南雲親一郎
南雲 親一郎 | |
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生誕 |
1886年9月19日 日本・山形県 |
死没 | 1963年11月22日(77歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1907年 - 1939年 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)9月19日[1] - 1963年(昭和38年)11月22日[1])は、日本の陸軍軍人。満洲国陸軍軍官学校長[2]。大韓民国大統領朴正熙の恩師。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]1886年(明治19年)に山形県で生まれた[1]。陸軍士官学校第19期卒業[1]。1933年(昭和8年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し[3]、第2師団司令部附となり[3]、新潟医科大学に配属された[3]。1935年(昭和10年)3月15日に津連隊区司令官に転じ[4]、1936年(昭和11年)に歩兵第78連隊長に就任した[3]。
1937年(昭和12年)8月2日に陸軍少将に進級し[3]、第8師団司令部附を経て[1]、9月16日に歩兵第108旅団長(北支那方面軍・第110師団[5])に就任した[1]。日中戦争に出動し、京漢鉄道沿線・石門地区の警備や、冀西・晋察冀辺区で討伐戦を行い、治安維持に努めた[1]。1939年(昭和14年)5月31日に北支那方面軍司令部附となり[1]、7月22日に独立混成第15旅団長(北支那方面軍[6][7])に就任した[1]。12月1日に待命[3]、12月28日に予備役に編入された[1]。
その後満洲国陸軍軍官学校長に就任し[2]、1944年(昭和19年)に朴正熙が同校を卒業している[2]。卒業後は、朴から高麗人参が送られるようになったという[2]。
1945年(昭和20年)3月31日に召集され、山形連隊区司令官兼山形地区司令官に就任した[8]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]。
1961年(昭和36年)11月に国家再建最高会議議長となった朴正熙が訪日した際には[2]、池田勇人総理との会談後に開かれた昼食会に呼ばれ[2]、再会を果たした[2]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 福川 2001, 538頁.
- ^ a b c d e f g 독도문제 빌미된 ‘친일 군인’ 박정희의 ‘독도밀약’ ハンギョレ 2011年5月15日
- ^ a b c d e f 外山 1981, 247頁.
- ^ 『官報』第2459号「叙任及辞令」1935年3月16日。
- ^ 外山・森松 1987, 514頁.
- ^ 外山・森松 1987, 511頁.
- ^ 外山・森松 1987, 516頁.
- ^ 「第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。
- ^ 『官報』第219号・付録「辞令」1913年4月25日。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。