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チェコの歴史

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チェコの歴史を記述する。

独立以前

チェコは主に古来はケルト系先住民ボイイ人の名によりボヘミア(独:ベーメン:Böhmen)と呼ばれた西部の広大な盆地とモラヴィアの丘陵とからなる。西スラヴ系のチェック人(Czechs)が定着し、7世紀にはモラヴィア王国を建て、マジャル人の進出で衰退すると、ボヘミアには10世紀頃に王国を建てた。

プシェミスル朝(900年-1306年

大モラヴィア王国マジャル人に滅ぼされると、10世紀にはチェヒ国がプシェミスル家によって建国された。またボヘミアにはヴァーツラフ1世が王に即位しボヘミア王国が成立した。1212年オタカル1世の時にボヘミア王国は称号と世襲が認められ、続いて神聖ローマ帝国によって、選帝侯とされた。

10世紀の終わりにはカソリックを受容し、11世紀にはドイツ人の移住が進み、ドイツ文化が浸透した。

13世紀にはボヘミア王国は豊富な鉱物資源や商業の勃興で繁栄を極め、ハンガリーバーベンベルク家断絶後のオーストリアにも勢力を伸ばした。オタカル2世は大空位時代に乗じて神聖ローマ皇帝の位も狙うが、ハプスブルク家ルドルフ1世マルヒフェルト戦いで敗れた。その結果、オタカル2世の次の代にはプシェミスル王朝は途絶する。

ルクセンブルク朝(1310年-1437年

プシェミスル朝が断絶するとドイツ系のルクセンブルク家がボヘミア王を世襲した。ドイツ人の外来王朝のもとで、一層のドイツ化が進んだ。国王カレル1世が神聖ローマ皇帝カール4世に即位すると、1348年プラハ・カレル大学を創立するなど学芸に力をいれ、プラハは当時のヨーロッパ文化の中心となった。

15世紀に入り、教会大分裂が起き、カソリックが動揺していた頃にプラハ・カレル大学の総長のヤン・フス英国ウィクリフの影響をうけ教会改革を断行。教会を牛耳っていたドイツ人を追放、教会世俗権力を否定した。これが、ローマ教皇の逆鱗にふれ、フスとプラハ市は波紋され、1414年コンスタンツ公会議でフスは異端として火刑となった。フスの教義はボヘミア人の広範な支持を得ていたため1419年にはフス戦争が勃発。フス派は穏健派(ウトラキスト)と急進派(タボル派)に分かれて戦争を長期に亘り続け、17年後1436年に皇帝ジギスムントとボヘミア代表団の間でイーフラヴァ協約が締結され、フス戦争は終結した。その翌年にはジギスムントは死去。ルクセンブルク王朝は断絶し、神聖ローマ皇帝にはハプスブルク家アルブレヒト2世が即位する。

ハプスブルク家の統治(1437年-1918年)

1620年白山の戦い

チェコスロバキア時代(1918年-1993年)

第一共和国(1918年-1938年)

第一次世界大戦後の1918年、チェコとスロバキアが合同し、チェコスロバキア共和国として独立した。トマーシュ・マサリク大統領の下で、ほかの東欧諸国が独裁あるい権威主義体制へ陥る中で、民主主義体制を堅持した。
しかし、国内に300万人を数えるドイツ系住民(ズデーテン・ドイツ人)に代表される少数民族問題は解決されることなく、大恐慌による経済の悪化も重なって、逆にヒトラー政権に利用されることになった。そして1938年9月のミュンヘン会談で、ズデーテン地方をドイツに割譲。一方、この隙に乗じてポーランドは兼ねてからの争点であったザオルジェ地方に進駐して、これを占領した。

第二共和国(1938年-1939年)

1939年にはナチス・ドイツが進駐し、チェコスロバキアは解体され、ボヘミア・モラヴィア地方がドイツの保護領となった。

占領期(1939年-1945年)

共産化への道(1945年-1948年

1945年、ナチス・ドイツの敗走の結果、ソ連軍によって国土の大半が「解放」される。スロヴァキア東部の都市コシツェで、「コシツェ綱領」が発表され、エドヴァルド・ベネシュを中心とするロンドン亡命政府と共産党との連立政府が発足。ベネシュ大統領の下で「東西の架け橋」を標榜する。
1946年の選挙で、共産党が第1党になるが、単独で過半数を得るには至らなかった。またスロヴァキアでは、第2党に甘んじる結果となった。それでも共産党の指導者であるクレメント・ゴットワルトを首班とする内閣が成立した。

1947年マーシャル・プランへの参加を表明するが、ソ連の圧力で撤回する事態が生じた。当時外務大臣であり、モスクワへソ連指導部との会談に赴いたヤン・マサリクが「一国の外相としてモスクワへ行ったが、ソ連の下僕としてプラハに戻ってきた」と述べたと言われるように、日増しにソ連および共産党からの圧力が高まっていった。そして1948年2月に、非共産党系の閣僚がベネシュに辞表を提出し、ゴットワルト内閣の総辞職を目論むが、共産党は労働組合などを動員し、ベネシュに圧力をかけた。結局、ベネシュは辞表を受理し、共産党と社会民主党左派からなる政権が成立し、チェコスロヴァキアにおいて共産化が完了した。3月には、閣内に残っていたヤン・マサリクが外務省の敷地で遺体で発見され、秘密警察による暗殺説が囁かれるなか、政府は事故死として事件を収拾した。またベネシュは大統領職を辞し、9月3日にこの世を去った。

共産党体制の時代(1948年-1989年

ベネシュに代わって、大統領に共産党の指導者クレメント・ゴットワルトが就任。基幹産業の国有化や農業集団化を推進し、ソ連型社会主義の建設に努めた。またソ連・ユーゴ対立の影響を受け、国内で「チトー主義者」に対する粛清・弾圧が吹き荒れた。この動きは、次第にスロヴァキアの自立を求めるスロヴァキア共産党員にも及び、グスターフ・フサークは終身刑、元外相ヴラジミール・クレメンティスが処刑された。さらに粛清の波は、1952年には、書記長であったルドルフ・スラーンスキーにも及び、頂点に達した。

1953年ヨシフ・スターリンの葬式から帰国したゴットワルトがその後を追うように死去。党第一書記には、アントニーン・ノヴォトニーが、大統領にはアントニーン・ザーポトツキーが就任。1956年のソ連共産党第20回党大会におけるスターリン批判は、隣国ポーランドハンガリーで体制危機を招いたが、チェコスロヴァキアでは、その影響は体制を揺るがすまでには至らなかった。1960年に発布された憲法によって、国名はチェコスロヴァキア社会主義共和国となり、社会主義建設は順調に進んでいることを内外に印象付けた。

しかし、1960年代に入ると、経済成長の鈍化、スロバキアの自治要求、知識人や学生などからの批判が高まり、1968年1月、ノヴォトニーに代わって、アレクサンデル・ドゥプチェクが党第一書記に就任。「人間の顔をした社会主義」を掲げ、言論の自由化や計画経済への市場原理の導入、粛清犠牲者の名誉回復といった共産党体制の改革を進めた(毎年春に開催される音楽祭にちなんで「プラハの春」と呼ばれる)。しかし8月、“西側化”を危ぶんだソ連がワルシャワ条約機構軍を介入させて鎮圧(チェコ事件)、「プラハの春」は終わりを告げた。

1969年4月、ドゥプチェクは党第一書記を解任され、代わってグスターフ・フサークによる「正常化体制」が始まり、改革に賛同していた党員や知識人などは公的生活から追放された。1977年、哲学者ヤン・パトチカや劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルなどが憲章77を発表し、政府の人権抑圧に抗議する運動を起こす。

民主化から連邦解体へ(1989年-1993年)

1989年11月17日ビロード革命により共産党体制が崩壊した。大統領にハヴェルが、連邦議会議長には、ドゥプチェクが就任した。
市場経済への移行政策や連邦政府と共和国との権限配分をめぐって、チェコとスロバキアの対立が深まり、1993年1月にスロバキアとの連邦を解消しチェコ共和国に。

チェコ共和国時代(1993年-)

1995年11月28日経済協力開発機構(OECD)加盟。
1999年3月12日北大西洋条約機構(NATO)加盟。
2003年2月28日、ハヴェルに代わって、ヴァーツラフ・クラウスが新しい大統領に選出され、3月7日に正式就任。
2004年5月1日欧州連合(EU)に加盟した。