱い雑誌)の刊行されている時代背景を受けて、大人漫画を発表できるメディアを用意してはどうか、デジタル配信を前提とした場合、ページをめくって読む劇画よりも大人漫画の方が向いているのではないか、などの案を出し、とにかくいろんな試みによって大人漫画に若い才能を呼び寄せることを訴えたが、実現せず、結局、「大人漫画」というジャンルは復活しなかった。
このような経緯で、「大人漫画」というジャンルは歴史のかなたに忘れさられた。特に2000年代以後に執筆された主要な漫画史の本は、漫画集団を主軸とする「大人漫画」の流れを無視している物が多い(その点で、2016年に出版された峯島正行の『回想 私の手塚治虫』は、漫画集団の一員でもある手塚治虫の大人漫画家としての側面に着目し、手塚を大人漫画史の中に位置付けた特徴的な史書である)。
サブジャンル
[編集]プロパガンダ漫画
[編集]1930年代から1960年代にかけての主要な大人漫画家の職能集団「漫画集団」のメンバーは、戦中においても戦後においても政府のプロパガンダ漫画を手掛けた。戦前から活躍した大人漫画家が、戦時中に「鬼畜米英漫画」を描いて軍国主義のプロパガンダに加担したことを全く反省せず、戦争が終わった1945年のうちに手のひらを返して民主主義を称え(転向)、さらには戦後も政府のプロパガンダに加担し続けたことは、戦後世代からは強く批判された。そして、近藤日出造を頂点とするそんな漫画家の職能集団「漫画集団」が「大人漫画」というジャンルの主導権を握り続けたことが、「大人漫画」というジャンルの衰退の遠因となった。
1932年に近藤日出造を中心として結成された大人漫画家の職能集団である「新漫画派集団」は、1940年に機関紙『漫画』を創刊。1941年より「漫画社」を通じて大政翼賛会からの仕事を請けてプロパガンダ漫画を製作していた。この時期のプロパガンダ漫画は、ルーズベルトやチャーチルなど、米国や英国の首脳を「鬼畜」と称して禍々しく描くのが典型であり、「鬼畜米英漫画」と呼ばれる。
終戦直後の1945年10月に近藤日出造を中心として結成された「漫画集団」は、「新漫画派集団」の面子をそのまま受け継いでいながら、米国と自由主義を称え、軍国主義や天皇を批判する漫画を盛んに描くようになった。これを「転向」と呼ぶ。
1967年に近藤を中心として漫画社が再興され、機関紙『漫画』を復刊するが、『漫画』誌の売れ行き不振により漫画社は1969年6月に不渡を出し、また近藤らが運営に参画していた漫画専門学校の倒産もあって、役員の近藤らは大きな借金を抱えた。そのため、1969年に新たに「株式会社漫画アイデアセンター」(通称「漫画社」、旧「漫画社」の役員がそのままスライドし、1974年に「漫画社」に社名変更)を設立し、たまたま『漫画』誌のアンケートハガキを送ってきた政界のフィクサー・笹川良一を通じ、政府のプロパガンダ漫画を手がけて負債を返済することにする。同年に漫画社から出版された近藤日出造『安保がわかる』(1969年)は、80万部を自民党が買い上げ、全国に無料で頒布された。1970年、近藤は「自由新報」(自民党の機関誌)に『日本安全運転』の連載を開始。民社党のプロパガンダ本である近藤日出造『心配にっぽん、この道がある』(1972年)、反日共のプロパガンダ本である近藤日出造『赤はストップ』(1974年、自民党が買い上げて全国に配布された[23])など、1960年代後半から1970年代にかけての近藤は積極的にプロパガンダ漫画を手掛け、また漫画社の編集代表としてプロパガンダ漫画家をまとめ上げた。
1974年には、昭和通信時代に「きゅうりのキューちゃん」(1962年発売)のマーケティングを手掛けた[24]樋口信を漫画社の社長に迎え、各団体のPR漫画を手掛ける広告企画会社として「漫画社」を定義し直した。樋口社長によると、「PR誌、広告宣伝雑誌、機関誌といったもの」は、部数が多いために「漫画家の立場からすれば、作品を発表する対象として捨てがたい媒体」で、「しかも原稿料がいい。(笑)」[25]。近藤日出造は漫画社の社主に収まった。
その後の漫画社は電気事業連合会(電事連)と結びつき、「漫画集団」のメンバーは漫画社を通じて電事連からの仕事を請け、近藤日出造『電気は心 原子力発電を考える』(1974年)などの「原発プロパガンダ漫画」を手掛けるようになった。漫画社取締役の近藤はプロパガンダ漫画で食いつなぐ状況になっても『漫画』誌の復刊を望んでおり、また各界の著名人や書き手の漫画家も協力を惜しまないことを表明していた。そのため、漫画社の樋口社長は、できれば休刊10年後の1977年を目途として『漫画』誌の早期の復刊を近藤に確約していたが[25]、果たされることなく、近藤は1979年に死去。
近藤の没後は鈴木義司が原発プロパガンダ漫画の中心となり、例えばチェルノブイリ原発事故(1986年)が起こった直後の『鈴木義司の原子力発電を考える』(1988年)では「日本ではチェルノブイリ事故は起きない」と訴えている。原発のプロパガンダ漫画は、漫画社が製作した物を電力会社が買い上げ、全国に無料で頒布された。学校に生徒の数だけ送付すれば、学校が意図を察して生徒に配布してくれたらしい[26]。
なお、大人漫画の衰退後も、漫画社は電力会社のプロパガンダ漫画を中心としてPR漫画を専門に手掛ける広告企画会社として存続し、2008年に解散した。有名漫画家が多数在籍し、政党や政府の仕事も請ける、往時はかなり大手の広告代理店であり、例えば第15回参議院議員通常選挙の民社党の漫画ポスター「幸せ、わかち愛」[27](1989年)や、陸上自衛隊の漫画パンフレット『スピリッツ』(陸幕広報部、1989年)などを手掛けている。
漫画社が手掛けた原発プロパガンダ漫画に関して言えば、例えば関西電力による『アラレちゃんの原子力発電豆辞典』(1981年)など、大人漫画以外にも、その時代ごとの人気漫画の人気キャラクターを起用した作品を手掛けた。ただし、著作権者の許可を正式にとっていたかどうかは疑問で、例えば『アトムジャングルへ行く』(1977年)および『よみがえるジャングルの歌声』(1978年)は、手塚治虫の『鉄腕アトム』のキャラクターを使った原発プロパガンダ漫画であるが、手塚および手塚プロダクションに無許可で出版された。これを知った手塚は、即座に抗議をして配布を取りやめさせた。この作品は、チェルノブイリ原発事故後に改めてマスコミに注目され、手塚は1988年に『コミックボックス』の取材で、改めて「ぼくも原発に反対です」との声明を出した[28]。同じく2011年の福島原発事故後にも、電力会社が広告会社と結びついて漫画を利用した「プロパガンダ」の象徴的事例としてマスコミに取り上げられ、手塚プロダクションが改めて無関係とのコメントを出した[29]。
参照
[編集]- ^ 『回想 私の手塚治虫』峯島正行、山川出版社、2016年12月、p.98
- ^ 『プレジデント』1986年3月号、p.10、プレジデント社
- ^ 『コミカライズ魂』、すがやみつる、河出書房新社、2022年
- ^ 「新評」1968年4月号、p.110
- ^ 『復活!大人まんが』夏目房之介、呉智英、2002年、実業之日本社、p.2
- ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、130頁。ISBN 9784309225043。
- ^ 『マンガ芸術論』,富士書院,石子順造,1967年,p.122
- ^ 石子順『日本漫画史 上』
- ^ 小林信彦『一少年の観た「聖戦」』、p.196
- ^ 『週刊朝日』1949年4月24日号、近藤日出造・談「算盤主義を排せ」
- ^ 『中央公論』1956年7月号、pp.310-316、近藤日出造「子供漫画を斬る」
- ^ 佐藤まさあき『劇画の星をめざして』文藝春秋社、p.283、1996年、佐藤まさあき
- ^ 『回想 私の手塚治虫』峯島正行、山川出版社、2016年12月、p.101
- ^ a b 『手塚治虫 漫画の流儀』、手塚治虫、石子順
- ^ 『回想 私の手塚治虫』峯島正行、山川出版社、2016年12月、p.105
- ^ 『回想 私の手塚治虫』峯島正行、山川出版社、2016年12月、p.110
- ^ 「戦時下の漫画 -新体制期以降の漫画と漫画家団体-」 井上祐子、立命館大学
- ^ a b 『文藝春秋漫画賞の47年』p.458、文藝春秋社、2002年
- ^ 『文藝春秋漫画賞の47年』p.311、文藝春秋社、2002年
- ^ 『文藝春秋漫画賞の47年』p.457、文藝春秋社、2002年
- ^ 『文藝春秋漫画賞の47年』p.467、文藝春秋社、2002年
- ^ 『復活!大人まんが』夏目房之介、呉智英、2002年、実業之日本社、p.36
- ^ 『自由民主党年報』、1974年、p.88
- ^ 『流通情報』1996年9月号、p.33、流通経済研究所
- ^ a b 『近代中小企業』1977年5月号、p.56
- ^ 『月刊総評』日本労働組合総評議会、1978年12月号、p.89
- ^ 「参院選広告速報 / 天野祐吉」『広告批評』第129号、マドラ出版、1989年8月1日、73 - 79頁、NDLJP:1853089/105。
- ^ 『図説 危険な話 不思議で不安な原子力発電のこと』コミックボックス編、1989年
- ^ 『朝日新聞』2013年4月18日付、p4「アトムの涙」
関連項目
[編集]- 峯島正行 - 漫画評論家。『漫画サンデー』創刊編集長(1965-1970)として大人漫画を振興し、当時は漫画評論家の「小城彪」としても知られた。
- 夏目房之介 - 大人漫画の研究者。一方で戦後世代の漫画研究者として、手塚治虫を(戦後)漫画の始祖とする「手塚史観」を広めた人物でもある。
- お笑い漫画道場 - 大人漫画の作家が起用された日テレ系のバラエティ番組。大人漫画の衰退と同時期にテレビが隆盛し、1970年代当時の代表的な大人漫画家はむしろタレントとしての活動が多くなった。
- エロ劇画 - 1970年代には、旧来の「大人漫画」に代わって「大人向け漫画」の代名詞となり、「成人漫画」と言うと「エロ劇画」のことを指すようになった。