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リスカム・ベイ (護衛空母)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リスカム・ベイ
基本情報
建造所 ワシントン州バンクーバーカイザー造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 航空母艦護衛空母
級名 カサブランカ級
建造費 6,033,492USドル[1]
艦歴
起工 1942年12月9日
進水 1943年4月19日
就役 1943年8月7日
最期 1943年11月24日、マキンの戦いにおいて戦没
要目
基準排水量 8,319 トン
満載排水量 11,077 トン
全長 512フィート3インチ (156.13 m)
水線長 490フィート (150 m)
最大幅 65フィート2インチ (19.86 m)
飛行甲板 474×108フィート (144×33 m)
吃水 満載時20フィート9インチ (6.32 m)
主缶 B&W製ボイラー×4基
主機 スキナー式ユニフロー蒸気機関英語版
出力 9,000馬力 (6,700 kW)
推進器 スクリュープロペラ×2軸
最大速力 19ノット (35 km/h)
航続距離 10,240海里 (18,960 km)/15ノット
乗員 士官・兵員860名
兵装
搭載機 28機
その他 カタパルト×1基
艦載機用エレベーター×2基
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リスカム・ベイ (USS Liscome Bay, CVE-56) は、アメリカ海軍第二次世界大戦で運用した航空母艦[2]カサブランカ級航空母艦の2番艦。艦名はアラスカ南東海岸沖にあるダール島英語版のリスカム湾に因んで命名された。1943年8月に就役後、太平洋戦争中期のギルバート・マーシャル諸島攻略戦ガルヴァニック作戦)に参加する。マキン攻防戦に従事中の11月24日(日本時間11月25日[3][4]日本海軍の潜水艦「伊175」(艦長・田畑直中佐)の魚雷攻撃により爆沈[5][6]太平洋戦争でアメリカ海軍が失った最初の護衛空母となった[7]

艦歴[編集]

1942年(昭和17年)12月9日に合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所で起工し、当初はアミール (Ameer) の艦名でイギリス海軍に貸与される予定であったが、建造途中にアメリカ海軍によって取得されることとなった[注釈 1]

1943年4月19日にベン・モレル夫人によって進水し、同年6月28日に「リスカム・ベイ」と命名される。7月15日に CVE-56護衛空母)へと艦種変更された[注釈 2]。8月7日、アーヴィング・ウィルトジー英語版艦長の指揮下で就役した。

ガルヴァニック作戦[編集]

西海岸沿いの訓練活動の後、リスカム・ベイは1943年10月21日にカリフォルニア州サンディエゴを出航し、一週間後に真珠湾に到着した。追加の演習、運用訓練を完了すると最初の戦闘任務に就く。第24空母部隊の一部として11月10日に真珠湾を出航し、リッチモンド・K・ターナー少将(旗艦「ペンシルベニア」)指揮下の第52任務部隊と合流、ギルバート諸島に向かう(連合軍海軍部隊、戦闘序列)。ターナー提督とホーランド・スミス将軍は、マーシャル諸島に近いマキンの方に注意をむけており、真珠湾から来た北方攻撃部隊と第27歩兵師団英語版(師団長ラルフ・スミス将軍)がマキン攻略を担当する[9]。アメリカ海軍は、大型空母軽空母を基幹とする複数の空母機動部隊を投入し、さらに「リスカム・ベイ」を含む護衛空母8隻も参加した[7]

太平洋中部ギルバート諸島におけるアメリカ軍の最初の大規模反撃は[10]、11月20日の午前中に始まった[11]タラワ攻略戦マキン攻略戦アパママの戦い)。「リスカム・ベイ」の艦載機部隊は2,278回の出撃を数え、敵飛行場に対する空爆により上陸部隊を支援した。アメリカ軍は1日でマキンを攻略する予定だったが、上陸部隊(第27師団)は日本兵の掃討に手間取り[12][注釈 3]、11月23日になってやっとマキンを占領した[13]。上陸部隊を支援するために連合軍海上部隊はマキン周辺海域に留まっており、このため潜水艦「伊175」の攻撃に晒されることになった[14]

喪失[編集]

日本海軍潜水艦伊175」は[15]、10月中旬以降ハワイ諸島ウェーク島近海で哨戒を行っていたが[16]、獲物が全く無かったため哨戒を打ち切ってトラック諸島へ帰投する途中だった[17][18]。しかし11月19日にマキンタラワに米軍が来襲したため、連合艦隊および第六艦隊は潜水艦による反撃を試みた[19]。第六艦隊は隷下潜水艦9隻で甲潜水部隊を編成し、タラワやマキンへ向かわせる[20][21]。「リスカム・ベイ」を撃沈する「伊175」も、そのうちの1隻であった[22]。11月23日、「伊175」はマキンが陥落したその日、マキン沖に到着した。

ヘンリー・M・ムリニクス少将率いる第52.3任務群 (Task Group 52.3) は護衛空母3隻、すなわち「リスカム・ベイ」(ムリニクス少将旗艦)、「コーラル・シー (USS Coral Sea, CVE-57) 」、「コレヒドール (USS Corregidor, CVE-58) 」と護衛の駆逐艦部隊で編成され[23]、ロバート・M・グリフィン少将座乗の戦艦ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-40) 」はマキンの南西20マイルの水域を15ノットで航行していた。11月24日(日本時間11月25日)4時30分、「リスカム・ベイ」の起床ラッパが鳴った。5時5分に通常の総員配置が行われ、飛行要員は夜明けの発艦に向けて航空機の準備を行った。この時、「ニューメキシコ」のレーダーが「伊175」と思しき目標を探知した[24]逆探を装備していた「伊175」はレーダー波を探知して、ただちに潜航して艦隊に接近していった[24]

同水域にこれ以上の潜水艦の警告はなかった。「伊175」では、田畑直艦長が艦内放送で輸送船団と空母群を襲撃する旨放送し、酸素魚雷を4本発射した[25]。5時10分、「リスカム・ベイ」では偵察要員が「魚雷が来た!」と叫んだ。魚雷は機関室後部の船尾部分に命中し、航空機用爆弾庫を破壊、大爆発が起こる。駆逐艦「ホーエル (USS Hoel, DD-533) 」[注釈 4]の通信士官だったジョン・C・W・ディクス中尉は「それは全く船のようには見えなかった」と記した。「弾薬集積庫のようだった...リスカム・ベイは爆発とともにまさにオレンジ色の火の玉となった」。爆発によって、「リスカム・ベイ」の後部はあらゆる破片と化して消え去り、いくつかは1,300メートル離れていた「ニューメキシコ」に降りかかってきた[27]。他の魚雷は「コーラル・シー」と「コレヒドール」の至近を通過していった[28]

5時33分、前半部のみが残っていた[27]「リスカム・ベイ」は右舷に傾き、53名の士官と591名の兵員と共に沈没した[5]。その中にはムリニクス少将、ウィルトジー艦長、三等コックのドリス・ミラー[注釈 5]が含まれた。916名の乗組員の内、272名が駆逐艦「モリス英語版 (USS Morris, DD-417) 」「ヒューズ英語版 (USS Hughes, DD-410) 」「ハル (USS Hull, DD-350) 」によって救助された。

「リスカム・ベイ」を雷撃した「伊175」は[30]、アメリカ駆逐艦から爆雷攻撃を受けて損傷したがこれを切り抜け[4]、トラック泊地に帰投した[31]。第六艦隊がギルバート諸島に投入した日本軍潜水艦部隊のうち6隻が撃沈され、生還したのは伊175を含め3隻だけであった[22][注釈 6]。 また日本軍は「リスカム・ベイ」を救援中のアメリカ艦隊を発見しており、ルオット島に展開していた第752海軍航空隊一式陸上攻撃機部隊(指揮官野中五郎少佐)による薄暮航空攻撃を企図する[注釈 7]。だが悪天候により接敵できなかった[34]ギルバート諸島沖航空戦[35]

第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス中将は、「リスカム・ベイ」の喪失の原因は、陸軍がマキンとタラワを早急に占領しなかったからだとし、素早く占領していれば「リスカム・ベイ」をもっと早く戦場から引き揚げさせる事ができて撃沈させられる事はなかっただろうと非難した[36]。「リスカム・ベイ」の戦死者数はマキン島攻撃でのアメリカ軍の死傷者数よりも多く[14]、両者を合計すると日本軍マキン守備隊の総人数を上回った。ムリニクス少将の名前は、間もなくタラワに完成した航空基地に冠されている[37]。後の法学者、ロバート・キートン英語版はこの戦闘で生き残った。

「リスカム・ベイ」が爆弾庫への被雷で呆気なく沈没した事により、カサブランカ級護衛空母の爆弾庫の防御対策が強化された[38]。その内容は、爆弾庫の周囲に燃料タンクを設置して、重油を満たしてショックを和らげようとするものであった[31]。しかしアメリカ海軍は水中防御力の強化より航空作戦能力の維持を優先したので、イギリス海軍の護衛空母ほど徹底した対策ではなかった[39]

「リスカム・ベイ」は第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。「リスカム・ベイ」を葬った伊175は、1944年(昭和19年)2月17日にタロア島北東200海里で駆逐艦「ニコラス (USS Nicholas, DD-449) 」に撃沈された[40]

出典[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 翌年7月下旬、アメリカ海軍のボーグ級航空母艦の「バフィン (USS Baffins, CVE-35) 」がイギリス海軍に貸与され、イギリス護衛空母「アミール (HMS Ameer, D01) 」となった。
  2. ^ 艦種記号の“CVE”は、乗組員からは「可燃性で無防備な消耗品 Combustible, Vulnerable, Expendable」と呼ばれたという[8]
  3. ^ 戦艦「ミシシッピ (USS Mississippi, BB-41) 」では砲塔が爆発し、43名が死亡して19名が負傷した[6]
  4. ^ 後日、「ホエール」はサマール島沖で栗田艦隊と交戦し、護衛空母「ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73) 」などと共に沈没した[26]レイテ沖海戦)。
  5. ^ 真珠湾攻撃時の戦艦「ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48) 」乗組員で、ベニオン艦長の救護や対空戦闘での功績により、アフリカ系アメリカ人として初めて海軍十字章を受章した[29]
  6. ^ 喪失(伊19伊21伊35伊39伊40呂38[32]
  7. ^ 752空は、司令園山斉大佐(海軍兵学校49期)、飛行長瀬戸山八郎少佐(海兵58期)、飛行隊長野中五郎少佐(海兵61期)[33]

出典[編集]

  1. ^ Liscome Bay Statistics”. United States Maritime Commission. 2018年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月18日閲覧。
  2. ^ 大内、護衛空母入門 2005, pp. 84–85第5表 アメリカ海軍護衛空母一覧
  3. ^ 戦史叢書98 1979, p. 277.
  4. ^ a b 昭和18.8.15~昭和18.12.31太平洋戦争経過概要その6(防衛省防衛研究所)18年11月24日~18年11月30日 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C16120637600 
  5. ^ a b ショー、Tarawa 1998, pp. 205–207米護衛空母を撃沈
  6. ^ a b 戦艦ワシントン 1988, pp. 246–247.
  7. ^ a b 大内、護衛空母入門 2005, pp. 228–229.
  8. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, p. 141太平洋戦争時における護衛空母全般の評価
  9. ^ ニミッツ 1962, pp. 217–219ギルバート諸島の奪回
  10. ^ ショー、Tarawa 1998, pp. 25–28タラワ、マキン、アパママ同時占領へ
  11. ^ ショー、Tarawa 1998, pp. 199–202ブタリタリ島に三個大隊
  12. ^ ニミッツ 1962, p. 220.
  13. ^ ショー、Tarawa 1998, pp. 203–205日本守備隊の逆襲
  14. ^ a b ニミッツ 1962, p. 221.
  15. ^ 潜水艦百物語 2018, p. 322機材篇(72)海大六型b
  16. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 174–176(35)護衛空母「リスカムベイ」撃沈
  17. ^ 永井、木俣、227ページ
  18. ^ 『日本潜水艦戦史』146頁
  19. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 276–280作戦経過
  20. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 171–173(34)悲劇のギルバート作戦
  21. ^ 戦史叢書98 1979, p. 278挿図第十五、ギルバート方面潜水艦配備図(昭和十八年十一月十九日~十二月三日)
  22. ^ a b 潜水艦百物語 2018, p. 172.
  23. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 41.
  24. ^ a b 永井、木俣、230ページ
  25. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 47.
  26. ^ ニミッツ 1962, pp. 336–343サマール沖海戦
  27. ^ a b 永井、木俣、231ページ
  28. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 48.
  29. ^ パール・ハーバー 1991, pp. 80–81.
  30. ^ 潜水艦百物語 2018, p. 176.
  31. ^ a b 永井、木俣、232ページ
  32. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 280–281第六艦隊司令部の反省
  33. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 336–340「べらんめえ隊長」、ルオットへ
  34. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 339.
  35. ^ 昭和18.8.15~昭和18.12.31太平洋戦争経過概要その6(防衛省防衛研究所)18年11月24日~18年11月30日 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C16120637600 
  36. ^ ブュエル, 316ページ
  37. ^ 永井、木俣、233ページ
  38. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 49.
  39. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, p. 151雷撃による損傷とそれによる戦訓対策●軽空母と護衛空母
  40. ^ 戦史叢書98 1979, p. 477付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊175

参考文献[編集]

  • 大内建二「第5章 護衛空母の戦い」『護衛空母入門 その誕生と運用メカニズム』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 勝目純也『日本海軍潜水艦百物語 ホランド型から潜高小型まで水中兵器アンソロジー』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年12月。ISBN 978-4-7698-3097-9 
  • 木俣滋郎「第3節 アメリカ護送空母「リスカムベイ」」『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
  • ドナルド・M・ゴールドスチン、キャサリン・V・ディロン、J・マイケル・ウェンジャー『パール・ハーバー THE WAY IT WAS:PEAL HARBOR』千早正隆(訳)、光人社〈フォト・ドキュメント〉、1991年11月。ISBN 4-7698-0582-9 
  • 坂本金美『日本潜水艦戦史』図書出版社、1979年。 
  • 佐藤暢彦「第十三章 ワレ、絶海ノ空ニアリ ― 中部太平洋の落日」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。ISBN 978-4-7698-3103-7 
  • ヘンリー・I・ショー『タラワ Tarawa 米海兵隊と恐怖の島』宇都宮直賢 (訳)、光人社〈光人社NF文庫〉、1998年10月(原著1971年)。ISBN 4-7698-2210-3 
  • 瀬戸利春『歴史群像No.82 激突!タラワ攻防戦』学習研究社、2007
  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年、ISBN 4-257-17208-8
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • トーマス・B・ブュエル/小城正(訳)『提督スプルーアンス』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-401144-6
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定 訳、光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0 
  • 歴史群像編集部編『アメリカの空母 対日戦を勝利に導いた艦隊航空兵力のプラットフォーム』 第53巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2006年2月。ISBN 4-05-604263-2 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]