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マーリー・ヒル (マンハッタン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標: 北緯40度44分54秒 西経73度58分42秒 / 北緯40.74833度 西経73.97833度 / 40.74833; -73.97833

マーリー・ヒル歴史地区 (Murray Hill Historic District) のテラスハウス
高層コンドミニアム

マーリー・ヒル (Murray Hill) は、ニューヨーク市マンハッタンミッドタウンにある地区である。1999年に、マーリー・ヒルが属するマンハッタン・コミュニティ・ボード 6 (en) は、この地区の境界を、南は東34丁目、北を東40丁目、西をマディソン・アベニュー、そして東を3番街と定めた[1]

歴史

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18世紀

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マーリー・ヒルの名前は、18世紀のクエーカーの商人、マーリー家 (Murray family) に由来している。主な事業内容は海運と海外貿易であった。一族の家長であったロバート・マーリー (Robert Murray, 1721–1786) はアイルランドアーマー県で生まれ、1732年にペンシルベニア州へ移住し、ノース・カロライナ州に少し住んだ後、1753年にニューヨーク州へやってきた。彼はそこで商売を始め、最終的にニューヨークで最も取扱量の多い海運業者となった。1762年頃、マーリーは、ニューヨーク市から土地を借り受け、大きな農園と家を建設した。彼の豪邸は現在のパーク・アベニューと36丁目のあたりの丘の上に建てられ、Inclenberg (or Belmont) と名付けられたが、一般にはMurray Hillと呼ばれた。この正方形の豪邸は、ボストン郵便道路 (en) から伸びる道とつながっていた[2]。総面積は29エーカー (120,000 m2)以上であった。この農園は現在の33丁目の数メートル南から38丁目と39丁目の真ん中あたりまで広がっていた。北に行くほど農園の幅は広くなり、おおよそレキシントン・アベニューからマディソン・アベニュー5番街の間くらいまでの広がりを持っていた[3]

Inclenbergは、急な傾斜の氷礫土の丘で、マンハッタン島に典型的な依然人の手で改変が加えられていない後氷期の地形であった。これは最も粗く不均質な石や砂利、巨礫の混合がほとんど貫通不可能な密度の母岩の中に凝縮され、マンハッタン島に横たわる片岩の頂上をなしていた... これは34丁目から自然に隆起しており、42丁目に向かって沈み込み、レキシントン・アベニューからブロードウェイに広がっていた"[4]。そのような土壌のため、マーリーがこの丘を真剣に農場にしようとしていたかは定かではなく、マンハッタンの他の高台の上に建てられた所有者の地位の高さを象徴する豪邸たちと同様に[5]、代わりにこの豪邸は他の目的に用いられていたと歴史家のEdwin G. BurrowsとMike Wallaceは指摘する。これらの豪邸のいくつかは、穀物を生産していたが、主な目的は、疫病からの避難場所を除けば、上流階級向けの劇場として用いられていた[6]

マーリー・ヒルの37丁目とパーク・アベニューの地点にあるDAR飾り額

19世紀

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厩舎として1860年代に建てられたen:Sniffen Court

19世紀中は、この地区がニューヨーク市のアップタウンであり、これより北はほとんどが農地だった。5番街と42丁目の現在のニューヨーク公共図書館ブライアント・パークの位置にあったクロトン貯水池 (en) が当時の市街地の北端であった。厳冬の1808年、出入港禁止令によりニューヨーク港が閉鎖されていた時、その革新的な労働軽減プログラムにより仕事にあぶれた港湾労働者たちは、代わりにマーリー・ヒルの工事に従事していた。この丘の山頂部は高さ12-14フィート分が削られ、埋め立てに使われた[7][8]。1833年、ニューヨーク・アンド・ハーレム鉄道 (en) がマーリー・ヒルを通って建設され、この区間は1834年5月1日に開業した[9]。こうして、かつては27丁目にあった駅の地点で馬車とかち合っていた機関車は、最も厄介な障害の地下を通るマーリー・ヒル・トンネル(開放型)を通過することができるようになった。1850年の法案によって、ニューヨーク市は蒸気機関車の通過のためにそのトンネルを屋根で覆うことを許可した。このパーク・アベニュー・トンネル (en) は延伸され、改修された。1937年からは自動車用のトンネルとなった[10]

19世紀中旬頃、上流階級の人々が一時的に、中上流階級の人々はより長く、マーリー・ヒルの褐色砂岩テラスハウス に住み着くようになった。19世紀の終わり頃には、セントラルパークまでの5番街が発展し上流階級の人々はそちらへ移り、この地区はやや時代遅れと見なされるようになった[11]

20世紀

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20世紀の大部分は、この地区は裕福な老人たちが住む閑静で形式張った場所であった。

1990年代後半より、多くの大学を卒業した20代の若者が住み着くようになった。こうして2000年代にかけて家賃が高騰し、その10年で5倍以上となった。

マディソン・アベニュー181番地のMadison Belmont Building

建築と施設

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Boys door to PS116
PS116女子部の入り口
PS116の装飾的な入り口

19世紀に中級〜高級住宅街を形成していた当時の褐色砂岩の家並みが現在も残る。文化・学術施設や企業本社も置かれている。


国連本部に近いことから、多くの国の大使館や領事館が置かれている。

総領事館
国連使節団:[14]
パーク・アベニュー57番地のグアテマラ国連使節団

出典

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脚注

  1. ^ Cheslow, Jerry (December 5, 1999). “If You're Thinking of Living In / Murray Hill; A Quiet Enclave Close to Midtown”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C00E0DD113FF936A35751C1A96F958260&scp=1&sq=%22Robert+Murray%22+howe+%22murray+hill%22 January 12, 2008閲覧。 
  2. ^ British Headquartersの地図に詳しく記されている, c. 1781 in Eric W. Sanderson, Mannahatta: A Natural History of New York City, 2009:55, fig. a. 果樹園がその家の背後から北へ広がっている
  3. ^ Muschamp, Herbert (December 5, 1997). “Critic's Notebook; Atop a Hill In Midtown, Where Life Is a Stroll”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B05EED7123DF936A35751C1A961958260&scp=1&sq=%22Murray+Hill%22+borders&st=nyt July 1, 2008閲覧。 
  4. ^ L.P. Gratacap, Geology of the City of New York (New York, 1904), quoted in Sanderson 2009: appendix A p. 252.
  5. ^ 例えば、リッチモンド・ヒルアプソープ農園モリス=ジュメイル・マンショングレイシー・マンション、そしてハミルトン・グレインジなど
  6. ^ Burrows and Wallace 1999:179.
  7. ^ Burrows and Wallace 1999:412.
  8. ^ Sanderson 2008:map "Fill and Excavation, 1609-2009" p. 81,
  9. ^ Joseph Brennan (Columbia University) "Abandoned Stations: 38 St."
  10. ^ Brennan.
  11. ^ "In the no longer cutting-edge Murray Hill" (Burrows and Wallace 1999:1075).
  12. ^ Home Page Archived 2009年2月27日, at the Wayback Machine.." Consulate-General of Mexico in New York. Retrieved on January 25, 2009.
  13. ^ Home Page." Consulate-General of South Africa in New York. Retrieved on January 26, 2009.
  14. ^ "United Nations Member States Archived 2009年4月21日, at the Wayback Machine.." United Nations. Retrieved on January 26, 2009.
  15. ^ Home page. Permanent Mission of the People's Republic of China to the United Nations. Retrieved on January 26, 2009.

参考文献

外部リンク

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