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かごしま黒豚

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かごしま黒豚(かごしまくろぶた)とは、鹿児島県内で飼育されたバークシャー種豚肉、またはそのの生体を指す。かごしま黒豚と言う名称は1999年に商標登録されている。

黒豚のブランドは鹿児島県以外にも、埼玉県(彩の国黒豚)・群馬県(とんくろー)・岡山県(おかやま黒豚)・香川県(讃岐黒豚)に存在するが、かごしま黒豚は別格の扱いで、過去には食肉市場では牛肉並の値(Bランク)が付けられたこともある。

定義

肥育後期にさつまいも(ほとんどが外国産)を10~20%添加した飼料を出荷直前の60日前から与えており、鹿児島県黒豚生産者協議会の会員が、県内で生産・肥育出荷・と畜したバークシャー種であり、かつ出荷時に一頭当りの拠出金を納めた場合認められる。

特徴

黒豚と呼ばれるバークシャー種は、一般的には、六白と呼ばれる白い部分が6ヶ所ある。顔面・後躯・4本の足の先端部である。個体差があるので全てには当てはまるわけではない。

かごしま黒豚の歴史

戦国時代から薩摩国では豚肉を歩く野菜と呼び、食用していた。戦国時代において九州統一をほぼ成し遂げた島津氏の底知れぬ強さは織田信長よりも先に鉄砲の実用化を行った事と、豚を生きたまま兵糧として戦場に運んでいた事であり、当時の戦国武将では珍しい肉食集団だった。

1609年、島津氏が琉球侵攻を行った際、琉球の豚を多数連れ帰ってきて薩摩の豚と品種改良した。

当時の薩摩藩ではシラス台地の影響もあって満足な農業土木が行えず、植え付ける所さえあれば勝手に育つサツマイモと、それを餌にする豚の肉が一般的な食糧であった。薩摩藩の石高は77万石であるが、の栽培が行われていたのは川内川の流域ぐらいであり、実際はさつまいもと豚肉が石高の大半を占めていた。

幕末彦根藩主・井伊直弼大老になるが、この時直弼は彦根藩が代々行っていた将軍家への牛肉の献上を中止し、代わりに薩摩の豚が献上された。黒船来航で揺れる江戸幕府に外交問題の重鎮であった水戸藩主徳川斉昭をして、「いかにも珍味、滋味あり。コクあり、なによりも精がつく」といわしめ、徳川慶喜は後に「豚一様」と呼ばれるほどに薩摩の豚を気に入っていた。また、西郷隆盛豚骨と呼ばれる郷土料理と、今風で言う肉入り野菜炒めの豚料理を愛していた。

現在の黒豚は、明治時代イギリスから導入されたバークシャー種と薩摩で昔から飼われていた在来黒豚との改良を重ねたものである。

鹿児島に養豚を産業として根付かせた功労者が、枕崎市鹿籠(かご)出身の獣医師で「黒豚の父」とも呼ばれる、園田兵助である。枕崎は土地が痩せ、台風の多い土地柄で、1895年の黒島流れと呼ばれた台風で街は壊滅状態になった。園田は台風に強いさつまいもの栽培と、漁師町である事から手に入りやすい魚のアラを組み合わせた養豚を考案した。また土着の在来種ではなく、導入されたばかりのバークシャー種に着目し、養豚を住民に説得する一方で、品種改良や販売経路確保のための養豚組合の設立に尽力した。現在、園田の生家(現在は眼科開業医)には兵助の像があり、「養豚の恩人」という当時の鹿児島県知事揮毫した石看板が飾られている。

同時期に家畜商をしていた同じ鹿籠出身の森繁雄は、1949年南薩鉄道鹿籠駅から、県内としては初めて黒豚の東京出荷を行った。東京に送られた黒豚は、美味さと品質の良さから瞬く間に称賛を浴び、貨車に鹿籠駅の車票が付いていた事から「鹿籠豚」と呼ばれた。日本初の豚肉のブランドである。

戦後から1970年代まで、黒豚は一般家庭でも1匹~2匹飼われており、団塊の世代の鹿児島県人の少年期の仕事は「黒豚の散歩」をさせる事だった。この背景には、戦禍と、1951年(昭和26年)に発生したルース台風の直撃による壊滅的被害で復興が立ち遅れた事が原因である。そのため駐在所警察官漁師教員商人サラリーマン家庭など農家と全く関係の無い人々も金銭確保のため黒豚を1匹~2匹仕入れ、それを家畜商に売却して生活をしていた。

1960年代高度経済成長期には、東京で黒豚ブームがピークに達し、供給が追いつかないほどであった。また市場倉庫・保管庫を他の野菜魚介類が占拠していた時期でも「黒豚が入荷した」となると大争奪戦が起こるほどで、当時の東京の肉屋のステータスは「黒豚を扱っているか否か」で決まるほど爆発的な人気を呼び、豚カツ発祥の地である上野では、「うちの肉は黒豚以外は絶対に使わない」と言う頑固な店も存在した。またこの時期、鹿児島県黒豚生産者協議会が認可した「黒豚取扱店舗」の看板(島津氏の家紋が付いたもの)は当時2,000円程度で販売されていたが、供給が追いつかず約10万円もの高値で闇取引されていたという。それでもまだ足りず、鹿児島県黒豚生産者協議会は看板の作成に追われていた。今でもこの看板を保存している肉屋や豚カツ屋は多い。それ程、黒豚を扱う事は東京の肉屋や豚カツ屋にとって大変な名誉であったという。

1970年代に入り、全国の畜産試験場などでは成長が早く多産な白豚(三元豚・LWD)を導入をする動きが活発化し、鹿児島県でも「白豚を導入するか?黒豚を残すか?」で、鹿児島県畜産会・鹿児島県畜産課(黒豚派)と県庁出先機関である農業改良普及所と畜産試験場(白豚派)が激しい論争を巻き起こす。この論争は瞬く間に県内全体に広がり、(畜産農家以外も含めた)農家・非農家の区別を問わず3~4年間の長きに亘って続けられ、当時の県知事金丸三郎が「黒豚は鹿児島の宝。だから黒豚は残す」と決断するまで続いた。黒豚が再び脚光を浴びるのはバブル景気時の「グルメブーム」を待たなければならず、70年代後半から80年代は、黒豚は雌伏の時期を送っていた。

白黒論争の後は黒豚はわずかに生産されていた(1985年には鹿児島県における黒豚の母豚数の割合が3%にまで落ち込んでいた)が、鹿児島県民の懐かしい黒豚の味が忘れられない、黒豚を絶やしてはならないという声が上がり、1986年、大隅農畜産協同センター(現在は解散)と鹿児島県民生活協同組合(現生活協同組合コープかごしま)が本格的な商業取引を開始した。しかし、行政の無関心(当時の鹿児島県は完全な白豚王国であった)、需要及び供給の低迷、会員農家の廃業、県外移転などによって、この取引は自然消滅した。その後、1990年代後半に入り、空前の黒豚狂乱が起こり、黒豚の絶対的頭数が少ないために偽黒豚(バークシャー種の交雑種や、全くの白豚など)がはびこり、鹿児島県畜産課などには苦情や問い合わせが毎日のように殺到した(現在でも週に2、3回は鹿児島県畜産課中小家畜係や鹿児島県畜産試験場養豚部に「黒豚」に対する問い合わせや取材の依頼などがある)。

この問題に対し、1998年、南九州選出の国会議員達は、国会で黒豚の定義を「純粋バークシャー種の交配によって誕生した豚」のみに限定するよう働きかけ、そして決定した。1999年にかごしま黒豚は商標登録され、この頃には黒豚の割合も15%代に増えていた。

21世紀に入り黒豚の数は更に増え続け、2005年には鹿児島県内での割合が38%になるほど激増した。この背景には、元々白豚を飼育していた養豚農家や大手パッカーが経済的に利益のある黒豚に転換したり、新規就農した者が黒豚の養豚を始めた事などが挙げられる。また、組織化された農業法人の経営者も現れたためであり、供給過多に陥っている。

かごしま黒豚の需要は以前は全国的に高かった。しかし現在、食肉業界はデフレによる低価格時代に突入し、価格が高めに設定されているかごしま黒豚から、比較的価格が手頃な、ブランド化途上、または、ブランド化されていない黒豚にシフトしているため苦戦している。福岡食肉市場では、度々だぶついたかごしま黒豚の投売りが行われ、他産地黒豚の相対取引価格を引き下げる要因を作ったりもしている。また、かごしま黒豚が食肉業界で敬遠される理由にはほかに、餌料成分量・飼育方法が統一されていないことによる品質のばらつき、定時定量のコンスタント生産がされていないことなどが挙げられる。

2010年に隣県・宮崎県で起きた口蹄疫発生の時には、鹿児島県内で飼育されている系統造成黒豚の原種豚を農業協同組合や鹿児島県畜産課の指導の下、屋久島甑島などに避難させた。この事については宮崎県の口蹄疫問題がメインで取り上げられていたため、全国的にはあまり報道で取り上げられなかった。

生産

  • 放牧 放牧地はだけのもの、牧草を生やしているもの、を植えているものなど様々である。ただし、共通項として人工的な水溜りを設置している。理由として豚は無汗腺動物で身体を冷やすためと、綺麗好きな性質のため身体に付いた害虫等を洗い流す目的で水溜りに寝転がる習性があるためである。放牧を取り入れる理由として、黒豚は難産傾向がありその緩和のため、黒豚の販売面を有利にするためのイメージ作り、黒豚の肥育期間は一般の白豚より若干長いため、運動させる事によって空腹感を与えて早く出荷させる目的、足腰の強化を図る目的などがある。
  • 放牧時期は離乳後すぐに行う所から、肥育時期から放牧する所など様々である。放牧場は基本的に豚舎と隣接しており、になると豚は豚舎に戻って眠り、が来ると放牧場に方まで出かけていく。そのため、豚舎には豚が自由に出入りできるように出入口が設置されている。しかし現実は、農場の周辺住民の理解が得られない、疾病の問題、と畜場が放牧豚の受け入れを嫌う(豚体が汚れている、寄生虫病で内臓肉が商品にならないため)、事故が起こりやすい、放牧に手間がかかるなどの理由で放牧をする農場はほとんどない。ストール飼育、スノコ豚床飼育、オガクズ豚床飼育がほとんどである。

飼料

農家独自の配合飼料、または市販の配合飼料を与えている。かごしま黒豚の定義にあるようにさつまいも(外国産がほとんど)は基礎配合、そして任意で、大麦やパンくず(肉の締まりを良くし、良質の脂肪を作る上、脂肪融点を上げる効果がある)、荏胡麻焼酎粕(豚の体内酵素の活性化に効果がある)、海藻牧草(豚は便秘をしやすいので、の調子を整える効果がある)などを与える。飼料や飼育方法は、それぞれの農家の裁量になっているため、農家間の品質のばらつきが非常に大きい問題もある。

主要生産地

鹿児島県本土全般だが、特に多いのが大隅半島の曽於・肝属地域と、薩摩半島西部の川辺地域、伊佐地域である。特に伊佐地域は、農産物生産の割合に示す黒豚の生産量が約43%である。出荷頭数は、平成17年から19年にかけて、供給過多による価格低迷、PRRSウイルス、サーコ2型ウイルスによる疾病で年間40万頭台から20万頭台に減少、平成20年以降はデフレによる低豚価で、以前にも増して減少している。

系統豚

鹿児島県畜産試験場で開発されたのは3種類の系統豚である。バークシャー種の系統造成を行っているのは日本では鹿児島県が唯一である[1]。系統豚には以下のものがある。

サツマ
1983年完成[1]
アメリカバークシャー種を主体にし、発育に重点をおいた改良がされている。出荷可能月齢は6ヶ月に迫る(通常7~8ヶ月)。ただし、ロース芯面積が狭く、食肉業界では不評。
ニューサツマ
1982年よりイギリス産バークシャー種と鹿児島県産バークシャー種を主体にし改良研究が始まり、1991年6月完成した[2]
サツマ2001
2001年に完成し、同年7月に系統豚として認定された[3]
サツマおよびニューサツマの血が混じっておらず、なおかつ土着度の強い在来黒豚を主体にし、発育と肉質の向上を目的に改良されている。
クロサツマ2015
2006年度からサツマの後継豚として開発が始まり、2015年度に系統豚として認定された[4]

これら系統豚は生体、人工授精用精液は県外に出さないようにしている。

産地偽装対策

1990年以降の10年間、日本における豚肉の年間消費量は1人あたり10キログラム台で横ばいであった。しかしながら、食の多様化、食品の安全・安心を求める消費者のトレンドから黒豚ブームが起きる。それにつけ入るように生産量をはるかに上回る量の黒豚が出回ったことによって、黒豚ブランドに対する消費者の不信感がつのることになった[5]

また、かごしま黒豚は消費者や流通関係者から高く評価される一方で、品質のばらつきや流通量の多さもあって、鹿児島県産を疑う声も少なくなかった。そこで、鹿児島県黒豚生産者協議会が中心となって、1992年4月よりかごしま黒豚証明制度を実施するようになった。発行されるかごしま黒豚証明書には鹿児島のシンボルである桜島と黒豚の写真と共に生産者名(生産者グループ名)、出荷年月日(処理年月日)を記載することでトレーサビリティを確保する。また、証明書は協議会会員が鹿児島県内で生産・肥育し出荷したバークシャー純粋種の豚肉にのみ交付される。証明書は販売店等まで添付された状態で流通するが、出荷量と店頭販売量の整合性確認のため、販売店等の協力で販売終了後には 協議会に返還することを求めている[5]

牛肉と異なり、豚肉は品質の違いを一目で判別することは困難であるため、協議会会員の中でも求める品質イメージの違いから、ばらついた品質の黒豚が出回ることにもなった。そこで1996年より、協議会でブランド産地指定基準を定め、ブランドへの指定とかごしま黒豚の高位平準化を目指し、基準に適合した飼養マニュアルの普及、定着化を図った。また、1993年より毎月15頭のかごしま黒豚を東京都中央卸売市場食肉市場に生体出荷し、競売価格によって第三者評価を確認するということもやっている[5]

その他

  • 9月6日鹿児島県黒牛黒豚銘柄販売促進協議会が、1998年(平成10年)に定めた「鹿児島黒牛・黒豚の日」となっている[6][7]
  • かごしま黒豚物語は2000年に農業ジャーナリスト大賞を受賞している。
  • 鹿児島県観光課のホームページ、ゆっくり・悠・遊 観光かごしまのマスコットには、かごしま黒豚が使われている。
  • かごしま遊楽館が首都圏で「鹿児島の名産品で思いつくもの」と言うアンケート(複数回答可能)を取った所、80%近くが豚(黒豚)と答えた記録がある。結果は、黒豚が圧倒的な1位だった。

脚注

  1. ^ a b 池谷幸恵、前田昴亮、大小田勉、鈴々木昭一「「かごしま黒豚」の遺伝資源の保存および胚の移植技術に関する研究」(PDF)『鹿児島農総セ研報』第13号、鹿児島県農業総合センター、2019年、99頁。 
  2. ^ 千歳健一、杉山昇、町田克郎、井上清視「系統豚ニューサツマの系統造成」(PDF)『九州農業研究』54号、九州農業試験研究機関協議会、1992年、120頁、NAID 220000097428 
  3. ^ 小村喜久男、石原康弘、大平徳雄、安田研、福留憲浩、岩重秀一「系統豚「サツマ2001」の性能調査」(PDF)『九州農業研究』36号、九州農業試験研究機関協議会、2002年、83-87頁、NAID 220000087143 
  4. ^ 小村喜久男、大平徳雄、大小田勉、福永智明、石原康弘「完成した新たな黒豚系統豚「クロサツマ2015」」(PDF)『九州農業研究』11号、九州農業試験研究機関協議会、2017年、87-100頁、NAID 40021171385 
  5. ^ a b c 沖田速男「鹿児島県黒豚生産者協議会の取り組み」(PDF)『日本養豚学会誌』第38巻、2001年、203-208頁、NAID 10008284477 
  6. ^ 長野京子、畜産の情報−地域便り−社団法人中央畜産会公式サイト「畜産情報ネットワーク」内、1999年6月、2009年11月22日閲覧。)
  7. ^ 鹿児島黒牛・黒豚の日|JMAM日本能率協会マネジメントセンター Archived 2008年6月8日, at the Wayback Machine.(日本能率協会マネジメントセンター公式サイト内、2009年11月22日閲覧。)

参考文献

  • 「国分市史」 - 1985年・鹿児島県国分市発行
  • 「かごしまの畜産」 - 1990年~2010年度・鹿児島県畜産課発行の家畜数統計および試験報告書
    養豚関係者または、他の畜産関係者(酪農や養鶏等)、産業動物臨床獣医師のみにしか配布されておらず、一般人の入手は困難。
  • 「かごしまの養豚」 - 1992年・鹿児島県畜産課発行
    小学校の社会科向け教材として作られたもので、現在は絶版。
  • 「鹿児島県養豚史」 - 1996年・鹿児島県畜産会発行
    養豚関係者・豚を専攻する産業動物臨床獣医師以外には配布されておらず、現在は絶版。
  • 「芝浦食肉検査所記録集」-1998年・東京都芝浦食肉検査所発行
  • 「かごしま黒豚物語」 - 1999年・南日本新聞社発行
    現在も市販されており、南日本新聞のホームページ(書籍販売コーナー)から入手できる。黒の物語、かごしまの黒豚は鹿児島県畜産課の他、県外の鹿児島県事務所(東京・名古屋・大阪・福岡)で観光パンフレットと一緒に設置されている他、鹿児島県畜産課中小家畜係宛にA4サイズの返信用封筒を同封して送付すると入手できる。
  • 「黒の物語」 - 2001年・鹿児島県黒豚生産者協議会発行
  • 「かごしまの黒豚」 - 2002年・鹿児島県系統豚利用推進協議会発行

関連項目

外部リンク