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イネス・ド・ラ・フレサンジュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イネス・ド・ラ・フレサンジュ

イネス・ド・ラ・フレサンジュ(Inès de la Fressange、1957年8月11日 - )は、フランスファッションモデルファッションデザイナー

現在モデルとしての活動は多くないが、サロン経営やジャン=ポール・ゴルチエを始めとするブランド・コンサルタントへと活躍の場を広げている。

経歴

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生い立ち

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フランスヴァール県サン=トロペ近郊ガッサンで、フランスの名門貴族の父フレサンジュ伯爵と、アルゼンチン系フランス人でファッションモデルをしていた母の間に生まれる。父方の祖母はユダヤ系アメリカ人で、アメリカの投資銀行ラザードの創業者一族の出身である。

「ミューズ」

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1983年からシャネルカール・ラガーフェルドの「ミューズ」として8年近く活躍した。契約期間中、同メゾンのありとあらゆる広告、PR活動、年2回ずつパリで行われるオートクチュールプレタポルテコレクションの中心に立つ。フランス本国にアメリカ、そして特に日本でド・ラ・フレサンジュをイメージに起用したPRは大きな成功を収め、「元祖スーパーモデル」はイネスとも言われる。

1989年に、フランスの象徴である「マリアンヌ」のモデルに選ばれる。専属契約を結んでいたラガーフェルドは、ド・ラ・フレサンジュにその役割を断るように頼んだが拒否されたため、シャネル社は裁判を起こして専属契約を解除している。

ブランド設立

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1990年に自身の名を冠したファッションブランド「イネス・ド・ラ・フレサンジュ(Inès de la Fressange)」を立ち上げ、パリ8区モンテーニュ大通りブティックをオープンした。トップメゾンで自身が長年にわたり接してきた最高の仕事を手ごろな価格で提供して顧客が楽しめるようにするコンセプトのもと、製品をアパレルから雑貨インテリアまで展開し、販路をアメリカ日本にも広げて成功を博すかたわら、パリコレクションにも企業として参加。

離別

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同ブランドの経営陣に無断でブランド名をピルケースに使用してフランス全国の薬局で販売したため1999年に解雇となるも、不当解雇を訴える裁判では勝訴する。その後、ド・ラ・フレサンジュの手から離れたブランドは急速に人気を落として経営陣を刷新、ド・ラ・フレサンジュに復帰を申し入れたが断られた。同ブランドは現在、アパレル部門と香水に限定してフランスのみで細々と展開する。

私生活

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企業人として歩み始めた1990年、イタリアの鉄道会社役員ルイージ・ドゥルソとタラスコンで結婚し、娘2人を授かっている。2006年に夫は心筋梗塞で死去した。

現在

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夫を心臓病で亡くしたことから、その治療を目的とした「Mécénat Chirurgie Cardiaque(フランス語版)という団体で活動も行っている。2014年に「ユニクロ×イネス・ド・ラ・フレサンジュ」を開始[1]しており、共同作業者はデザイン・ディレクターの滝沢直己

著書

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発行年順。

脚注

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注釈

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脚注

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  1. ^ De La Fressange & Uniqlo 2019, pp. 1–8
  2. ^ Ines de La Fressange”. www.bernard-guinard.com. 2024年10月12日閲覧。
  3. ^ Fichier site [ギナール家、ヴァンサン家、フィアラン・ド・ペルシニー家、セニャール・ド・ラ・フレサンジュ家の系図]”. www.bernard-guinard.com. Bernard GUINARD. 2024年10月12日閲覧。