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デイモン・スタウダマイアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デイモン・スタウダマイアー
Damon Stoudamire
ボストン・セルティックス AC
ポジション PG
役職 アシスタントコーチ
シュート
基本情報
愛称 Mighty Mouse
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1973-09-03) 1973年9月3日(51歳)
出身地 オレゴン州ポートランド
身長(現役時) 178 cm (5 ft 10 in)
体重(現役時) 78 kg (172 lb)
キャリア情報
出身 アリゾナ大学
ドラフト 1995年 7位
選手経歴
1995-1998
1998-2005
2005-2008
2008
トロント・ラプターズ
ポートランド・トレイルブレイザーズ
メンフィス・グリズリーズ
サンアントニオ・スパーズ
指導者経歴
2008-2009
2009-2011
2011-2013
2013-2015
2015-2016
2016-2021
2021-
ライス大学 (選手育成)
メンフィス大学 (AC)
メンフィス・グリズリーズ (AC)
アリゾナ大学 (AC)
メンフィス大学 (AC)
パシフィック大学
ボストン・セルティックス
受賞歴
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

デイモン・スタウダマイアーDamon Lamon Stoudamire1973年9月3日 - )は、アメリカ合衆国バスケットボール選手。オレゴン州ポートランド出身。NBAで13シーズンプレーした。ポジションはポイントガード。178cm、78kg。元NBAプレーヤーのサリム・スタウダマイアーヒューストン・ロケッツなどに所属していたテレンス・ジョーンズ[1]は従兄弟にあたる。

経歴

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生い立ち

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スタウダマイアーは未婚の両親のもとで生まれ、父方の祖母のもとで育てられた。祖母はデーモンが高校生のときに他界するが、彼の腕には祖母の住所と名前が入ったタトゥーが彫られている。父親のウィリーはデーモンが7歳の頃にミルウォーキーに移り、その後は叔父2人が父親代わりになる。叔父のチャールズはデーモンのバスケットボールのコーチとして叔父のアンソニーはフットボールのコーチとしてデーモンを育て上げた。高校はウッドロー・ウィルソン高校に進学。スタウダマイアー擁する同校はオレゴン州屈指の強豪となり、彼の在学中74勝4敗を記録し2度の州チャンピオンになった。デーモン自身はその間26.1得点9.2アシストのアベレージを残し、2度のオレゴン州の年間最優秀選手と、コンバース選出のオールアメリカンに選ばれた。

大学時代

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大学はアリゾナ大学でプレイ。2年目の1992-93シーズンからは3年連続でオールPac-10チームに選出され、94-95シーズンには平均22.8得点、7.3アシストをあげて、ジョン・ウッデン賞の最終候補にもなった。チームは1993年1994年のPac-10タイトルを制し、1994年のNCAAトーナメントではFinal4まで進出した[2]。在学通算1800得点、600アシスト、400リバウンド以上は、Pac-10出身の選手としては、ゲイリー・ペイトン以来の快挙であった。大学での選手登録期間満了(4年)後、1995年のNBAドラフトにエントリーした。

ドラフト前のスカウティングレポートでは、すばらしい能力を持っているが、5フィート10インチと背が低いことが問題だと評価された。アトランタ・ホークスの副社長からは、背が低い選手は非常に良いものがないといけないが、スタウダマイアーにはそれがないと言われた[3]

NBA時代

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NBAは1995年のオフシーズンにトロント・ラプターズバンクーバー・グリズリーズを新たに創設した。

ラプターズの初代ゼネラルマネージャーは、アイザイア・トーマスであり、彼はポイントガードを補強することを望んでいた[3]。この年のNBAドラフトカナダトロントで開催され、地元ファンはラプターズがUCLA出身のスモールフォワードエド・オバノンを指名することを望んだが、ラプターズは1巡目7位指名権をデイモン・スタウダマイアーに使った。スタウダマイアーの名前が読み上げられた瞬間はドラフト会場内にブーイングが起こったほどであった。ドラフト全体7位での指名は、ドラフトロッタリー制度が導入された1985年のNBAドラフト以降、6フィート以下の身長の選手としては最高位であった[3]

スタウダマイアーのルーキーシーズンは、地元ファンの予想を良い意味で大きく裏切るシーズンとなった。身長178cmとNBA選手としては極めて小さい身体ながら、抜群のスピードとクイックネスを武器に得点とアシストを量産し、95-96シーズンは19.0得点、9.3アシストのアベレージを残し、NBA史上最も身長の低い新人王獲得選手となった[3]。ちなみにエド・オバノンは9位指名でニュージャージー・ネッツに入団するが、目だった活躍をすることなく1997年にNBAを離れた。スタウダマイアーと同じく1年目のラプターズは新設チームだけあって、21勝61敗と大きく負け越した。一方でこのシーズンマイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズは72勝というNBA史上最高勝率を記録しリーグを席巻していたが、ラプターズは僅か10敗しかしなかったこのブルズから、貴重な1勝をもぎ取っており、この試合でスタウダマイアーは30得点、11アシストと活躍した。2年目には平均20得点を突破し、翌97-98シーズンも平均19.4得点、8.1アシストという高い数字を維持するが、チーム成績は一向に向上する気配を見せず、このシーズン中にポートランド・トレイルブレイザーズにトレードされた[3]

ブレイザーズでは7シーズンプレーし、プレーオフに5回出場、カンファレンスファイナルに2度進出した[3]

選手層の厚いブレイザーズでは先発の座は確保したものの出場時間は減少したため、個人スタッツは全体的に後退し、98-99シーズンは12.6得点、6.2アシストとやや平凡な数字に終わった。1999-2000シーズンにはゲームメイクもできる名ポイントフォワードスコッティ・ピッペンが移籍してきたため、スタウダマイアーのスタッツはさらに後退したものの、選手層にさらに厚みを増したブレイザーズはリーグでも屈指の強豪チームへと成長し、プレイオフではカンファレンスファイナルまで進出。当時はロサンゼルス・レイカーズが3連覇を達成するなど、リーグを席巻していたが、ブレイザーズはレイカーズのライバルチームの1つとしてその時代を彩り、スタウダマイアーも先発PGとして重要な役割を果たした。しかしレイカーズ時代が終焉を迎えるとともに西の強豪ブレイザーズの内部でも暗雲が垂れ込め始めた。

端を発したのはスタウダマイアーの自動車運転中のスピード違反であった。この時スタウダマイアーの所持物のなかにマリファナが見つかり逮捕されると、さらにチームメイトのラシード・ウォーレスキンテル・ウッズがマリファナ所持で相次いで逮捕され、さらにはウォーレスとルーベン・パターソンが練習中に乱闘を演じるなど不祥事が絶えず、「ジェイル(監獄)・ブレイザーズ」と揶揄されるまでになった[4]。混沌とした02-03シーズンを送ったスタウダマイアーは、6.9得点、3.5アシストとプレイでも過去最低の数字を弾き出した。翌03-04シーズンには13.4得点、6.1アシストと復調したが、チーム戦績は低下する一方でこのシーズンにはついに5割となり、プレイオフ出場も逃した。04-05シーズンには27勝55敗にまで成績が落ち込み、不動の先発PGであったスタウダマイアーも8シーズン過ごしたブレイザーズをついに離れることになったが、ブレイザーズでのラストシーズンとなったこの年、スタウダマイアーは2つの記録を樹立した。まずは2005年1月14日のニューオリンズ・ホーネッツ戦でキャリアハイとなる54得点をあげ、ブレイザーズのフランチャイズ記録となった[5]。さらに4月15日には1試合だけでスリーポイントシュート21本を放ち、当時の1試合最多スリーポイントシュート試投数のNBA記録を作った(21本中5本成功)。

2005年の夏にフリーエージェントとなったスタウダマイアーに幾つかのチームが興味を示したが、最終的に同時にトレードに出されるジェイソン・ウィリアムスの後釜として獲得を希望したメンフィス・グリズリーズに移籍した。新天地での最初のシーズンとなった05-06シーズンは、12月30日の古巣ブレイザーズ戦で右膝の腱を断裂するという大怪我を負い、残りのシーズンを棒に振る事態となった。翌06-07シーズンチャッキー・アトキンスと出場時間を分け合ったため、平均得点は2桁を下回った。

07-08シーズン、新人のマイク・コンリー・ジュニアの活躍もあり、12月30日まで試合出場がなかった。2008年1月28日、グリズリーズを解雇された[6]。同年2月3日、サンアントニオ・スパーズと契約を結んだ[5]。2008年シーズンでは同じポジションのトニー・パーカーが好調なこともありほとんど出番なし。オフにも完全FAとなるが、チームと再契約することはできなかった。

08-09シーズン開幕前、ヒューストン・ロケッツのトライアウトに参加したが契約に至らず、現役を引退した[3]

現役引退後

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2008年12月、ライス大学のアシスタントコーチに就任。2009年2月、メンフィス・グリズリーズのライオネル・ホリンズヘッドコーチのもとで、ヘンリー・ビビーとともにアシスタントコーチに就任した[7]

2011年5月、メンフィス大学のコーチングスタッフに加わった[2]

2013年5月、メンフィス大学を離れ、アリゾナ大学のコーチングスタッフに加わった。

2015年5月、アリゾナ大学を離れ、メンフィス大学のコーチングスタッフに再度加わった。

2016年3月、再度メンフィス大学を離れ、パシフィック大学のヘッドコーチに就任。2021年7月からはボストン・セルティックスのアシスタントコーチとして約2年在籍。

2023年3月13日、ジョージア工科大学のヘッドコーチ職に就任が決定した。

脚注

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  1. ^ Basketball is in Jones' DNA---ESPN.com
  2. ^ a b Jason Smith (2011年5月30日). “Memphis Tigers to introduce Stoudamire as assistant basketball coach Tuesday”. COMMERCIAL APPEAL. 2015年6月14日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g Draft flashback: Stoudamire made quick impact with Raptors”. tucson.com (2015年6月13日). 2015年6月14日閲覧。
  4. ^ The Jail Blazers: The Worst Behaved Team In Professional Sports History”. ELITE DAILY (2013年5月14日). 2015年6月14日閲覧。
  5. ^ a b Spurs Sign Damon Stoudamire”. nba.com (2008年2月3日). 2015年6月14日閲覧。
  6. ^ Sources: Stoudamire, Grizzlies agree on buyout terms”. ESPN (2008年1月27日). 2015年6月14日閲覧。
  7. ^ Hollins adds pair of new assistants”. ESPN (2009年2月8日). 2015年6月14日閲覧。

外部リンク

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