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2006年6月3日 (土) 06:06時点における版

クリメント・エフレモヴィッチ・ウォロシーロフヴォロシーロフКлиме́нт Ефре́мович Вороши́ловKliment Yefremovich Voroshilov1881年1月23日 - 1969年12月2日)は、ソビエト連邦軍人政治家ソビエト連邦元帥w:Marshal of the Soviet Union。ソ連国防相、最高会議幹部会議長を歴任した。

1881年1月23日ロシア帝国領だったウクライナに生まれる。1903年ボリシェヴィキに入党する。1917年ロシア革命が勃発すると、ウクライナ臨時政府を樹立し内務人民委員となる。内戦期には、ツァーリツィン(後のスターリングラード、現在のボルゴグラード)防衛を組織化し、この間スターリンとの間に緊密な関係を築くことになった。

1921年党中央委員に選出される。1925年ミハイル・フルンゼが死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任する。翌1926年には政治局員となる。1930年代大粛清ではいわばスターリンの執行者として大きく関与した。また、ヴォロシーロフの軍における威勢の強大化は、ミハイル・トハチェフスキー元帥の粛清と表裏一体であった。

1934年国防人民委員(国防相)に就任し、翌1935年ソ連邦元帥w:Marshal of the Soviet Unionの称号を得る。第二次世界大戦が勃発すると、ヴォロシーロフは最高国防委員会のメンバーとなり、スターリンを補佐した。

1939年11月から1940年1月まで冬戦争(第1次ソ・芬戦争)でソ連軍を指揮するが、フィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられ多くの死傷者を出した。冬戦争の失態からフルシチョフはヴォロシーロフに対して低い評価をしており、後年「赤軍の大きな溜壺」biggest bag of shit in the armyと酷評している。

1941年独ソ戦バルバロッサ作戦)が開始されるとヴォロシーロフは、北西方面軍司令官に任命された。しかし、ヴォロシーロフは個人的に見れば相当な勇将ではあったものの、圧倒的な機動力を有するドイツ機甲部隊に対してピストルなどの小火器をもって対抗するという類のものでしかなく、結局、ドイツ軍レニングラード包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任された。しかしながらこの失態にもかかわらず、ヴォロシーロフはスターリンの年来の昔なじみという立場から、独ソ戦当初に敗北したという不名誉は不問に付された。終戦後の1945年から1947年までハンガリーに駐留し、同国の共産化を指揮した。

1952年党幹部会(政治局を改称)員となる。1953年スターリンが死去したことにより、ソ連に大きな変化がもたらされる。ヴォロシーロフは、ソ連共産党第一書記となったフルシチョフと首相となったゲオルギー・マレンコフによって国家元首である最高会議幹部会議長に選出された。この三者は、スターリンの死の直後にラブレンティ・ベリヤの逮捕を共謀していた。1956年第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を開始すると、ヴォロシーロフは、一時的にマレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフラザール・カガノヴィッチら、旧スターリン派(いわゆる「反党グループw:Anti-Party Group」に加わり、フルシチョフ攻撃に走った。1957年6月フルシチョフが権力闘争に勝利すると、ヴォロシーロフはフルシチョフ側に寝返った。

1960年5月7日ソ連最高会議はヴォロシーロフの「引退の要請」を受けて、これを承認し、後任の最高会議幹部会議長にレオニード・ブレジネフを選出した。7月16日党中央委員会はヴォロシーロフを党幹部会員から解任した。1961年10月第22回党大会はウォロシーロフを中央委員に選出せず、これによって完全に失脚し年金生活入りした。ウォロシーロフ引退の直前の挿話として以下のようなことが残されている。ある日、中央委員会の夕食会に出席したヴォロシーロフは、他の出席者から無視され。この冷遇が自らの解任が既に決定されていると悟ったヴォロシーロフは、解任を先取りし、「引退」を表明したと言われる。

フルシチョフの失脚後、党第一書記(後に書記長)となったブレジネフによって、1966年中央委員に返り咲いた。1968年にはソ連邦英雄の称号を受賞した(2回目)。

1969年12月2日モスクワで死去した。

第二次世界大戦で使用された戦車KVシリーズは、ヴォロシーロフにちなんで名付けられたものである。死後、ウクライナと極東の都市にウォロシーロフグラード(それぞれ現在は、ルハンスクw:Luhanskウスリースクに改称)と命名された。また、モスクワのソ連軍機甲軍大学にも、ウォロシーロフの名称が冠された。

先代
ニコライ・シュヴェルニク
ソ連最高会議幹部会議長
1953年-1960年
次代
レオニード・ブレジネフ