クリメント・ヴォロシーロフ
クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ(ロシア語:Климент Ефремович Ворошиловクリミェーント・イフリェーマヴィチュ・ヴァラシーラフ、1881年1月23日(グレゴリオ暦2月4日) - 1969年12月2日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家、ソ連邦元帥。ソ連国防相、最高会議幹部会議長を歴任した。ソ連邦英雄(2度)。
経歴
出自
1881年1月23日、ロシア帝国領だったウクライナのヴェルフニェー・エカテリーノスラフ県に生まれる。ロシア人。1896年、工場で働いたが、ストライキに参加し解雇。1903年、ボリシェヴィキに入党する。1905年、ストライキを扇動して逮捕されたが釈放。1906年、ストックホルムで開かれたロシア社会民主労働党第4回大会に代表として出席し、ウラジーミル・レーニン、ヨシフ・スターリン等と知り合う。1907年には、ロンドンの第5回大会にも出席し、ミハイル・フルンゼ、M.カリーニン等とも知り合う。同年、逮捕され、アルハゲリスク県に追放。1913年、恩赦。
ロシア革命と内戦
1917年ロシア革命が勃発すると、ルガンスク会議議長に選出。同年11月、チェーカーの仕事に移ったフェリックス・ジェルジンスキーに代わってペトログラード委員となる。
1918年、第1ルガンスク社会主義パルチザン支隊を編成。この後間もなく、第5ウクライナ軍司令官に任命されたが、ドイツ軍とクラスノフのコサック軍に敗れる。その後、第10軍を編成し、ツァーリツィン(後のスターリングラード、現在のヴォルゴグラード)防衛を組織化し、この間、スターリンとの間に緊密な関係を築くことになった。しかしながら、スターリンがツァーリツィンから去ると、ヴォロシーロフはレオン・トロツキーにより罷免された(トロツキーによれば、「ヴォロシーロフとは、フィクションである」(Ворошилов есть фикция))。
両大戦間
その後、ウクライナ・ソビエト共和国内務人民委員に任命。1921年、クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加し、党中央委員に選出される。1921年~1924年、北カフカーズ軍管区司令官。1925年、ミハイル・フルンゼが死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任する。翌1926年には政治局員となる。1930年代の大粛清ではいわばスターリンの執行者として大きく関与した。また、ヴォロシーロフの軍における威勢の強大化は、ミハイル・トゥハチェフスキー元帥の粛清と表裏一体であった。
1934年、国防人民委員(国防相)に就任し、翌1935年ソ連邦元帥の称号を得る。
1939年11月から1940年1月まで冬戦争(第1次ソ・芬戦争)でソ連軍を指揮するが、フィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ多くの死傷者を出した。この責任を取る形で40年3月、国防人民委員を解任された。冬戦争の失態からフルシチョフはヴォロシーロフに対して低い評価をしており、後年「赤軍の大きな溜壺」(biggest bag of shit in the army)と酷評している。
独ソ戦
1941年、独ソ戦(大祖国戦争)が開始されるとヴォロシーロフは、国家防衛委員会および大本営のメンバーとなり、スターリンを補佐した。また、北西方面軍司令官に任命され、各地戦線に派遣された。ヴォロシーロフは個人的に見れば相当な勇将ではあったものの、圧倒的な機動力を有するドイツ機甲部隊に対してピストルなどの小火器をもって対抗するという類のものでしかなく、結局、ドイツ軍のレニングラード包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任された。しかしながらこの失態にもかかわらず、ヴォロシーロフはスターリンの年来の昔なじみという立場から、独ソ戦当初に敗北したという不名誉は不問に付された。終戦後の1945年から1947年までハンガリーに駐留し、同国の共産化を指揮した。
戦後
1952年、党幹部会(政治局を改称)員となる。1953年、スターリンが死去したことにより、ソ連に大きな変化がもたらされる。ヴォロシーロフは、ソ連共産党第一書記となったフルシチョフと首相となったゲオルギー・マレンコフによって国家元首である最高会議幹部会議長に選出された。この三者は、スターリンの死の直後にラヴレンチー・ベリヤの逮捕を共謀していた。1956年、第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を開始すると、ヴォロシーロフは、一時的にマレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラーザリ・カガノーヴィチら、旧スターリン派(いわゆる「反党グループ」に加わり、フルシチョフ攻撃に走った。1957年6月、フルシチョフが権力闘争に勝利すると、ヴォロシーロフはフルシチョフ側に寝返った。
1960年5月7日、ソ連最高会議はヴォロシーロフの「引退の要請」を受けて、これを承認し、後任の最高会議幹部会議長にレオニード・ブレジネフを選出した。7月16日、党中央委員会はヴォロシーロフを党幹部会員から解任した。1961年10月の第22回党大会はヴォロシーロフを中央委員に選出せず、これによって完全に失脚し年金生活入りした。ヴォロシーロフ引退の直前の挿話として以下のようなことが残されている。ある日、中央委員会の夕食会に出席したヴォロシーロフは、他の出席者から無視された。この冷遇から自らの解任が既に決定されていると悟ったヴォロシーロフは、解任を先取りし、「引退」を表明したと言われる。
フルシチョフの失脚後、党第一書記(後に書記長)となったブレジネフによって、1966年に中央委員に返り咲いた。1968年にはソ連邦英雄の称号を受賞した(2回目)。
1969年12月2日モスクワで死去した。
顕彰
第二次世界大戦で使用された重戦車であるKVシリーズ(KV-1、KV-2、KV-85)は、ヴォロシーロフにちなんで名付けられたものである。1935年、ウクライナと極東の都市が彼にちなみヴォロシロフグラードおよびヴォロシロフ(それぞれ1950年代後半に、ルハーンスィク、ウスリースクに改称)と命名された。また、モスクワのソ連軍機甲軍大学にも、ヴォロシーロフの名称が冠された。
その他
- 妻はユダヤ籍を持つホルダ・ダヴィードヴナ・ホルプマン(1887年~1959年)。ヴォロシーロフとの結婚前にロシア正教会に改宗の上で、エカチェリーナに改名している。1917年ボリシェビキ党員になり、レーニン博物館副館長職として勤務した。一方で自分たちは子を設けず、フルンゼの息子チムールとピョートル,娘タチヤーナ、更に孫子のクリムとヴァロージャを育てた。
- なお日本でも良く知られている、1934年にグーセフにより作詞されたポリュシカ・ポーレでは10番中7番の歌詞に,国防部門で重要な地位に就いたばかりのヴォロシーロフの名が登場する。
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