コンテンツにスキップ

テッド・ライオンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テッド・ライオンズ
Ted Lyons
1930年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ルイジアナ州レイクチャールズ
生年月日 1900年12月28日
没年月日 (1986-07-25) 1986年7月25日(85歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 投手
プロ入り 1923年
初出場 1923年7月2日
最終出場 1946年5月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1955年
得票率 86.45%
選出方法 BBWAA[:en]選出

セオドア・アマール・ライオンズTheodore Amar "Ted" Lyons, 1900年12月28日 - 1986年7月25日)は、1920 - 1940年代に活躍したアメリカ合衆国ルイジアナ州レイクチャールズ出身のプロ野球選手投手)。右投両打。ニックネームは"Sunday Teddy"(サンデー・テディ)。

経歴

[編集]

1923年7月にホワイトソックスに入団。翌年から先発ローテーションの一角を担う。ライオンズはいわゆる打たせて取るタイプの投手で、全てのキャリアを通じてシーズンの奪三振数が80を超えたことが一度もなかったが、3年目の1925年には21勝、1927年には22勝を挙げて最多勝投手に2度輝いている。また1926年の8月21日にはノーヒットノーランを達成、その時の試合時間はわずか67分だった。

その後1931年に4勝と成績が落ち込んだ以外は毎年コンスタントに2桁勝利を挙げる安定した活躍を見せていた。1932年には、全日本大学野球連盟の招きで、モー・バーグレフティ・オドールとともに来日、東京六大学野球連盟に属する各大学で野球を教えた[1]。30代後半にさしかかる1935年頃から、登板の回数は徐々に減っていく。1939年、当時ホワイトソックスの監督だったジミー・ダイクスは、38歳になっていたライオンズを、日曜日のデーゲームごとに登板させるようにした。「サンデー・テディ」のニックネームはここから来たものである。この日曜日ごとの登板策は功を奏し、ライオンズは38歳から41歳までの4シーズン全てで2桁勝利を挙げ、この4年間の通算で52勝30敗の成績を収めることができたばかりか1942年には防御率2.10を記録、41歳で最優秀防御率投手にまでなっている。

第二次世界大戦での現役中断を挟んで1946年には45歳で5試合に登板、同年現役を引退する。通算の勝ち星は260勝だが当時ヤンキースの監督だったジョー・マッカーシーは、「もしヤンキースで投げていれば400勝以上はできただろう」とライオンズを評していた。引退後ホワイトソックスの監督を勤めるも1948年に101敗を喫して退任。その後は投手コーチとして1949年から1952年までデトロイト・タイガース、1954年の一年間ブルックリン・ドジャースに在籍している。

1955年に記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。その後は1967年に勇退するまで古巣ホワイトソックスのスカウトを務めた。

晩年はルイジアナ州サルファの老人療養施設にて過ごし、1986年7月25日に同施設で死去。86歳没。

ライオンズのホワイトソックス在籍時の背番号「16」。
シカゴ・ホワイトソックスの永久欠番1987年指定。

死の翌1987年、ライオンズの背番号16』は、ホワイトソックスの永久欠番に指定されており、欠番指定当時、ホワイトソックスの永久欠番選手でもっとも長く生きた人物だった(その後、後輩のミニー・ミノーソが最長寿となっている。)。

投手としての主な球種は1931年に肩を壊す前まではナックルボール、カーブ、チェンジアップ

1931年より後はスローカーブ、ナックルボール、緩やかな変化するカーブ(チェンジアップ)。 投球フォームはオーバーハンド。 (米書 「guide to pitchers」より)

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1923 CHW 9 1 0 0 -- 2 1 0 -- .667 113 22.2 30 2 15 -- 1 6 3 1 21 16 6.35 1.99
1924 41 22 12 0 -- 12 11 3 -- .522 980 216.1 279 10 72 -- 2 52 4 0 143 117 4.87 1.62
1925 43 32 19 5 -- 21 11 3 -- .656 1110 262.2 274 7 83 -- 2 45 5 0 111 95 3.26 1.36
1926 39 31 24 3 -- 18 16 2 -- .529 1208 283.2 268 5 106 -- 1 51 1 0 108 95 3.01 1.32
1927 39 34 30 2 -- 22 14 2 -- .611 1262 307.2 291 7 67 -- 0 71 2 1 125 97 2.84 1.16
1928 39 27 21 0 -- 15 14 7 -- .517 1043 240.0 276 11 68 -- 2 60 2 0 133 106 3.98 1.43
1929 37 31 21 1 -- 14 20 2 -- .412 1102 259.1 276 11 76 -- 2 57 3 0 136 118 4.10 1.36
1930 42 36 29 1 -- 22 15 2 -- .595 1258 297.2 331 12 57 -- 2 69 2 1 160 125 3.78 1.30
1931 22 12 7 0 -- 4 6 0 -- .400 435 101.0 117 6 33 -- 0 16 1 1 50 45 4.01 1.49
1932 33 26 19 1 -- 10 15 2 -- .400 979 230.2 243 10 71 -- 3 58 1 0 104 84 3.28 1.36
1933 36 27 14 2 -- 10 21 1 -- .323 1016 228.0 260 10 74 -- 0 74 10 0 142 111 4.38 1.47
1934 30 24 21 0 -- 11 13 1 -- .458 928 205.1 249 15 66 -- 2 53 2 1 138 111 4.87 1.53
1935 23 22 19 3 -- 15 8 0 -- .652 811 190.2 194 15 56 -- 3 54 4 0 79 64 3.02 1.31
1936 26 24 15 1 -- 10 13 0 -- .435 804 182.0 227 21 45 -- 3 48 1 0 115 104 5.14 1.50
1937 22 22 11 0 -- 12 7 0 -- .632 706 169.1 182 21 45 -- 1 45 2 0 86 78 4.15 1.34
1938 23 23 17 1 -- 9 11 0 -- .450 862 194.2 238 13 52 -- 0 54 1 1 93 80 3.70 1.49
1939 21 21 16 0 -- 14 6 0 -- .700 702 172.2 162 7 26 -- 1 65 0 0 71 53 2.76 1.09
1940 22 22 17 4 -- 12 8 0 -- .600 789 186.1 188 17 37 -- 0 72 6 0 85 67 3.24 1.21
1941 22 22 19 2 -- 12 10 0 -- .545 795 187.1 199 9 37 -- 4 63 2 0 87 77 3.70 1.26
1942 20 20 20 1 -- 14 6 0 -- .700 720 180.1 167 11 26 -- 2 50 3 0 52 42 2.10 1.07
1946 5 5 5 0 -- 1 4 0 -- .200 174 42.2 38 2 9 -- 0 10 0 0 17 11 2.32 1.10
通算:21年 594 484 356 27 -- 260 230 25 -- .531 17797 4161.0 4489 222 1121 -- 31 1073 55 6 2056 1696 3.67 1.35
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・記録

[編集]

打撃成績

[編集]
  • 通算成績:705試合、1563打数364安打、本塁打5、打点149、打率.233

監督としての戦績

[編集]
















1946 C
W
S
A
L
125 64 61 .516 5
1947 155 70 84 .455 6
1948 154 51 101 .336 8
通算成績 434 185 245 .430

脚注

[編集]
  1. ^ Dawidoff, Nicholas (1994). The Catcher Was a Spy: The Mysterious Life of Moe Berg. New York: Vintage Books. p. 77–81

出典・外部リンク

[編集]