ジョゼフ・ドーソワーニュ=メユール
ジョゼフ・ドーソワーニュ=メユール Joseph Daussoigne-Méhul | |
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基本情報 | |
生誕 |
1790年6月10日 フランス王国、シャンパーニュ、ジヴェ |
死没 |
1875年3月10日(84歳没) ベルギー、リエージュ |
ジャンル | クラシック |
職業 | 作曲家、教育者 |
ジョゼフ・ドーソワーニュ=メユール(Joseph Daussoigne-Méhul, 1790年6月10日 - 1875年3月10日)は、フランスの作曲家、音楽教育者。
生涯
[編集]メユールはルイ=ジョゼフ・ドーソワーニュ(Louis-Joseph Daussoigne)としてシャンパーニュ地方のジヴェに生まれた。彼がジョゼフ・ドーソワーニュ=メユールとなったのは、55歳だった1845年8月12日に法的に改名を行ってからである。1797年に7歳のドーソワーニュ=メユールは、弟とともにおじで作曲家のエティエンヌ=ニコラ・メユールの養子となった。米英戦争の最中にフランス軍の副官になった弟は、交戦中に命を落としている[1]。
1799年、ドーソワーニュはわずか9歳でパリ音楽院へ入学した。その後10年間にわたって同音楽院で学んだ彼は、在学中に何度も表彰を受け、学内コンクールで賞を獲得した。例えば1等賞を獲得したのは1799年の音楽理論、1803年の作曲、1806年のピアノ、1808年の対位法とフーガである。ドーソワーニュ=メユールはピアノをルイ・アダン、和声学をシャルル・シモン・カテル、またそのおじに作曲を師事した。1803年からは彼自身も音楽院で教鞭を執った[1]。
1809年、ドーソワーニュはカンタータ『Agar dans le désert』によってローマ大賞を受賞し、奨学金を得てピンチョの丘のボルゲーゼ公園内に位置するヴィラ・メディチに入居する在ローマ・フランス・アカデミーで学ぶことになった。このためパリ音楽院の職を辞してローマ入りした彼は、1810年2月から1813年終盤になるまでの間、ここで修業を積んだ。1814年にパリへ戻って再び音楽院の教壇に立ったドーソワーニュは、1826年まで同音楽院で教えた。同年にオランダ王国(当時は今日のベルギーも含んだ)の国王ウィレム1世の勅命を受けてリエージュ王立音楽院の初代院長に就任すると、続く35年間をその職に捧げることになった[1]。音楽院では学校運営を担う傍ら、和声学と作曲法の講座を担当し、アドルフ・サミュエル、セザール・フランク、ジャン=テオドール・ラドゥーらを育てた。ラドゥーも後にドーソワーニュの跡を継いで同音楽院の院長職に就くことになる。
ドーソワーニュ=メユールはリエージュで84年の生涯を閉じた。パリの建築業者のアレクサンドル=ゴドフロワ・ベレ(Alexandre-Godefroy Bellet)の娘で、彼の妻となったマリー=アデライード・ベレ(Marie-Adélaïde Bellet)とは50年以上連れ添った。2人の間にはピアニスト、オルガニスト、作曲家で音楽評論家となったアレクサンドル=ギュスターヴ・ドーソワーニュ=メユール(1830年 - 1932年)がいる[1]。ドーソワーニュ=メユールは1859年にベルギー政府からレオポルド1世勲章を授与された[1]。
作品
[編集]作曲家としてのドーソワーニュ=メユールはピアノ曲、管弦楽曲、オペラ、室内楽曲などを作曲した。彼のコミック・オペラ『Aspasie et Pericles』は1820年にパリのオペラ座で初演された。彼がおじの未完のオペラ『Valentine de Milan』を補筆完成し、1822年のオペラ=コミック座における初演にこぎつけたことは注目される。また、1821年には、同じくおじのオペラ『ストラトニース』に新たなレチタティーヴォを書き加えた。同時代の人々には彼を称賛する者もいたが、19世紀後半になると彼の音楽の存在感は希薄なものとなっていった。彼の作品はひとつも現存していない[1]。
主要作品
[編集]- 3つの弦楽四重奏曲
- 管弦楽のための序曲
- カンタータ『Á la mémoire de Grétry』 (1828年)
- 合唱と管弦楽のための英雄的交響曲『Bruxelles en 1830-1831』 (1834年)
- Cantate sur des airs populaires (1856年)
- カンタータ『Hommage á Grétry』(1862年)