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「九条良平」の版間の差分

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良平の母は『尊卑分脈』でも『公卿補任』でも藤原頼輔女とあるので修正。男子も追加修正、女子は『尊卑分脈』では1名であるので修正。
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| 主君 = [[土御門天皇]]→[[順徳天皇]]→[[仲恭天皇]]→[[後堀河天皇]]→[[四条天皇]]
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| 氏族 = [[九条家]]
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== 修理職の統括者 ==
== 修理職の統括者 ==
遠藤珠紀氏の指摘によれば、[[修理職]]では長官である[[修理大夫]]とは別の統括者が存在し「職務」と称されていたという<ref>遠藤珠紀、「鎌倉期朝廷社会における官司運営の変質:修理職・内蔵寮の検討を通して」、『史学雑誌』2005年114巻10号p. 1717.</ref>。そして寛喜年中に修理職を拝領していた良平は、安貞元年(1227年)10月に[[三条基定]]を修理大夫に推挙しているとある<ref>前掲論文p. 1722.</ref>。つまり良平は修理職の統括者である知行者(「職務」)だったのである。
遠藤珠紀氏の指摘によれば、[[修理職]]では長官である[[修理大夫]]とは別の統括者が存在し「職務」と称されていたという<ref>遠藤珠紀、「鎌倉期朝廷社会における官司運営の変質:修理職・内蔵寮の検討を通して」、『史学雑誌』2005年114巻10号p. 1717.</ref>。そして寛喜年中に修理職を拝領していた良平は、安貞元年(1227年)10月に[[三条基定]]を修理大夫に推挙しているとある<ref>前掲論文p. 1722.</ref>。つまり良平は修理職の統括者である知行者(「職務」)として実質的な支配権を有していたのである。



== 系譜 ==
== 系譜 ==
*父:[[九条兼実]]
*父:[[九条兼実]]
*母:[[藤原顕輔]]の娘または藤原頼輔
*母:[[修理大夫]]藤原頼輔
*養父:[[九条良経]]
*養父:[[九条良経]]
*妻:[[藤原範光]]女
*妻:[[藤原範光]]女
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*生母不明の子女
*生母不明の子女
**女子:[[小倉公雄]]室
**女子:[[小倉公雄]]室
**子:[[後嵯峨天皇]]の宮人
**子:教房
**男子:良輝
**男子:良頼


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年5月20日 (木) 13:05時点における版

 
九条良平
時代 鎌倉時代前期
生誕 元暦元年4月19日1184年5月30日
死没 延応2年3月17日1240年4月10日
別名 醍醐太政大臣
官位 左大臣左大将従一位太政大臣
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 九条家
父母 父:九条兼実
母:藤原頼輔女
養父:九条良経
兄弟 良通良経任子良円良平良快良輔、良尋、良海、良恵、玉日
藤原範光女、左京大夫兼教女
藤原高実、教房、良輝、良頼、最源、女子(小倉公雄室)
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九条 良平(くじょう よしひら)は、鎌倉時代前期の公卿関白九条兼実の三男。兄・九条良経の養子。官位左大臣左大将従一位太政大臣醍醐太政大臣と呼ばれる。

経歴

以下、『公卿補任』及び『尊卑文脈』の内容に従って記述する。

修理職の統括者

遠藤珠紀氏の指摘によれば、修理職では長官である修理大夫とは別の統括者が存在し「職務」と称されていたという[9]。そして寛喜年中に修理職を拝領していた良平は、安貞元年(1227年)10月に三条基定を修理大夫に推挙しているとある[10]。つまり良平は修理職の統括者である知行者(「職務」)として実質的な支配権を有していたのである。

系譜

脚注

  1. ^ この日に元服。禁色を許される
  2. ^ 宜秋門院建久9年御給
  3. ^ 宇治に行幸の賞
  4. ^ 九条良経の喪による
  5. ^ 実父九条兼実の喪による
  6. ^ 皇后宮が宜秋門院に初めて行啓の賞の譲り
  7. ^ 皇后に院号宣下があったため
  8. ^ 病による
  9. ^ 遠藤珠紀、「鎌倉期朝廷社会における官司運営の変質:修理職・内蔵寮の検討を通して」、『史学雑誌』2005年114巻10号p. 1717.
  10. ^ 前掲論文p. 1722.

参考文献

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 遠藤珠紀、「鎌倉期朝廷社会における官司運営の変質:修理職・内蔵寮の検討を通して」、『史学雑誌』2005年114巻10号p. 1716-1736