ノート:淀殿
淀君という名前について(記事名「淀殿」に改名)
[編集]「淀君」は蔑称なんですか? 俗称だと思っていました。いずれにせよ同時代の呼称でもないし、事典類で一般的な「淀殿」を記事名に優先すべきと考え、移動しておきました。--Safkan 18:58 2003年10月28日 (UTC)
淀殿の本名
[編集]淀殿の本名は茶々です。幼名ではありません。秀吉は昔から茶々と呼んでいました。--218.230.91.149 2004年11月26日 (金) 09:57 (UTC)
淀殿の城内巡察の評価についての資料
[編集]淀殿の城内巡察は嫌われたという論が一般的ですが、好意的に受け取られたとする資料がありましたらご教示いただけますか。--Extrahitz 2005年12月31日 (土) 06:58 (UTC)
真田信繁か真田幸村か
[編集]一部に真田信繁と書こうとする向きがあるようだが一般人には== 真田幸村 == じゃなきゃ分からなくなるだろう。--以上の署名のないコメントは、Hyman-roth0512(会話・投稿記録)さんが 2006-04-12 12:59:23 (UTC) に投稿したものです。
- 「幸村」でよいと思いますが、一応本名も書いておいた方がよいのではないかと・・・--gori 2006年4月25日(火)00:41 (UTC)
司馬遼太郎の影響
[編集]以前の記事よりも余りにも司馬遼太郎氏の小説に影響されすぎです。 なんでもかんでも淀殿が悪いという記事は、こういうウィキにのせるべきではないです。 余りにも「〜という説がある」という説が多すぎます。 以前の記事はとても公平でした。今は「功名が辻」の影響が色濃く出すぎです。(特に「淀」という呼び方はNHK独特のものです。) --2006年6月27日(火)7:51 --以上の署名のないコメントは、22:51:51 61.46.13.91(会話/61.46.13.91 Whois)さんが 2006-06-26 22:51:51 (UTC) に投稿したものです。
淀城跡の写真に誤り
[編集]写真の淀城跡は、淀殿の住んだものとは別の城です。 淀殿ゆかりの城跡は、淀古城跡と呼ばれ、納所の妙教寺内にあります。 もっとも石碑のみで、石垣などは残っていません。--以上の署名のないコメントは、211.3.151.201 (会話/Whois)さんが 2006-06-2 00:46:06 (UTC) に投稿したものです。
人物像の記述について
[編集]人物像の後半部分が、あまりにも主観的過ぎ、かつ「真田太平記」や「城塞」などの小説の影響を受けすぎていると感じました。 淀殿が主体的に、真田らの妨害をしたという記述が、何らかの一次史料にあるのでしょうか。 上の方も仰っておられますが、「〜という説もある」という曖昧な書き方ではなく、たとえ稗史俗説の類であったとしても、出典を明記して頂きたいです。 特に「豊臣家は、〜異様な家へと変わり果てていたのである。」という記述は、どなたかの(おそらく司馬氏)小説で同じような文章を見たことがあります。--以上の署名のないコメントは、219.66.234.241(会話/Whois)さんが 2006-06-27 00:57:40 (UTC) に投稿したものです。
大坂の陣での戦略について
[編集]大坂の陣の戦略に関しては、どちらの説も有力な根拠となる一次史料がないので、消去します。今後追加される場合は公平な立場で一寺史料から伺われるものを掲載されるべきだと考えます。--以上の署名のないコメントは、61.46.9.192(会話/Whois)さんが 2006-10-09 10:27:17 (UTC) に投稿したものです。
2004-11-05 15:44:51の版の「人物像」の再掲載について
[編集][1] の人物像をもう一度載せたいのですが、ダメですかね? --Gori 2007年3月18日 (日) 15:22 (UTC)
福田千鶴氏の文章について
[編集]福田千鶴の文章は婉曲表現であって、「淀君」が蔑称だとする説は成り立たないと言っているも同然である。--以上の署名のないコメントは、121.92.94.168(会話/Whois)さんが 2009年10月13日 (火) 15:42 (UTC) に投稿したものです。
- 福田氏の文章をどう取るかっていうことですか。それじゃ単なる独自研究です。--彩華1226 2009年10月18日 (日) 09:36 (UTC)
- 情報 当セクション冒頭の121.92.94.168さんの投稿で参照されているのは2009-10-13 15:38:35の版と推定されます。歴史学者の福田千鶴氏による研究成果について、「福田千鶴は彼女の呼称についての検証をした結果、本名を「浅井茶々」、通称を「淀」と号した[11]とするのが適切ではないかとし、生存中に「淀殿」と記した史料はなく、「様」付けで呼ばれていることから、同時代的な呼び方としては「淀様」とするのが正しいとしている[12]。」、「(註11)「御当家紀年録」(『訳注日本史料・御当家紀年録』・1664年(寛文4年)成立)に「長政女、号淀」(長政の女[=娘]、淀と号す)との割注があり、江戸前期の記録に呼び名が「淀」であったとの認識が示されている。」 との記述があります(2023年現在の版〈2023-08-25 06:52:56 (UTC)の版〉でも同記述が維持されています)。--Yumoriy(会話) 2023年8月29日 (火) 01:27 (UTC)
人物像の和歌について
[編集]「とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影」とありますが「ともなひて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき花の面影」ではないでしょうか。--Flos musicae(会話) 2012年4月23日 (月) 01:08 (UTC)
家康と輝元へ宛てた手紙
[編集][2]この編集によると、徳川家康と毛利輝元の両名に対し、謀叛の動きを抑えこむようにとの手紙を送っているそうなんですが、ネット上でそう主張している文章はいずれも同じ文脈であり、wikipediaがそのオリジナルとなっているようなんですね。このあたりの出来事を時系列で解説すると、
- 7月5日 大谷吉継、佐和山城の石田三成を訪問
- 7月7日 大谷吉継、三成の誘いを断り佐和山城を退去
- 7月11日 大谷吉継、佐和山城に戻り三成の誘いに応じる
- 7月12日 石田三成、大阪城の奉行たちに同調を求める
- 7月12日 石田正澄(三成の兄)、関所を封鎖
- 7月17日 毛利輝元、大阪城に入る
- 7月17日 三奉行連名の檄文『内府ちがひの条々』が諸大名に送られる
このような感じになるようです。すると、挙兵を企てているという情報を淀殿がいつ仕入れたのかとの疑問がまず生じます。ただ、その点については関が原の記事の方に同一投稿者による同時期に書き加えられた記述があって、動きがある前に察知したのではなく、実際に動きがあってから動揺して手紙を書いたとの内容となっているため、早くても関所封鎖の7月12日であろうとの結論が導けます。ところが当記事によれば毛利輝元はその時まだ国元にいた事になっています。仮にその手紙が2日で輝元の下に届いたとしても、残り3日で大阪城まで馳せ参じる事が可能だったのでしょうか?。ちなみに、秀吉による中国大返しは4日かかったと言われています。地図上では、輝元の国元である広島城(広島市)は中国大返しの出発点である備中高松城(岡山市)と比較すると倍近い距離があるようです。 したがって、どこをどう考えも辻褄が合わないように思えてなりません。
こうした独自研究とも受け止められかねない怪しい記述については出典を示したうえで、こうした異説もあるという記述になっているのであれば構わないと思いますが、出典の明記も無しに紹介すべき内容ではないように思います。--14.3.192.35 2016年9月8日 (木) 00:03 (UTC)
- 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』をもとに書いたと覚えてますが、生憎現在は手元に取り出せません。毛利の動きがやたら早いとは別の資料で言及されてました。中国大返しとの比較としては、昼夜問わず動ける水路だという違いがありますね。 --Extrahitz(会話) 2016年9月8日 (木) 02:20 (UTC)