九条良平
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『天子摂関御影』 | |
時代 | 平安時代末期-鎌倉時代前期 |
生誕 | 元暦元年4月19日(1184年5月30日) |
死没 | 延応2年3月17日(1240年4月10日) |
別名 | 醍醐太政大臣 |
官位 | 従一位、太政大臣 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 九条家 |
父母 |
父:九条兼実 母:藤原頼輔女 養父:九条良経 |
兄弟 | 良通、良経、任子、良円、良平、良快、良輔、良尋、良海、良恵、玉日 |
妻 | 藤原範光女、左京大夫兼教女 |
子 | 藤原高実、教房、良輝、良頼、最源、女子(小倉公雄室) |
九条 良平(くじょう よしひら)は、鎌倉時代前期の公卿。関白・九条兼実の三男。兄・九条良経の養子。官位は従一位、太政大臣。醍醐太政大臣と呼ばれる。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』及び『尊卑文脈』の内容に従って記述する。
- 正治2年(1200年)12月20日、従五位上に叙せられる[1]。同月28日、侍従に任ぜられる。
- 建仁元年(1201年)1月6日、正五位下に昇叙[2]。同月29日、左少将に任ぜられる。
- 建仁2年(1202年)1月22日、土佐権介を兼ねる。同年閏10月24日、左中将に転任し、春宮権亮を兼ねる。
- 建仁3年(1203年)1月5日、従四位下に昇叙。同年10月24日、従四位上に昇叙。同年12月8日、正四位下に昇叙[3]。
- 元久元年(1204年)3月6日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。同年4月12日、従三位に昇叙。
- 元久2年(1205年)1月29日、備後権守を兼ねる。
- 建永元年(1206年)1月16日、正三位に昇叙。同年4月25日、復任[4]。
- 承元元年(1207年)6月26日、復任[5]。
- 承元2年(1208年)1月5日、従二位に昇叙。同年7月9日、権中納言に転任。同月19日、勅授帯剣を許される。同年8月8日、皇后宮権大夫を兼ねる。同年10月14日、正二位に昇叙[6]。
- 承元3年(1209年)4月25日、皇后宮権大夫を止める[7]。
- 建暦元年(1211年)1月18日、権大納言に転任。
- 建保元年(1213年)12月13日、母の喪に服す。
- 承久3年(1221年)閏10月10日、大納言に転正。
- 元仁元年(1224年)12月25日、内大臣に転任。
- 嘉禄2年(1226年)白馬踏歌の内弁を務める。
- 安貞元年(1227年)4月9日、左大臣に転任。
- 寛喜2年(1230年)10月25日、左大将を兼ねる。同年12月25日、左馬寮御監。
- 寛喜3年(1231年)4月18日、上表[8]し、左大臣左大将を辞した。息男高実を権大納言に申任す。
- 嘉禎4年(1238年)7月2日、内蔵頭信盛を使いとして太政大臣に任ずべしと仰せが伝えられる。7月20日、太政大臣に任ぜられ同日に従一位昇叙。
- 暦仁2年(1239年)1月19日、病により出家。
- 延応2年(1240年)3月17日、播磨国にて薨去。享年57。醍醐太政大臣と号す。
修理職の統括者
[編集]遠藤珠紀氏の指摘によれば、修理職では長官である修理大夫とは別の統括者が存在し「職務」と称されていたという[9]。そして寛喜年中に修理職を拝領していた良平は、安貞元年(1227年)10月に三条基定を修理大夫に推挙しているとある[10]。つまり良平は修理職の統括者である知行者(「職務」)として実質的な支配権を有していたのである。
系譜
[編集]- 父:九条兼実
- 母:修理大夫藤原頼輔女
- 養父:九条良経
- 妻:藤原範光女
- 男子:藤原高実
- 左京大夫兼教女
- 男子:最源 - 天台座主第90世
- 生母不明の子女
- 女子:小倉公雄室
- 男子:教房
- 男子:良輝
- 男子:良頼
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
- 遠藤珠紀、「鎌倉期朝廷社会における官司運営の変質:修理職・内蔵寮の検討を通して」、『史学雑誌』2005年114巻10号p. 1716-1736