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八代郡 (甲斐国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山梨県八代郡の範囲

八代郡(やつしろこおり/ぐん)は、山梨県甲斐国)にあった

郡域

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消滅時の郡域は下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。

概要

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巨麻郡(巨摩郡)、山梨郡都留郡とともに甲斐四郡とも呼ばれ、巨摩郡、山梨郡とともに甲府盆地に存在する国中三郡のひとつであった。甲府盆地南縁から甲斐南部の山岳地帯にあたり、北部を山梨郡、西部を巨摩郡、東部を都留郡、南部を駿河国と接する。山梨郡と同じく甲斐国の国府が置かれていた。なお『拾芥抄』では山代郡と記載されている。八代郡の郡名は山代郡がなまったものと推測されている。

近世までの歴史

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古代の律令制下では地方制度として国郡制が施行され、甲斐国では八代郡を含む四郡が設置される。八代郡に関する初見史料は『続日本紀神護景雲2年(768年)5月28日条とされる[1]

郡域のうち白井郷に比定される甲府盆地南部の曽根丘陵甲斐銚子塚古墳をはじめとする畿内の影響を受けた古墳前期の大型古墳が分布している地域で、伝統的勢力の根拠地である[1]古墳時代後期の甲府盆地においては、盆地南部の伝統的勢力の衰退後に盆地各地へ古墳の分布が拡散し、6世紀後半段階では盆地東西に二大勢力が出現する。八代郡域にあたる笛吹市御坂町井之上には盟主とされる姥塚古墳を築造した勢力と、巨摩郡域にあたる甲府市千塚の加牟那塚古墳を盟主とする勢力が対峙していた構造が指摘されている。

7世紀には山梨郡域にあたる笛吹市春日居地区において白鳳期の古代寺院である寺本廃寺(寺本古代寺院)を創建する勢力が出現しているが、国郡編成にあたり盆地赤口の在地勢力が立郡に携わっていた可能性が考えられている[2]

八代郡の郡衙所在地は不明であるが、八代郡衙については笛吹市八代町高家を「郡家」が訛化したものであるとする説があるほか、同市八代町米倉には屯田・屯倉跡が存在したという伝承があり、同市八代町永井の瑜伽寺には奈良時代の塑像片が伝来し、境内からは同時期の布目瓦が出土していることから周辺は八代郡における政治的中心地であったと考えられている。

古代甲斐国においては山梨郡が政治的中心地であったと考えられており、山梨郡山梨郷に比定される笛吹市春日居地区には寺本廃寺や官衙遺跡が分布し条里制地割も見られることから、国府所在地であったと推定されている。一方、『和名類聚抄』(以下『和名抄』)においては国府所在地を八代郡としており、八代郡八代郷に比定される笛吹市御坂町国衙はその遺称地であると考えられている[1]。御坂町国衙は八代郡と山梨郡井上郷との郡境付近に比定されることからも、春日居地区を前期国府、御坂町国衙を後期国府とし、前者から後者へ移転された可能性が考えられている[3]

平安時代後期には10世紀初頭に成立し、国中三郡に田地が分布していた市河荘が存在し、中世には石和流武田氏の本拠であった石和御厨金沢流北条氏領であったと考えられている石和荘、天皇家領の青島荘、古代には在庁官人三枝氏の基盤であった八代荘のほか、向山荘や石橋荘、井上荘などの存在が見られる。

『和名抄』国郡部においては「八代」は「夜豆之呂」と訓じられ、郡域は旧東八代郡西八代郡全域から南巨摩郡身延町南部町富士川左岸、富士河口湖町西湖付近までが比定されている。八代郷、長江郷、白井郷、沼尾郷、川合郷の5の管郷を持っている。

式内社

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延喜式神名帳に記される郡内の式内社

神名帳 比定社 集成
社名 読み 付記 社名 所在地 備考
八代郡

近世以降の沿革

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所属町村の変遷は東八代郡#郡発足までの沿革西八代郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照

脚注

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  1. ^ a b c 『山梨県の地名』、p.76
  2. ^ 考古学的に見た古墳後期における甲府盆地の諸勢力については、坂本美夫「群集墳の出現」『山梨県史』通史編1原始・古代 第四章三節。
  3. ^ 甲斐国府の所在地については笛吹市一宮地区を中間国府とする三転説もあり、確定していない。甲斐国府所在地の研究史については、猪股喜彦「国府」『山梨県史』通史編1原始・古代 第五章第六節一

参考文献

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  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 19 山梨県、角川書店、1984年9月1日。ISBN 4040011902 
  • 旧高旧領取調帳データベース
  • 原正人「郡郷の成立」『山梨県史』通史編1原始・古代 第五章第五節
  • 猪股喜彦「国府」『山梨県史』通史編1原始・古代 第五章第六節一

関連項目

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先代
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行政区の変遷
- 1878年
次代
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