カフェー・ライオン
カフェー・ライオン(Café Lion)は、かつて存在した日本の飲食店である。カフェー・プランタンと同じ1911年(明治44年)に開業し、銀座を代表するカフェーと言われた。
築地精養軒の経営で規模が大きく、一般客にも入りやすかったという[1]。店名は、築地精養軒の経営者北村宇平がロンドンを訪れた際、ピカデリーサーカスのレストラン「ライオン (J. Lyons and Co) 」から贈られたもので、創始者のジョセフ・ライオン (Joseph Lyons (caterer)) にちなむ[2]。
現在ビヤホール「銀座ライオン」を運営する会社についてはサッポロライオンを参照。
沿革
[編集]開店
[編集]尾張町交差点の角に開業した。3階建で新築され、1階が酒場、2階が余興場であった[3]。この場所は、1886年から1909年まで毎日新聞社(横浜毎日新聞の後身)があり[4]、のちにサッポロ銀座ビル[5]を経て、現在の銀座プレイスにあたる。
1911年は「日本初のカフェ」とされるカフェー・プランタン(3月)に続き、カフェー・ライオン(8月)、カフェー・パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した年である。店によってそれぞれ特色があり、パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは洋食と洋酒が中心であった。
営業
[編集]特筆すべき点は女給(ウェイトレス)がいたことで、美人女給が揃いの衣装(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、開店当初は女給が客席に同席することはなかった。
ビールが一定量売れるとライオン像が吠える仕掛けが名物になっていた。また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾は「ライオンの宝」とも評された[6]。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後はバラックの平屋建で営業を再開し、後に本建築に建て替えた。しかし翌1924年には斜向かいにカフェー・タイガーが開業し、目立つ女給が引き抜かれるなどして次第に勢いを失った。松崎天民には「女給の美的素質の上から言えば、第二三流」「どれもこれもが、所帯染みている」[7]と酷評された。またタイガーなどに倣い、女給が客席に同席するようにもなった[8]。
1931年(昭和6年)6月、大日本麦酒に経営が移り、8月にビアホール「ライオンヱビスビヤホール」(現在の「ビヤホールライオン」銀座五丁目店)としてオープンした[9]。
若い女給が客の話相手となったこの店は、当時の「カフェー」を代表する存在であり、後年の美人喫茶やメイドカフェの嚆矢となったという見方もある[10]。
脚注
[編集]- ^ 安藤更生『銀座細見』p.78-83、中公文庫版
- ^ 『サッポロビール120年史』p.245
- ^ 安藤更生『銀座細見』p.78、中公文庫版
- ^ 野口孝一『銀座物語』p.119-120、中公新書
- ^ 東京銀座ロータリークラブ青少年委員会; 川崎房五郎『ものがたり銀座小史』東京銀座ロータリークラブ、「付表2. 銀座5丁目 東側」頁。 NCID BB05177631。
- ^ 安藤更生『銀座細見』p.82、中公文庫版。浜田は後に東京会館へ移った。著書に『図解カクテル・ハンドブック』(1963年)などがある。
- ^ 松崎天民『銀座』p.84、中公文庫版
- ^ 安藤更生『銀座細見』p.82-83、中公文庫版。安藤は「近ごろ(…)営業振りを一新した」と書いており、1930年頃のことと考えられる。
- ^ “会社案内 沿革 - 銀座ライオン”. サッポロライオン. 2021年10月15日閲覧。。モザイクタイルの壁画で知られるのは銀座七丁目店の方である。
- ^ 高井尚之『日本カフェ興亡記』p.103-104、日本経済新聞出版社、2009年。
参考文献
[編集]- 松崎天民『銀座』1927年
- 安藤更生『銀座細見』1931年
- サッポロビール株式会社広報室社史編纂室『サッポロビール120年史』1996年3月10日。
- 高井尚之『日本カフェ興亡記』日本経済新聞出版社、2009年。
関連項目
[編集]- サッポロライオン
- 日本における喫茶店の歴史
- カフェーパウリスタ (水野龍、南鍋町)
- カフェー・プランタン (松山省三、日吉町)
- カフェー・タイガー (尾張町)
- 広津和郎 - ライオンの女給だった松沢はまと1926年頃から同居し生涯連れ添った
- 尾崎士郎 - ライオンの女給だった古賀清子と1930年に結婚した
外部リンク
[編集]- ライオン 銀座五丁目店 銀座ライオン