陸奥石川氏
陸奥石川氏(むつ いしかわし)は、清和源氏頼親流の武家・士族だった日本の氏族。他氏との混同を避けるために陸奥石川氏または奥州石川氏と呼ぶことが多い。
石川氏 (陸奥石川氏) | |
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本姓 | 清和源氏頼親流 |
家祖 | 源頼遠 |
種別 |
武家 士族 |
出身地 | 摂津国 |
主な根拠地 | 陸奥国石川郡(白河郡)泉郷 |
著名な人物 |
源有光 石川昭光 石川晴光 |
支流、分家 |
赤坂氏(武家) 蒲田氏(武家) 大寺氏(武家) など |
凡例 / Category:日本の氏族 |
清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖とする。長年独立の大名であったが、天正18年(1590年)奥州仕置で改易。これにより伊達氏重臣となって、江戸時代には仙台藩の中で一門首席の座にあった[1]。維新後、士族[2]。
創立
編集後世の系図によると、永承6年(1051年)、頼遠は子の有光とともに陸奥守源頼義に従って奥州に下向、前九年の役に従軍した。厨川に戦死した頼遠に代わって有光が軍を指揮。康平6年(1063年)、有光はその軍功により従五位下安芸守に任じられ、陸奥国(後の磐城国)白河郡から分離された石川郡を下賜された。有光は同郡泉郷を拠点として三芦城を築城して居住し、それ以来石川氏を称した。
岩手県の平泉にある柳之御所跡から出土した折敷墨書には「石川三郎殿」「石川太郎殿」と記されており、2人は陸奥石川氏の出身で奥州藤原氏と婚姻関係によって連携していたと考えられる。「常州古内静音寺蔵書 佐竹幷諸家系図」の石川系図では、有光の子・石川元光(基光)の注に「母清衡娘」とあり、藤原清衡と石川氏が婚姻関係を結んでいたことがわかる。一方、有光のもう1人の子である石川光家の母は『尊卑分脈』では佐竹義業の娘とされる。また、元光の子である光義の子・義季の夫人は陸奥守・藤原基成の娘とされる[3]。
後世の系図によると、第6代広季は、伊豆で源頼朝が平家討伐の兵を挙げたことを知り、寿永2年(1183年)、伯父光治率いる軍を鎌倉に送る。文治4年(1188年)、奥州藤原氏攻めのために白河関に到った頼朝は、石川の地にある川辺八幡宮に戦勝祈願を行い、三日間の滞在後に伊達郡厚樫山の戦場に向かった。奥州を平定し、凱旋する途上で神料を寄進した。
『尊卑分脈』によると、源頼朝によって石川二郎秀康が殺害されたとされる。これは、文治5年(1189年)の奥州合戦の際に秀康が親戚関係にあった奥州藤原氏方についたからであり、秀の字も藤原秀衡の一字を与えられたものと考えられる[4]。
石川氏は元光の子孫と光家の子孫に大きく二分され、鎌倉時代初期には光家流が惣領であった。これは、元光の母が藤原清衡の娘であり、奥州合戦で奥州藤原氏に加担した者がいたためであると考えられる。『吾妻鏡』建久6年(1195年)3月10日条によると、源頼朝による東大寺供養に沢井太郎(光義)と石河大炊介(光盛)が従っている[5]。
承元3年(1209年)には石川太郎光盛が子の石川大炊助光重に所領を譲渡している。
承久2年(1221年)の承久の乱では、光盛が所持していた石川荘の地頭職の一部は北条氏に改替されたとされる。
文永2年(1265年)8月23日付の「北条時宗裁許状」には源有光の孫・石川光盛の名前が見える。
福島県石川町曲木坂ノ下にある建治元年(1275年)12月12日付の胎蔵界大日如来一尊塔婆には源祐光という名前が見え、石川氏の人物と考えられるが後世の系図には名前が見えない[6]。
弘長元年(1261年)3月22日には、所領を巡って坂地八郎光信と石川大炊助光行が争っている。
永仁6年(1298年)には石川光広が光行から越後国刈羽郷にあった所領を譲渡されている。
元亨3年(1323年)に行われた北条貞時の13年忌に際して、石河大炊助又太郎・石河孫太郎入道・石河小太郎・石河河尻六郎・石河大寺孫太郎・石河須鎌彦太郎・石河牧木工助又太郎・石河高貫弥五郎・石河沢井六郎入道・石河大島六郎・石河沢井小六郎らが各々馬一頭を進献しており、北条氏の御内人として活動していたと考えられる。嘉暦2年(1327年)の関東御教書では石河大炊助又太郎が蒲田総領を名乗っている[7]。
光盛の4世孫で石川一族庶流・大島氏出身の義光は、元弘3年(1333年)5月17日に相模国世野原で新田義貞軍に加わり、稲村ヶ崎の戦いに参加している。鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が成ると、上洛して新政権から従五位下宮内大輔に、翌建武元年(1334年)に従四位下大膳大夫に任じられた。
建武の新政から室町時代
編集南北長期の石川氏は、元弘3年(1333年)に石川時光・石川義光、建武2年(1335年)には石川中務少輔・石川光時・石川光念・矢吹兵衛太郎、同3年には石川貞光、興国2年(1341年)には矢葺光義、康永2年(1343年)には大寺祐光・千石時光・小貫時光、観応3年(1352年)には板橋高光の名前が確認されている。
建武2年(1335年)8月28日付の佐竹貞義軍勢催促状では、石川一族の「小平輩」が建武新政府に反乱を起こしたことが記されている。小平輩は石川氏庶流の石川義光・光俊親子に比定され、陸奥国安達郡木幡山周辺で籠城し、陸奥国府の討伐を受けている。義光・光俊親子は鎌倉幕府攻滅の軍忠に納得のいく恩賞が得られなかったと考えられる。建武3年(1336年)7月付の「石河義光若党屋葺頼道軍忠状」によると、義光は追討を受けたのと同じ時期に下向してきた足利尊氏に従軍し、翌年2月の鎮西下向にも従い、東上して湊川の戦いや近江の戦いで活躍したものの、比叡山の地蔵堂前で建武3年(1336年)6月5日に討死した。この軍忠により、子の光俊は陸奥国会津蜷川荘の野沢村の半分を所領として賜っており、建武5年(1338年)閏7月の軍忠状によると、同年2月に北畠顕家が西上した際には伊勢国や奈良、3月には男山、阿倍野、5月には石津の戦いに参戦している。
建武2年(1335年)12月晦付石川源太郎光時軍忠状に出てくる石川光時は、石川光盛の5世孫にあたり、分流の大島氏出身であった。この軍忠状によると、石川光家(源有光の子)流の棟梁である大将軍・石川孫太郎入道光念(系図に見える石川俊光に比定される)に従い、12月24日に北畠顕家の臣僚・広橋修理亮経康率いる南朝方と高野郡馬場原(現在の棚倉町)で合戦し、28日から30日にかけて南朝方の白河城も攻撃したという。また、翌年1月16日には菊田荘三箱湯本城攻撃の「搦手大将」を務めた。
上記の光念は高師直に従い、一族の孫四郎(弟)・弥次郎らを率いて阿倍野の戦いで北畠顕家と戦っていることが判明している。しかし、光念が畿内で戦闘を行っていたところ、石川荘に残っていた一族のうち石川矢葺駿河権守光義という人物が千石六郎時光などの親族を率いて南朝方に与し、北朝方として吉良貞家に従っていた蒲田兼光や板橋高光(時光の弟)と戦闘を行っている[8][9]。建武4年(1337年)の「伊賀盛光代麻績盛清軍忠状」には石川松河四郎太郎の名前が見える[10]。
康永3年(1343年)には光義が結城親朝とともに北朝方に帰参したが、その後の行方は不明である。代わって吉良貞家の奉行人を務めた石川左衛門尉が観応3年(1352年)までに駿河権守・駿河守を称し、石川一族を率いていた光義の地位を継承した。以降は石川駿河守家が後世まで続いていくこととなる。なお、高師直に従っていた光念は石川荘に帰国したもののそれ以降の動向は不明である[11]。
貞治6年(1367年)には斯波直持の両使を務めている。また同年には石橋棟義が吉良治家を討伐しており、これに関連して「石川庄内泉郷所々」が棟義方の小峰朝常に与えられていることから、石川駿河守は治家方として参戦したと考えられる[12]。
正長2年(1429年)2月には、それまでに石川氏に伝えられた文書が紛失していたことから、石川孫三郎持光が文書の紛失状を鎌倉府に申請している。持光は「駿河守」の子とされているが、この駿河守(石川義光か)と前述の駿河守は別人であり、どのような関係にあったのかは不明である。駿河守は結城氏朝によって殺害されており、これに対して足利持氏と稲村公方の足利満貞は持光方に哀悼の意を示し、持光を惣領として安堵している一方で、篠川公方の足利満直は氏朝を称賛し駿河守の所領を恩賞とすると述べている。持氏と満直は対立していたことから、持氏は中務少輔(持光)に「一族で力を合わせて対抗すべきである」という旨の御教書を送っており、満直は石川氏庶流の板橋掃部助という人物を自陣に引き込もうと書状を送っている。その中で石川将監という人物も満直方についたことが記されている。その後、持氏は持光救援のために伊達氏・懸田氏・相馬氏・石橋氏・蘆名氏・結城満朝に支援を依頼しており、里見家基や一色直兼・上杉定頼を派遣している[13]。
戦国時代から江戸時代まで
編集第25代晴光は、永禄6年(1563年)、伊達晴宗の四男・小二郎(後に昭光と改名)を養子に受け、家督を譲って隠居した。
第26代昭光は天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しない伊達政宗を憚って自らも援軍の派兵を見送った。しかし秀吉に恨まれ、奥州仕置によって領地は蒲生氏郷に与えられることとなった。老臣溝井義信は秀吉に対して異心のないことを闡明することを主張するが、秀吉軍が迫る中で賛同する者はなく、ついに伊達氏に仕えることを余儀なくされた。溝井は独り城に籠り、火を放って自刃した。
伊達家に仕えた昭光は慶長3年(1598年)、伊具郡角田1万2千石の領主となり、石川家の碑所である長泉寺を石川から移し、守護神である八幡神を石川から勧請した。この時、一族の中には昭光に従い角田に移ったものと、刀を捨て農民・商人として残るものとに分かれた。慶長8年(1603年)、家督を嫡男義宗に譲るが、慶長15年(1610年)、義宗が34歳で没すると、昭光は再び政務を執る。
その後、石川家は、伊達家臣の最上位である「一門」(本来、伊達氏と対等の大名で、伊達氏に帰順した名門を主とした)の首席として角田に要害(館)を構え、代を重ねるごとに新田を開き、知行は2万1千石に達した[15]。この家系は角田石川家と呼ばれる。
明治以降
編集幕末維新期の当主は邦光。維新後には士族に列した。明治17年(1884年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『爵位発行順序』所収の『華族令』案の内規(明治11年・12年ごろ作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年ごろ作成)では旧万石以上陪臣が男爵に含まれており、石川家も男爵候補に挙げられているが、最終的な『叙爵内規』では旧万石以上陪臣は授爵対象外となったため、士族のままだった[2]。
明治15年・16年ごろ作成と思われる『三条家文書』所収『旧藩壱万石以上家臣家産・職業・貧富取調書』は、石川邦光について、旧禄高2万3000石余、所有財産は空欄、職業欄は「北海道開拓に従事」とある。貧富景況は可と記している[2]。
邦光は角田町長を務め、華族への叙爵運動を大正時代まで続けたが、叙されることなく終わった[2]。邦光の子小膳も華族叙爵運動を行っていたが、華族になることはできなかった[16]。
一族・庶流の分立
編集『尊卑分脈』によれば、有光から義季の頃(鎌倉前期)に一族・庶流の分立が進み、石川荘内に地頭として配置された一族が城館を築いていった。しかし後代には一族間の結束は緩くなり、宗家と離れて周辺列強に属する者も出た。
主な陸奥石川氏の支族
大寺・蓬田・蒲田・赤坂・矢吹(屋葺)・奈目津(滑津)・中畑(中畠)[17]・坂地(坂路)・沢田・小高・河尻・矢沢・次鎌(須釜)・牧・高貫(竹貫[18])・沢井・相楽(相良)・塩田・大島・水野谷・板橋・古内・大館・大窪[19]など。
主要家臣・関連人物
編集
系図
編集- 実線は実子、点線は養子。括弧内は角田石川氏としての代数
清和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞純親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源経基 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
満仲 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼親 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼遠1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仲重 | 石川有光2 | 家弘 | 有宜 | 矢吹有遠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大寺光祐 | 泉光平 | 元光3 | 矢吹光孚 | 奈目津光房 | 赤坂光度 | 成田光助 | 吉田有祐 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光忠 | 光義4 | 季康 | 政光 | 忠重 | 義基 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義季5 | 義全 | 光治 | 全重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基光6 | 川尻光堯 | 小川光信 | 治曲 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松田重勝 | 広季7 | 季光 | 光家 | 泰師 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光貞8 | 八郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光長9 | 八田長英 | 宇野貞徳 | 貞斉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元盛10 | 伊賀光春 | 光助 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
盛義11 | 白髭光好 | 義助 | 義衡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家光12 | 家隆 | 時光13 | 義尊 | 板橋光行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞光14 | 義光 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
詮持15 | 大館光春 | 光俊 | 面川光時 | 中畠光定 (中畑光定) | 光久 | 師宜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
持朝 | 満持16 | 光輝 | 持綱 | 持弘 | 川尻持重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
満朝17 | 板橋平好 | 朝常 | 光植 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義光18 | 光宗 | 盛光 | 義基 | 光昌 | 光準 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親家 | 大森茂好 | 持光19 | 光胤 | 白髪光徳 | 光国 | 光具 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗良 | 宗光20 | 小平光則 | 基鎮 | 光保 | 沢井光之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成光21 | 上舘成次 | 隆光 | 福原宗充 | 宗弘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尚光22 | 舎光 | 信光 | 親孚 | 光郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尚英 | 稙光23 | 朝光 | 隆能 | 小川隆直 | 由省 | 宗満 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
晴光24 | 光暉 | 竹貫角伝 | 光従 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭光25(1)[20] | 泉光専 | 近内光広 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義宗26(2) | 久五郎 | 小川隆尚 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗敬27(3) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗弘28(4) | 白石宗信 | 白石貞弘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗恒29(5)[21] | 村弘30(6) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
村満31(7) | 小梁川盛明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
村俊32(8) | 俊満 | 黒沢俊秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
俊明 | 村文33(9) | 純晴 | 通忠 | 文好 | 伊達村常 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
村任34(10) | 塩森直好 | 任敏 | 任亮 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光尚35(11) | 宗光36(12) | 明包 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義光37(13) | 古内実広 | 光煕 | 光訓 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
邦光38(14) | 田村邦栄 | 俊在 | 田村崇顕 | 光親 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小膳39(15) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(以降省略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 仙台藩御連枝である一門の他家が伊達姓を賜るなか首席(筆頭)の角田石川家がそれを名乗らなかったのは、陸奥石川氏が源氏の名門で元々伊達氏より格が高かったためである。
- ^ a b c d 松田敬之 2015, p. 91.
- ^ 小豆畑毅『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 小豆畑毅『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 小豆畑毅『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 「広報いしかわ[1]」1998年11月
- ^ 古殿町『古殿町史』「中世の古殿[2]」
- ^ 『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 古殿町『古殿町史』「中世の古殿[3]」
- ^ 古殿町『古殿町史』「中世の古殿[4]」
- ^ 『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 『陸奥国の中世石川氏』(岩田書院、2017年)
- ^ 『姓氏家系大辞典』(角川書店)の記述。井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年、15頁に記載
- ^ 松田敬之 2015, p. 92.
- ^ 有光の子の九郎光幹(詮持の弟光定の子とする説もある)を祖とする(『白河古事考』)。元・プロ野球選手の中畑清は光幹の系統(母系の血筋で、父系は白河結城氏)の国神城主中畑晴辰(たつとき)の後裔とする(広瀬蒙斎『白河風土記』)。
- ^ 読みはタカヌキである。
- ^ 常陸佐竹氏重臣。一部は江戸期に秋田藩(久保田藩)へ同行。一族出身の著名人に大窪詩仏。また、幕末の角田石川家家臣にも大窪姓が見られる。
- ^ 伊達晴宗の四男。晴光の婿養子。
- ^ 岩出山伊達宗敏の子。母は石川宗敬の娘。
参考文献
編集- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724。