ザ・バンド
ザ・バンド | |
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左からマニュエル、ハドソン、ヘルム、ロバートソン、ダンコ(1969年) | |
基本情報 | |
原語名 | The Band |
別名 | ザ・ホークス |
出身地 | カナダ オンタリオ州トロント |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
公式サイト | The Band web site |
旧メンバー |
死去したメンバー
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ザ・バンド(英語: The Band)は、アメリカ合衆国を拠点に活動したカナダのロックバンド。オリジナル・メンバーは、カナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ)とアメリカ人1人(リヴォン・ヘルム)。1967年から1976年まで活動。1983年にロバートソン以外のメンバーが再結成し、メンバー・チェンジやサポート・メンバーを加えながら1999年まで活動した。
オリジナル・メンバーの全員が様々な楽器を演奏でき、ミュージシャンズ・ミュージシャンとして、今なお多くのミュージシャンから尊敬を集めている。1989年にカナダのCanadian Music Hall of Fame殿堂入り[2]、1994年にロックの殿堂入り[3]を果たしている。
「ローリング・ストーン誌の選定の歴史上最も偉大な100組のグループ」において第50位[4]。2008年、グラミー賞の特別功労賞生涯業績賞を受賞した[5]。
経歴
[編集]ザ・ホークス
[編集]1959年、アメリカのロックンローラー、ロニー・ホーキンスは彼のバック・バンド、ザ・ホークスを率いてロックンロールが落ち目になりつつあったアメリカを離れ、カナダへと活動の中心を移した。しかし、次第にドラムスのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがホームシックにかかり脱退したため、現地カナダの若者をメンバーに加入させる。その際集まったメンバーが、ギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、後のザ・バンドのメンバーであった。彼らは1963年までホーキンスのバックバンドとして活動していた。
1964年、意見の相違からホーキンスと別れたザ・ホークスは、「リヴォン&ザ・ホークス」と名乗りカナダとアメリカで地道な公演活動を続けた。
ボブ・ディランとの出会い
[編集]1965年夏、ホークスはニュージャジー州サマーズポイントのダンス・クラブでの仕事を得た。ロビー・ロバートソンはグリニッジ・ヴィレッジを根城とするジョン・P・ハモンド(ディランを世に出したプロデューサーのジョン・ハモンドの息子)と親しくなった。ロバートソンによれば、同年6月16日、ハモンドはニューヨークのダウンタウンのレコード屋を案内するため、ロバートソンをホテルまで迎えに行った。七番街を車で運転中、ハモンドはブレークを踏んだ。「ひとつ忘れてることがあった。友だちがすぐそこでレコーディングをしていて、顔を出すと約束していたんだ」と言った。二人はコロムビア・レコードのビルに入り、エレベーターでスタジオAに上がった。コントロールルームでは数人の男が録りたての曲のプレイバックを聴いていた。そこでロバートソンはボブ・ディラン、マネージャーのアルバート・グロスマンと初めて出会った。ガラスの向こう側には顔なじみのギタリストのマイク・ブルームフィールドがいた。ディランはロバートソンとハモンドに頭から曲を聴かせた。それが「ライク・ア・ローリング・ストーン」だった[6][7]。
その後、ロバートソンはグロスマンから連絡を受け、西55丁目にあるグロスマンの事務所でディランと会った。ディランは7月25日に「ニューポート・フォーク・フェスティバル」で実験的にブルームフィールドやアル・クーパーらと行ったエレクトリック・サウンドの演奏について話をした。賛否両論だったその日のライブのことはロバートソンの耳にも届いていた。ディランはロバートソンをダウンタウンのグラマシー・パークにあるグロスマンの家に誘い、いっしょに二、三曲演奏した。そしてロバートソンに「8月28日のニューヨークのフォレスト・ヒルズ・スタジアムのライブ、9月3日のロサンゼルスのハリウッド・ボウルのライブの二本だけでもリードギターを弾いてくれないか」と頼んだ。ロバートソンは、リヴォン・ヘルムにドラムを叩かせてくれるのならと言った[8]。ディラン側はその条件にOKを出し[8]、ロバートソンとヘルムは巨大なコンサート会場で演奏することを初めて体験した[9]。
同年9月24日からホークスは正式にディランのバックバンドとしてツアーを開始した[7]。11月、保守的な観客のブーイングに嫌気が差したヘルムが脱退した[10][11]。ヘルムは故郷のアーカンソー州に戻ったのち、メキシコ湾の石油掘削所でしばらく働いた[12]。11月30日にディランとホークスは「ジョアンナのヴィジョン」と「窓からはい出せ」を録音。ヘルムの代りにボビー・グレッグがドラムを叩いた。またポール・グリフィンがピアノで参加した[7] [13]。この日録音された「窓からはい出せ」は12月8日にシングルとして発売された[14]。
ツアーでのヘルムの後任はミッキー・ジョーンズが一時的に務めた。ディランとホークスとのツアーは全米、オーストラリア、ヨーロッパと続き、行く先々で賛否両論を巻き起こした。ツアーの様子はディランのライブ・アルバム『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)に記録されている。
ツアー終了直後の1966年7月29日、ディランは交通事故で負傷。仕事を失ったメンバーはディランに誘われ、彼の隠遁地であるニューヨーク州ウッドストックに移る。このころヘルムも復帰する。ピンク色のペンキで塗装された彼らの家は「ビッグ・ピンク」と名付けられた。ここ行われたディランとのセッション音源は、ロック史上初の海賊盤『Great White Wonder』として流出した。公式には長く未発表であったが、1975年に『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』として発売された。また2014年にはディランのブートレッグ・シリーズ第11集『The Basement Tapes Complete』として、その全容が公表された。
ザ・バンド全盛期
[編集]1968年、ホークスはバンド名をザ・バンドに改め、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でデビューする。シングルカットされた「ザ・ウェイト」は翌年の映画『イージー・ライダー』で使用され、多くの人々に知られるところとなった。ロックにカントリー、フォーク、R&Bといったルーツ・ミュージックの要素を色濃く反映させた音楽性は非常に高い評価を獲得し、当時の多くのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。
1969年8月17日にはウッドストック・フェスティバルに出演。同じ8月末にはディランとともにワイト島フェスティバルに参加。このワイト島出演の際、ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めた。
同年9月、第2作のアルバム『ザ・バンド』を発表。1970年に3作目の『ステージ・フライト』を発表。1971年には野心作『カフーツ』でアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、このころからメンバー間に摩擦が生じ、曲作りも不調に陥る。一方で公演活動は積極的に行い、トップクラスのライブバンドとしての名声を確保した。1972年に発表されたライブアルバム『ロック・オブ・エイジズ』は、スタジオ録音と変わらない演奏スタイルで話題を呼んだ。
1973年にはカバーアルバム『ムーンドッグ・マチネー』を発表。エルヴィス・プレスリーのナンバー「ミステリー・トレイン」や映画『第三の男』のテーマ曲を演奏するなど話題を集める。
1974年にはディランと共にツアーを行い、興行的にはその年で一番といわれるほどの大成功を収めた。このときの様子はアルバム『偉大なる復活』(1974年)で聴くことができる。このあたりから、ロバートソンがバンドの主導権を取るようになり、ヘルムとの関係が悪化する。
メンバーはそれぞれ、リンゴ・スターやエリック・クラプトン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、のアルバム制作に参加。
1975年、アルバム『南十字星』発表。
ザ・バンド解散
[編集]バンド内では公演活動よりアルバム制作を重視すべきとの意見をもつロバートソンと、公演活動にこだわるメンバーとの対立が激しくなったり、疲労とストレスによりマニュエルが酒と薬物に溺れて体調を崩すなどの問題を抱える。こうして音楽活動が行き詰まる中、ロバートソンは1976年に公演活動の停止を発表する。ロバートソンは解散して新たな方向を目指していたが、ヘルムは解散・公演活動停止には反対していた。またロバートソン以外のメンバーも解散を望んでいなかった。
1976年11月24日、カリフォルニア州サンフランシスコのウインターランドで公演を行なう(実質的に最終公演となる)。公演には多数の大物ミュージシャンが参加した(ロニー・ホーキンス、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、ドクター・ジョン、ヴァン・モリソン、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ロン・ウッド、ポール・バターフィールド、ニール・ダイヤモンド、ボビー・チャールズ)。この模様はマーティン・スコセッシの手により撮影され、映画『ラスト・ワルツ(The Last Waltz)』として公開、3枚組サウンドトラック盤も発表された。
1976年、キャピトルとの契約が残っていた関係上(「ラスト・ワルツ(The Last Waltz)」のサントラをワーナー・ブラザースから発表するため)アルバム『アイランド』を発表するが、往年の出来映えには至らず不評に終わる。結局これを最後にザ・バンドとしての活動に終止符が打たれる。
ラスト・ワルツ以降
[編集]解散後はメンバー各自がソロ活動を始める。
ヘルムは、ドクター・ジョン、ポール・バターフィールド、スティーヴ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダンらとRCOオール・スターズを結成。一枚のスタジオアルバムを製作し、日本公演も実施した。2006年には、RCOオール・スターズのライヴ音源も発表されている。その後もアルバム「リヴォン・ヘルム」、「アメリカン・サン」を発表する。音楽活動の傍らで映画俳優としても活動している。
ダンコは、メンバーの中でいち早くソロアルバムに着手する。映画『ラスト・ワルツ』の中でも語っていた、アルバム『Rick Danko』を発表する。ゲストにクラプトン、ウッドも参加している。ツアー活動も精力的に行い来日公演も実現させている。
再結成
[編集]1982年、ダンコとヘルムがアコースティック・デュオを組み、ツアー「リヴィング・ルーム・セット」を開始する。ある公演では、ボブ・ディランの飛び入りも確認されている。そのツアーの最中に、ザ・バンド再結成の機運が高まり、1983年にロバートソン抜きで再結成しツアーを行なう。同年には、ザ・バンドとして初来日公演も行われる。ツアー・メンバーはロバートソン抜きの4人に加え、ケイト・ブラザーズがサポート・バンドとして参加した。
1986年3月4日にマニュエルが自殺するも、ツアー活動は続行。
1990年、ベルリンの壁崩壊後のドイツにて、ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主催のライブ・イベント「The Wall Live In Berlin」に参加、ヴァン・モリソン、ジョニ・ミッチェルらと共に出演する。20万人もの観客を動員し、その模様はCD、現在はDVDに収められている。
1992年、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランのデビュー30周年記念公演に出演。アルバム『カフーツ』にも収録されていた「マスターピース」を演奏。この模様は、CD/LDに収められている。
1990年代初頭、メジャー・レーベルであるCBSと契約。再結成後初のスタジオアルバムを製作するも、先に発表されたロバートソンのソロ・アルバムの売上不振を理由に、未発売となる。結局、CBSからはアルバム発表されることはなく、1993年になってピラミッドというマイナー・レーベルから『ジェリコ』として発表された。
1994年、ロックの殿堂入りを果たす。式には脱退したロバートソンも参加するが、反発したヘルムが参加を拒否。プレゼンターを務めたクラプトンを交えて『ザ・ウエイト』を演奏する。
1997年、ジェリー・ガルシアのトリビュート(Dead Heads Festival)、ダンコ・フィヨルド・アンダーセンとしての活動のためダンコが来日。しかし、日本滞在中の5月6日、アメリカにいる妻にヘロインをホテル宛に郵送させた罪で逮捕された。7月24日、千葉地裁にて彼の有罪が確定し、強制送還となった。[15]
再編ザ・バンドとして3枚のアルバムを発表するも、1996年にヘルムが喉頭癌を発症する。アルバム『Jubilation』に録音されたヘルムの声は、その後遺症によりかすれたものとなってしまう。
さらに1999年12月10日にダンコが死去。以後活動を停止。
ヘルムは、ドラムスとマンドリンの演奏活動は続け、その後再び歌えるようになるまで回復した[16]。自身のバンドであるリヴォン・ヘルム・バンド名義で、2005年には2作のDVD付のライヴ・アルバム「ミッドナイト・ランブル・セッションズ Vol.1」「同 Vol.2」を発表した。2007年には久々のスタジオ・ソロ作「Dirt Farmer」で元気な歌声を聴かせ、2008年の第50回グラミー賞ベスト・トラディショナル・フォーク・アルバムを受賞した。しかし2012年4月19日、ヘルムはニューヨークで死去した。
現在
[編集]ハドソンは、2001年にファースト・ソロ・アルバム「ガースの世界」(原題:The Sea To The North)を発表。また、妻のモード・ハドソンと演奏活動を続けている。モードとの共同名義でのライヴ・アルバム「ライヴ・アット・ザ・ウルフ」も2005年に発表している。
ロバートソンは、映像音楽の制作を活動の中心としている。その一方で、ザ・バンドのボックス・セットのコンピレーション・プロデュースや監修を行っている。ソロ・アルバムは2011年の「How To Become Clairvoyant」が現段階での最新作である。
2019年、カナダでドキュメンタリー映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』(英題:『Once Were Brothers: Robbie Robertson and the Band』)が公開された(日本では2020年公開)。 ロバートソンの2016年の回想録『Testimony』(邦訳は2018年に『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』として出版)に一部基づいている。
逸話
[編集]- ホーキンスと別れたバンド(当時はレヴォン&ホークス)の苦難に満ちた下積み生活は、「ヒモと娼婦とアル中と人生の敗北者」(ガースの発言)相手の演奏を繰り返す、その日暮らしの流浪の日々であった。映画「ラストワルツ」ではマニュエルが、その頃、食事に困ったメンバーが大きなコートを使ってスーパーで商品を万引きしたことを証言している。だが、「ナップザックを背負って道に立ち、人生というものをみんなで学んだ。僕たちはお互いに守られ励ましあった」とロバートソンが証言しているように、苦難の中でバンドの結束が固まっていった。
- エリック・クラプトンは、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を「人生を変えたアルバム」と評しており[17]、1976年に発表されたクラプトンのアルバム『ノー・リーズン・トゥ・クライ』にはザ・バンド全員が参加。後の1986年に発表された『オーガスト』収録の「ホーリー・マザー」は、その年に亡くなったリチャード・マニュエルに捧げられた曲である。2005年のアルバム『バック・ホーム』は、レイ・チャールズらと共にマニュエルとダンコにも捧げられている。
- バンドとしてのデビュー公演は、1969年4月17日サンフランシスコのウインターランドであった。初日はロバートソンがインフルエンザに罹り、心配したマネージャーのアルバート・グロスマンが催眠術師を呼んで治療に当った。7曲ほどを演奏して逃げるように退場したため、「ロックンロールのショウでは初めて経験する怒りと激情」(グリール・マーカスの言葉:『流れ者のブルース』バーニー・ホスキンズ著、奥田祐士訳、1994年、大栄出版)が溢れた。だが、翌18日のステージは、ロバートソンの体調も戻ったこともあり、見違える程の出来で前夜の屈辱を晴らした。特に、アンコールの「スリッピン・アンド・スライデン」(リトル・リチャードのヒット曲)では客席は興奮の坩堝と化し、「ロックンロールの歴史に残る瞬間」(グリール・マーカスの言葉、前掲書より)と全く異なる評価を受けた。
ディスコグラフィー
[編集]アルバム
[編集]発表年 | アルバム名 | 認定 | |
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邦題 | 原題 | RIAA[18] | |
オリジナル・アルバム | |||
1968年 | ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク | Music From Big Pink | ゴールド |
1969年 | ザ・バンド | The Band | プラチナ |
1970年 | ステージ・フライト | Stage Fright | ゴールド |
1971年 | カフーツ | Cahoots | |
1972年 | ロック・オブ・エイジズ | Rock Of Ages | ゴールド |
1973年 | ムーンドッグ・マチネー | Moondog Matinee | |
1975年 | 南十字星 | Northern Lights - Southern Cross | |
1977年 | アイランド | Islands | |
1978年 | ラスト・ワルツ | The Last Waltz | |
再結成後 | |||
1993年 | ジェリコ | Jericho | |
1996年 | ハイ・オン・ザ・ホッグ | High On The Hog | |
1998年 | ※日本未発売 | Jubilation | |
編集盤、ベスト・アルバムなど | |||
1976年 | 軌跡 | The Best Of The Band | ゴールド |
1978年 | アンソロジー | Anthology | |
1989年 | トゥ・キングダム・カム | To Kingdom Come | |
1995年 | ライヴ・アット・ワトキンス・グレン | Live at Watkins Glen | |
1999年 | ※日本未発売 | The Best of The Band, Vol. II | |
2000年 | グレイテスト・ヒット | Greatest Hits | |
ボックス・セット | |||
1994年 | グレイト・ディバイド・ボックス | Across The Great Divide | |
2002年 | ラスト・ワルツ完全版 | The Last Waltz | |
2005年 | ザ・バンド・ボックス ミュージカル・ヒストリー | A Musical History |
ボブ・ディランと共演
- ブロンド・オン・ブロンド - Blonde On Blonde(1966年)
- セルフ・ポートレイト - Self Portlate(1970年)
- ウディ・ガスリー・メモリアル・コンサート - A Tribute To Woody Guthrie, Part 1(1972年)[19]
- プラネット・ウェイヴズ - Planet Waves(1974年)
- 偉大なる復活 - Before the Flood(1974年)(プラチナ)
- 地下室(ザ・ベースメント・テープス) - The Basement Tapes(1975年)(ゴールド)
- ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集) - The Bootleg Series Vol. 4: Bob Dylan Live 1966, The "Royal Albert Hall" Concert(1998年、リヴォン・ヘルムを除く)
映像作品
[編集]単独名義
- The Last Waltz/ラスト・ワルツ [1978]
- The Band Is Back/ザ・バンド・イズ・バック [1983]
- The Band Japan Tour/ザ・バンド・ジャパン・ツアー
- The Authorized Biography [1995]
- Live at the New Orleans Jazz Festival [1996]#日本盤未発売
- Classic Albums: The Band /メイキング・オブ・ザ・バンド [1997]
- Live at Loreley [2001]#日本盤未発売
参加作品
- Roger Waters The Wall Live in Berlin/ザ・ウォール~ライヴ・イン・ベルリン~ [1990]
- Bob Dylan 30th Anniversary Concert Celebration /ボブ・ディラン 30 [1993]
- Let it ROCK!/ロニー・ホーキンス’60thバースデイ コンサート [1995]
- Festival Express/フェスティバル・エクスプレス [2004]
メンバーの変遷
[編集]1967 - 1976年 |
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1976 - 1983年 |
76年に解散。活動停止。 |
1983 - 1985年 |
再結成
サポート・メンバー(ケイト・ブラザーズ) |
1985 - 1986年 |
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1986 - 1989年 |
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1989 - 1990年 |
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1990 - 1991年 |
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1991 - 1992年 |
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1992 - 1999年 |
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1999年 - |
リック・ダンコの死去に伴い活動停止。 |
来日公演
[編集]ザ・バンド名義では、以下計3回の日本ツアーを行っている。
1983年日本ツアー(The Band Is Back)
[編集]- 8月25日・渋谷公会堂
- 8月27日・大阪フェスティバルホール
- 8月29日・大阪フェスティバルホール
- 8月30日・名古屋市公会堂
- 9月1日・東京厚生年金会館
- 9月2日・東京厚生年金会館
- 9月3日・渋谷公会堂
- 9月5日・北海道厚生年金会館
1987年日本ツアー
[編集]- 2月23日・大阪厚生年金会館
- 2月24日・渋谷公会堂
- 2月25日・渋谷公会堂
1994年日本ツアー
[編集]- 4月29日・東京厚生年金会館
- 4月30日・東京厚生年金会館
- 5月1日・神奈川県民ホール
- 5月4日・渋谷CLUB QUATTRO
- 5月5日・名古屋CLUB QUATTRO
- 5月7日・大阪厚生年金会館
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h Eder, Bruce. The Band | Biography & History - オールミュージック. 2021年4月18日閲覧。
- ^ “Canadian Music Hall of Fame: Past Inductees”. Canadian Academy of Recording Arts And Sciences (CARAS). 2009年8月1日閲覧。
- ^ “Inductee List”. Rock and Roll Hall of Fame. 2009年8月1日閲覧。
- ^ Williams, Lucinda (2004年4月15日). “The Immortals - The Greatest Artists of All Time: 50) The Band”. Issue 946. Rolling Stone. 2009年8月1日閲覧。
- ^ “Lifetime Achievement Award”. Grammy.com. 2009年8月1日閲覧。
- ^ ロバートソン 2018, pp. 163–164.
- ^ a b c Olof Björner. “Still On The Road 1965 Concerts and Recording Sessions”. Still On The Road. 2024年9月7日閲覧。
- ^ a b ロバートソン 2018, pp. 168–173.
- ^ ロバートソン 2018, p. 177.
- ^ “Bobby Gregg”. The Band. 2009年8月16日閲覧。
- ^ ロバートソン 2018, pp. 201–202.
- ^ Helm 1993, p. 143.
- ^ Gray, M. (2008). The Bob Dylan Encyclopedia: Revised and Updated Edition. pp. 277–279. ISBN 978-0-8264-2974-2
- ^ 45cat - Bob Dylan - Can You Please Crawl Out Your Window? / Highway 61 Revisited - Columbia - USA - 4-43477
- ^ The Band Guestbook July, 1997
- ^ Levon Helm Biography
- ^ エリック・クラプトン『ノー・リーズン・トゥ・クライ』日本盤CDライナーノーツ(伊藤秀世、1996年9月)
- ^ RIAA Gold and Platinum Search for albums by The Band
- ^ Various - A Tribute To Woody Guthrie Part One (Vinyl, LP, Album) at Discogs
参考文献
[編集]- Hoskyns, Barney (1993). Across The Great Divide: The Band and America. Viking. ISBN 0-670-841447
- バーニー・ホスキンズ 著、奥田祐士 訳『ザ・バンド 流れ者のブルース』大栄出版、1994年8月。ISBN 978-4-88682-574-2。
- Helm, Levon; Davis, Stephen (1993). This Wheel's on Fire: Levon Helm and the Story of The Band. London: Plexus Publishing. ISBN 9780688109066 November 13, 2022閲覧。
- Robertson, Robbie (October 25, 2016). Testimony. Crown Archetype. ISBN 978-0307889782
- ロビー・ロバートソン 著、奥田祐士 訳『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』DU BOOKS、2018年10月19日。ISBN 978-4866470535。