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「デイヴ平尾&ゴールデン・カップス」の版間の差分

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'''デイヴ平尾&ゴールデン・カップス'''(-ひらお と-、[[1973年]] 結成 - [[1974年]] 活動停止)は、かつて存在した日本の[[ロックバンド]]である。[[ザ・ゴールデン・カップス]]のリーダー[[デイヴ平尾]](平尾時宗)が、カップス解散後に結成した。'''ママリンゴ'''、'''横浜よいどれバンド'''(よこはま-)、'''ニュー・ゴールデン・カップス'''とも名乗った。
'''デイヴ平尾&ゴールデン・カップス'''(-ひらお と-、[[1973年]] 結成 - [[1974年]] 活動停止)は、かつて存在した日本の[[ロックバンド]]である。[[ザ・ゴールデン・カップス]]のリーダーだった[[デイヴ平尾]](平尾時宗)が、カップス解散後に結成した。'''ママリンゴ'''、'''横浜よいどれバンド'''(よこはま-)、'''ニュー・ゴールデン・カップス'''とも名乗った。


== 略歴・概要 ==
== 略歴・概要 ==
[[1972年]](昭和47年)1月、ザ・ゴールデン・カップスが沖縄で解散したあと、[[1973年]](昭和48年)ころに、デイヴ平尾が、[[京都]]・[[河原町]]にあったサパークラブ「ママリンゴ」(現在閉店)等での営業のために結成した。当初、バンド名が定まっておらず、'''ママリンゴ''''''横浜よいどれバンド''''''ニュー・ゴールデン・カップス'''とも名乗った。
[[1972年]](昭和47年)1月、ザ・ゴールデン・カップスが沖縄で解散したあと、[[1973年]](昭和48年)ころに、デイヴ平尾が、[[京都]]・[[四条河原町|河原町]]にあったサパークラブ「ママリンゴ」(現在閉店)等での営業のために結成した。当初、バンド名が定まっておらず、ママリンゴ、横浜よいどれバンド、ニュー・ゴールデン・カップスとも名乗った。


メンバーも流動的であったが基本的には、元ザ・ゴールデン・カップスの平尾、柳譲治([[柳ジョージ]])、[[1969年]](昭和44年)末にカップスを脱退してフード・ブレイン~スピード・グルー&シンキを経た加部正義([[ルイズルイス加部]])、元[[グレープジュース (バンド)|ープジュース]]で[[エモーション (バンド)|エモーション]]~[[羅生門 (バンド)|羅生門]]~[[ゴジラ (バンド)|ゴジラ]]~初期のハルヲフォン(のちの[[近田春夫&ハルヲフォン]])と[[近田春夫]]とともに歩ん[[金沢ジュン]](金澤純一)の4人で、のちに、[[ダウン・タウン・ブギウギ・バンド]]を脱退した[[蜂谷吉泰]]が加入した<ref>「[https://web.archive.org/web/20070614055238/http://www.geocities.jp/spanishcastlemagic2005/rockandfolkband.htm 1971 - 1976年のロック、フォークなどのバンド、グループ]」の「ママリンゴ」および「デイヴ平尾&ゴールデン・カップス」の項の記述を参照。</ref>。
メンバーも流動的であったが基本的には、元ザ・ゴールデン・カップスの平尾、柳譲治([[柳ジョージ]])、[[1969年]](昭和44年)末にカップスを脱退してフード・ブレイン~スピード・グルー&シンキを経た加部正義([[ルイズルイス加部]])、元グレープジュース([[小山ルミ]]のバックバンドも務めた[[ープ・サウンズ|GS]]で[[エモーション (バンド)|エモーション]]~[[羅生門 (バンド)|羅生門]]~[[ゴジラ (バンド)|ゴジラ]]~初期のハルヲフォン(のちの[[近田春夫&ハルヲフォン]])と[[近田春夫]]とともにバンド街道を歩んできた[[金沢ジュン]](金澤純一)の4人で、のちに、[[ダウン・タウン・ブギウギ・バンド]]を脱退した[[蜂谷吉泰]]が加入した<ref>「[https://web.archive.org/web/20070614055238/http://www.geocities.jp/spanishcastlemagic2005/rockandfolkband.htm 1971 - 1976年のロック、フォークなどのバンド、グループ]」の「ママリンゴ」および「デイヴ平尾&ゴールデン・カップス」の項の記述を参照。</ref>。


旧カップス時代の曲や洋楽のカバーを演奏した。当時のスタジオ音源は残されていないが、ライヴ音源(郡山[[ワンステップフェスティバル]]や横浜野外音楽堂での録音)は後年にCDリリースされた。[[1974年]](昭和49年)、平尾がソロとなって活動停止した。のちに平尾が[[テレビドラマ]]『[[悪魔のようなあいつ]]』([[1975年]][[6月6日]] - [[9月26日]])で歌った挿入歌『[[ママリンゴの唄]]』は、この当時のことがモチーフとなっている。
旧カップス時代の曲や洋楽のカバーを演奏した。当時のスタジオ音源は残されていないが、ライヴ音源(郡山[[ワンステップフェスティバル]]や横浜野外音楽堂での録音)は後年にCDリリースされた。その後、平尾が再びソロ活動を行うため[[1974年]](昭和49年)末~[[1975年]](昭和50年)頭あたりでバンド活動停止した。のちに平尾が[[テレビドラマ]]『[[悪魔のようなあいつ]]』([[1975年]][[6月6日]] - [[9月26日]])で歌った挿入歌『[[ママリンゴの唄]]』は、この当時のことがモチーフとなっている。

なお、初期の頃には、イサム神吉(セッションミュージシャン/サイドマン)、[[アイ高野]](元[[ザ・カーナビーツ]])、[[大口広司]](元[[ザ・テンプターズ]])、四ツ田ヨシヒロ(のちに[[柳ジョージ&レイニーウッド|レイニーウッド]])といったドラマーや、陳信輝(元パワーハウス)、[[佐藤宣彦]](のちに[[パンタ (歌手)|PANTA&HAL]])といったギタリストが参加していたという証言があるが、写真や音源などの記録は残されていない。<ref>{{Cite web |title=気ままに生きる(71/203) {{!}} 小説サイト ベリーズカフェ |url=https://www.berrys-cafe.jp/book/n730755/71 |website=小説サイトBerry's Cafe -ベリーズカフェ- |access-date=2024-01-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=ママリンゴと時さん - 鼓曲萬来 |url=https://blog.goo.ne.jp/cohan2005/e/c1e6c16e8a2498b84b8fbfb9faf0a417 |website=goo blog |access-date=2024-01-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=横浜パラダイス(184) 横浜野外音楽堂の軌跡を辿る Vol.6 1960年代後半〜1970年代開催のコンサートに関して |url=http://blog.livedoor.jp/tk88jm/archives/46389982.html |website=横浜パラダイス |date=2022-05-07 |access-date=2024-01-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.tisen.jp/pukiwiki/?%A5%DE%A5%DE%A5%EA%A5%F3%A5%B4 |title=知誕Wiki「ママリンゴ」の項 |access-date=2024.01.25 |publisher=PukiWiki Developers Team}}</ref><ref>{{Cite web |title=佐藤宣彦オフィシャルサイト |url=https://www.satohnobuhiko.rocks/ |website=satohnobuhiko |access-date=2024-01-25 |language=ja}}</ref>


== 関連事項 ==
== 関連事項 ==

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デイヴ平尾&ゴールデン・カップス
別名 ママリンゴ
横浜よいどれバンド
ニュー・ゴールデン・カップス
出身地 日本の旗 日本東京都
ジャンル ロック
活動期間 1973年 - 1974年
メンバー デイヴ平尾ヴォーカル
柳譲治ギター
加部正義ベース
金沢ジュンドラムス
蜂谷吉泰(ギター)

デイヴ平尾&ゴールデン・カップス(-ひらお と-、1973年 結成 - 1974年 活動停止)は、かつて存在した日本のロックバンドである。ザ・ゴールデン・カップスのリーダーだったデイヴ平尾(平尾時宗)が、カップス解散後に結成した。ママリンゴ横浜よいどれバンド(よこはま-)、ニュー・ゴールデン・カップスとも名乗った。

略歴・概要

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1972年(昭和47年)1月、ザ・ゴールデン・カップスが沖縄で解散したあと、1973年(昭和48年)ころに、デイヴ平尾が、京都河原町にあったサパークラブ「ママリンゴ」(現在閉店)等での営業のために結成した。当初、バンド名が定まっておらず、ママリンゴ、横浜よいどれバンド、ニュー・ゴールデン・カップスとも名乗った。

メンバーも流動的であったが基本的には、元ザ・ゴールデン・カップスの平尾、柳譲治(柳ジョージ)、1969年(昭和44年)末にカップスを脱退してフード・ブレイン~スピード・グルー&シンキを経た加部正義(ルイズルイス加部)、元グレープジュース(小山ルミのバックバンドも務めたGS)でエモーション羅生門ゴジラ~初期のハルヲフォン(のちの近田春夫&ハルヲフォン)と近田春夫とともにバンド街道を歩んできた金沢ジュン(金澤純一)の4人で、のちに、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを脱退した蜂谷吉泰が加入した[1]

旧カップス時代の曲や洋楽のカバーを演奏した。当時のスタジオ音源は残されていないが、ライヴ音源(郡山ワンステップフェスティバルや横浜野外音楽堂での録音)は後年にCDリリースされた。その後、平尾が再びソロ活動を行うため1974年(昭和49年)末~1975年(昭和50年)頭あたりでバンド活動を停止した。のちに平尾がテレビドラマ悪魔のようなあいつ』(1975年6月6日 - 9月26日)で歌った挿入歌『ママリンゴの唄』は、この当時のことがモチーフとなっている。

なお、初期の頃には、イサム神吉(セッションミュージシャン/サイドマン)、アイ高野(元ザ・カーナビーツ)、大口広司(元ザ・テンプターズ)、四ツ田ヨシヒロ(のちにレイニーウッド)といったドラマーや、陳信輝(元パワーハウス)、佐藤宣彦(のちにPANTA&HAL)といったギタリストが参加していたという証言があるが、写真や音源などの記録は残されていない。[2][3][4][5][6]

関連事項

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  1. ^ 1971 - 1976年のロック、フォークなどのバンド、グループ」の「ママリンゴ」および「デイヴ平尾&ゴールデン・カップス」の項の記述を参照。
  2. ^ 気ままに生きる(71/203) | 小説サイト ベリーズカフェ”. 小説サイトBerry's Cafe -ベリーズカフェ-. 2024年1月25日閲覧。
  3. ^ ママリンゴと時さん - 鼓曲萬来”. goo blog. 2024年1月25日閲覧。
  4. ^ 横浜パラダイス(184) 横浜野外音楽堂の軌跡を辿る Vol.6 1960年代後半〜1970年代開催のコンサートに関して”. 横浜パラダイス (2022年5月7日). 2024年1月25日閲覧。
  5. ^ 知誕Wiki「ママリンゴ」の項”. PukiWiki Developers Team. 2024年1月25日閲覧。
  6. ^ 佐藤宣彦オフィシャルサイト”. satohnobuhiko. 2024年1月25日閲覧。

外部リンク

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