コンテンツにスキップ

佐伯惟治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐伯惟治
時代 戦国時代
生誕 明応4年(1495年
死没 大永7年11月25日1527年12月17日
別名 仮名:二郎
神号 富尾大権現
戒名 大機正徹大禅定門
墓所 尾高智神社(宮崎県延岡市
官位 薩摩守
主君 大友義鑑
氏族 豊後佐伯氏
父母 父:佐伯惟世
兄弟 諸説有り
千代鶴丸
テンプレートを表示

佐伯 惟治(さえき これはる[1])は、豊後佐伯氏第10代当主。豊後国海部郡栂牟礼城主。大永年間に、戦国期の佐伯氏の居城である栂牟礼城を築いた。

生涯

[編集]

大永7年(1527年)、肥後菊池義武に通じて大友義鑑に対し謀叛を企てていると讒言する者があり、義鑑は臼杵長景に惟治の討伐を命じた。11月13日に栂牟礼城攻めが始まったが、栂牟礼城は堅固で落ちる気配が無かったため、長景は義鑑への口添えを約束して開城を促し、惟治はこれに応じて日向へと退去した。しかしこれは長景の罠であり、城を出た惟治は長景の要請を受けた土豪・新名氏の襲撃に遭って進退窮まり、11月25日に三川内の尾高智山で自害した。享年33。

惟治死後、豊後佐伯氏を継いだのは惟常(甥(兄・惟安の子)とされる)だが、惟教までの続柄には諸説有って系図が確定していない(10代惟治-11代惟常-12代惟教)。

没後

[編集]

翌大永8年(1528年)に臼杵長景が病死し、また各地で異変・災厄が相次いだ。これらは惟治の祟りによるものと噂され、怨念を鎮めるべく富尾神社が建立された。加えて惟治が自害した尾高智山には胴体を祀った尾高智神社が建てられ、その他にも首を祀った御頭神社、刀・脇差を祀った鴟尾神社など、日豊国境一帯に惟治を祀る神社が20余り建立された。

また、豊後佐伯氏は大神姓であり、蛇神信仰とのつながりが深いことから、この地域では惟治が「トビノオサマ」と呼ばれ、夜刀神と同一視されるようにもなった[2]

人物・逸話

[編集]
  • 智勇兼備の良将であったと伝わるが、一方で春好という怪僧を寵愛して家臣の諫言を聞かずに領民を苦しめていたという説もある。

脚注

[編集]
  1. ^ 豊後佐伯氏の仮名表記については、『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985)236頁「佐伯氏」の項および『日本人名大事典』第3巻(平凡社、1979)37頁「佐伯惟治」の項などに見える通り、他の佐伯氏同様「さえき」とするのが通例だが、一部には大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)制定)と同様に「さいき」と表記する例も見られる(『大分歴史事典』(大分放送、1990)355頁「佐伯惟治の乱」の項)。
  2. ^ 『大分県史 民俗篇』(1986)365頁