承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に対して起こした、貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争[2]。鎌倉時代初期の幕府と貴族政権や治天の間に存在した緊張・融和などの諸関係がもたらす政治史の一つの帰結であったとされる[2]。争いの呼称は承久の変、または承久合戦ともいう[3]。
承久の乱 | |
---|---|
「瀬田の唐橋」朝廷にとって宇治川とともに瀬田川は鎌倉幕府軍に対する防衛の要衝で、現在の滋賀県大津市の瀬田一帯も戦場となった[1]。 | |
戦争:承久の乱 | |
年月日:(旧暦)承久3年6月 (ユリウス暦)1221年6月 | |
場所:平安京周辺、北陸道、東山道、東海道 | |
結果:鎌倉幕府の勝利 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 | 朝廷 |
指導者・指揮官 | |
北条義時 北条泰時 北条時房 北条朝時 武田信光 三浦義村 |
後鳥羽上皇 順徳上皇 藤原秀康 三浦胤義 大内惟信 山田重忠 |
戦力 | |
約190,000(吾妻鏡) | 約19,000(諸説あり) |
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いである。鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から3代将軍実朝までの3人は清和天皇の血を引く源氏将軍であり、朝廷にとって身内ともいえ、この間は武力行使には至らなかった。しかし、2代将軍頼家に続き3代将軍実朝も暗殺されて鎌倉から源氏将軍が途絶えると、鎌倉幕府は朝廷から形だけの4代将軍を迎え入れ、実際は将軍の補佐役である執権の北条義時が幕府の実権を握るようになった。これにより後鳥羽上皇との関係は悪化していき、2年後、上皇は義時追討の院宣を発布し挙兵したが幕府軍に敗北し隠岐に配流された[4]。以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになった。
なお、承久の乱の150年程前の11世紀後半、鎌倉に源氏の守り神の神社として創建され、それ以来、鎌倉武士の守護神となった鶴岡八幡宮には摂末社の今宮があり、承久の乱で敗者となった後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の3人が祀られている[5]。
概要
編集平安時代末期の保元の乱や平治の乱といった朝廷の内部抗争などに端を発する貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立したが、東日本を勢力下においた鎌倉幕府と、西日本の支配を保った朝廷による2頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていったが、源氏将軍が鎌倉幕府を率いている間は挙兵とはならなかった。しかし、鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝が病死し、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺されて源氏将軍が断絶。実朝が暗殺された1219年以降は北条氏が執権職にもかかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至り、朝廷は武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、その2年後に承久の乱が勃発した。
背景
編集治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝を武家の棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心として諸国に守護、地頭を設置して警察権を掌握していた。一方で西国への支配は充分ではなく、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。
後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であった。それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を図った。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。
承久元年(1219年)1月、幕府将軍の源実朝が甥の公暁に暗殺された[注 1]。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は実朝の母である北条政子が代行し、執権である弟の北条義時がこれを補佐することとなった。また、新たな京都守護として義時の妻の兄の伊賀光季と、幕府の宿老大江広元の嫡男かつ義時の娘婿で源通親の猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣した。
幕府は新しい鎌倉殿として、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)か頼仁親王(冷泉宮)を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の北条時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。ただし後鳥羽上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示した。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残った。ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝が生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎え入れを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年(1216年)の9月に実朝が大江広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)を、然るべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である[注 2]。また『愚管抄』によれば建保6年(1218年)2月に政子が病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣した際に、京で後鳥羽上皇の乳母の卿二位(藤原兼子)と対面したが、その際に実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを政子と卿二位が相談し、卿二位は養育していた頼仁親王を推して、2人の間で約束が交わされたという。
同年7月、大内守護の源頼茂(源頼政の孫)が後鳥羽上皇の命によって在京武士に攻められ、内裏の仁寿殿に籠って自害するという事件が起きた。理由は『吾妻鏡』では頼茂が後鳥羽上皇の意に背いたためとし、『愚管抄』『保暦間記』などによると頼茂が将軍職に就くことを企てたため、在京武士たちがそれを後鳥羽に訴え、後鳥羽は頼茂を召喚したが応じなかったため追討の院宣が発せられたとされている。幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然で、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためとする説もあり、そのためか事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている[注 3]。また『愚管抄』には頼茂と藤原忠綱の間に怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍にしようと画策したため、頼茂誅殺の翌8月に後鳥羽上皇によって解官・所領没収されており、その赦免を願っていたのが卿二位だったと記されている。そのことから、卿二位の推す頼仁親王の将軍就任が後鳥羽上皇によって拒絶され、卿二位の政敵西園寺公経の外孫三寅が有力な将軍候補となったため、卿二位が何らかの妨害を企み発覚したのが頼茂謀反の真相で、後鳥羽上皇は在京武士の訴えで頼茂捕縛を試みたが召喚に応じず討伐に至ったとして、承久の乱に至る公武対立の図式ではなく後鳥羽院政下における権力闘争の一コマとして位置付ける説もある[9][10]。
頼茂が自害する際に火を放ったことで大内裏が焼失するという事件が発生し、大内裏焼失をうけて後鳥羽上皇は幕府を含む各方面に再建のための賦課を求めた。しかし公家・寺社・武士のいずれも非協力的であり、後鳥羽上皇は幕府に対する不満を募らせた。朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、承久2年(1220年)に焼失した宮城の造営を行うなかで後鳥羽上皇は挙兵の態度を固めたとされるが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿たちも反対または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)4月20日に彗星の出現を理由に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し[11]、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。さらに、寺社に密かに命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。
上皇挙兵
編集承久3年(1221年)4月下旬、後鳥羽上皇は城南寺の仏事守護[注 4]を口実に諸国の兵を集め、28日には北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1000余騎が後鳥羽の院御所である高陽院に集まった。その中には有力御家人の尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱、検非違使判官三浦胤義も含まれていた。5月14日、幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は京方に加わり、同じく京都守護の伊賀光季は招聘を拒んだ。同時に親幕派の大納言西園寺公経・実氏父子は幽閉された。翌15日に京方の胤義や藤原秀康、近畿やその近国6か国[注 5]守護大内惟信ら800余騎が光季邸を襲撃、光季はわずかな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。
同日に後鳥羽上皇は「五畿七道」の御家人、守護、地頭ら不特定の人々を対象に義時追討の官宣旨を発した。また三浦氏、小山氏、武田氏などの有力御家人に対して、義時追討の院宣も発している[注 6]。同時に備えとして、近国の関所を固めさせた。京方の士気は上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的だった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。
京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士は味方すると確信していた。前述の通り、後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の胤義が「(実朝の後継の)日本総追捕使に任じられるなら味方する」と約束しており、期待されていた。
鎌倉へは、伊賀光季の下人と西園寺公経の家司三善長衡から上皇挙兵の報が19日[15]に届けられ、大江親広の寝返り、西園寺父子の幽閉、光季の討死が伝えられた。京方の使者である押松はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられた。胤義からの密書を受けた義村は使者を追い返し、密書を幕府に届けた。
上皇挙兵の報に鎌倉の武士は動揺したが、北条政子は上皇の挙兵は鎌倉幕府全体への攻撃であるとして御家人達に鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで、動揺は鎮まった。
『承久記』には、政子が館の庭先で御家人たちを前に演説を行ったことで彼らの心が動かされ、北条義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功したという記述がある。一方、『吾妻鏡』では、御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記されている。
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。 — 『吾妻鏡』承久三年辛巳五月十九日壬寅条(原文は変体漢文)
もっとも、鎌倉の武士はこの演説に心打たれて安易に鎌倉方についたとみるべきではなく、むしろ打算的であったとされる。慈光寺本『承久記』には、政子の演説に心動かされた甲斐国の武田信光が出陣後に隣国の小笠原長清に対して「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく」のが武士の習わしであると公言し、北条時房から恩賞の約束をする書状が届けられると積極的に進軍を始める姿が描かれている。鎌倉の武士はどちらに味方をすれば勝てるかという状況分析や、一族内の利害関係(勝利すれば、敵方についた一族の所領を奪うことが出来る)なども検討した上で、その多くが損得勘定に基づいて鎌倉への支持を決めたのであった[16]。
乱の経過
編集5月19日の北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議では、箱根・足柄で徹底抗戦をする迎撃論が有力であったが、広元は逡巡して幕府方の団結がくずれる恐れがあるという理由で即時京への積極的な出撃を主張した。政子も広元に賛成して武蔵国の軍勢が到着次第、上洛するように命じた。ところが武蔵国の軍勢を待っているうちに、21日に院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきて、西園寺父子の拘禁と伊賀光季の自害のくわしい様子を伝えると再度慎重論が盛り返してきた。広元は「武蔵勢を待つのも上策ではない。泰時一人でも出発されたら、他の勇士達は続々ついて行くでしょう」と述べ、政子が病床で寝込んでいた三善善信に意見を求めると広元と同意見だったので、泰時は早速鎌倉を発向した。従う者は子息時氏以下18騎[注 7]に過ぎなかった(『承久記』によれば慎重論者は他ならぬ泰時であったとされる。上横手雅敬は泰時の主張が通された場合、幕府側の団結が崩れたことはあり得た。この時の泰時の態度は彼の生涯における最大の過誤であったとしている)。
5月22日、東海道軍の第一陣が鎌倉を出発、25日には東海道軍10万余騎、東山道軍5万余騎、北陸道4万余騎の編成がなされた[15]。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、上皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「君の輿には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。
義時は捕らえていた上皇の使者押松に宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返す。鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。一方、幕府方の東海道軍・東山道軍は尾張国一宮で合流し軍議を開いた。
6月5日、甲斐源氏の武田信光と小笠原長清が率いる東山道軍5万余騎は、大井戸渡に布陣する大内惟信が率いる京方2000騎を撃破した[注 8]。藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。惟信はそのまま行方をくらました。6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。
北条朝時率いる北陸道軍4万騎も5月30日には宮崎定範が守る蒲原の難関を突破、同日夕には宮崎城も落として越中国に乱入[19]、『吾妻鏡』によると6月8日には越中国般若野荘一帯での戦いを制して林次郎・石黒三郎[注 9]ら京方の武将を投降せしめた。一方、『承久記』は砺波山を抜ける黒坂と志保の二つの道で戦闘が繰り広げられたとし[注 10]、この砺波山での戦闘[注 11]も制した北陸道軍は加賀国を経て京をめざした[注 12]。
当初見込んでいた鎌倉方の離反がなく、予想外の防御戦を強いられた京方は、西国の武士に対する公権力による動員の発動に追い込まれた。実際の兵力の動員状況からは京都周辺地域からの兵力の確保に成功していたものの、鎌倉方の進撃が予想以上に早く(鎌倉方の出陣から京までの進軍に22日間)、西国の武士の中には上皇の命を受けて京方に参戦するため上洛する前に勝敗が決してしまった事例もあったとみられている[16]。
美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が災いしたか、比叡山延暦寺は衆徒の微力では東士の強威を防ぎ難いとしてこれを拒絶した。やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家の坊門忠信、一条信能、高倉範茂や僧の尊長も大将軍として参陣した。
6月13日、京方と幕府軍は衝突した。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功した[注 13]。その後、京方は潰走し、大江親広は逢坂関の東の関寺付近で行方をくらました。
『吾妻鏡』によると、15日に藤原秀康、三浦胤義らが四辻殿に参上して宇治・瀬田での敗戦と鎌倉武士が大挙入京する形勢であることを奏聞した。一方、慈光寺本『承久記』によると、14日夜には敗走した京方の三浦胤義、山田重忠らは最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、後鳥羽上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。幕府軍は京へ雪崩れ込み、寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。
15日に後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして北条義時の追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。後鳥羽上皇に見捨てられた三浦胤義は東寺に立て篭もって抵抗し、兄の三浦義村の軍勢に決戦を挑んで、奮戦し自害した。山田重忠も幕府軍と激しく戦った後、落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害。藤原秀康は逃亡し、10月に河内国において幕府軍の捕虜となった。
戦後処理
編集7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降)は廃され、後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の皇子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。
後鳥羽上皇の下にあった膨大な荘園群は没収され、新たに治天として後堀河天皇の院政を執ることになった行助入道親王(後高倉院)に与えられた。ただしその支配権は幕府が握っていた。
討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪または謹慎処分となった。また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、加藤光員ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。大江親広は逢坂関の東の関寺付近で行方知れずとなり、そこで死去したとも、また父広元の嘆願もあり赦免されて所領の出羽国寒河江荘に下って没したとも言われる[注 14]。
乱後、院にも動員権があった在京御家人の支配は、すべて六波羅探題に委ねられ、国家の軍事力がほぼ完全に幕府の手に帰することになったことは重要である[21]。また没収された三千余カ所に及ぶ京方所領の多くには東国御家人が地頭として入部することになった[21]。
事件後
編集承久の乱後も院政が存続し、幕府がその下で諸国守護権を行使した点では変わりはない[22]。これに対し平安後期以来の院政の終滅として承久の乱の意義を高く評価する研究者も存在する[23]。
乱によって、具体的に何が変わったかについては、北条氏嫡流が朝廷を存続させながら、皇位継承者の決定権、摂関以下公卿の人事権を掌握することになったのである[24][注 15]。幕府は朝廷を監視して皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大漏らさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻された後もその実質的な所有権は幕府に帰属した。承久の乱には鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったとする指摘もある[27]。
鎌倉幕府の御家人で源氏一門(御門葉)の重鎮だった大内惟信は敵方である後鳥羽上皇に味方して敗北後、逃亡して10年近く潜伏を続けたが寛喜2年(1230年)に捕らえられて西国へ配流となり、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏と大内氏は没落することになる。
処刑された院近臣の多くは後鳥羽上皇の支持を受けて家格の上昇を目指した家々だったが、乱によって逆に衰退あるいは没落することとなり、院近臣層にも変化が見られるようになった。これは父が初めて大臣となり、自身の昇進も類似した経歴をたどっていた反対派の西園寺公経と挙兵派の坊門忠信のそれぞれの後裔の浮沈が、この乱を契機に大きく分かれることが物語っている。
また西国で京方の公家や武士から多くの没収地を得て、これを戦功があった御家人に大量に給付した。このため多くの東国御家人が西国に所領を獲得し、幕府の支配が畿内や西国にも強く及ぶようになる。
承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、この事件を「先代未聞の下剋上」として捉えた。この時の朝廷には既に国家を統治する力がなかったとし、「王法すでに尽ぬ」と解釈した。日蓮は実質的な武家の指導者である鎌倉の北条得宗家こそが真の「日本の国主(国王)」であると考えていた。このため数々の弾圧にもかかわらず国家諌暁の対象を鎌倉幕府にのみ行い、京都や朝廷に対する自己の教えの布教には消極的あるいは否定的であったとする見方がある[28]。
承久の乱は武士が貴族階級を打倒する一種の革命とみなす意見もあった。しかし実際には民衆から見た支配階級が公家から武家へと移り変わる一つの画期とされ、承久の乱後も同じ支配者階級たる公武の協調が図られた。
参戦武将
編集幕府軍
朝廷軍
承久の「乱」と「変」
編集安田元久[29]によると、本事件についての呼称は、鎌倉幕府側の文献『吾妻鏡』では「承久兵乱」「承久逆乱」「承久三年合戦」「承久三年大乱」といった表記を用いた。南北朝時代には、北朝方の武士の手によると推定される『保暦間記』では「承久ノ乱」「承久ノ事」、南朝方の北畠親房『神皇正統記』でも「承久の乱」と表記された。こうして、大正中期まで「承久の乱」の表記が主流となり、次いで「承久の役」が使われることもあった。
江戸時代になると尊王論に基づく『大日本史』が「承久の難」と表記し、後鳥羽上皇を逆臣・北条義時の被害者として書く主張が生まれた。『大日本史』編纂に携わった安積澹泊は、『大日本史賛藪』で「乱」「難」と共に、初めて「承久の変」表記を用いた。
さらに大正時代になると、皇国史観から「承久の変」の表記を積極的に使うようになり、国定教科書でも大正9年(1920年)版『尋常小学国史』から「変」表記になった。これは、上皇が起こしたのだから「反乱」ではないという思想からである。その後も学界では「乱」「役」「合戦」表記も使われたが、昭和10年代後半、太平洋戦争期になると、専門書でも「承久の変」表記にほぼ統一されるに至った。しかし、「変」は主に不意の政治的・社会的事件に、「乱」は主に武力を伴う事件に使われていることから、安田は戦乱の発生した本事件を「乱」と呼称すべきことは疑問の余地もないとしている。
第二次世界大戦後は、吉川弘文館『国史大辞典』他で「乱」表記が主流になっている。しかし、田中卓の『教養日本史』を始め、明成社の高等学校用教科書『最新日本史』、新しい歴史教科書をつくる会の中学校用教科書『新しい歴史教科書』など、保守派には「変」の表記も一部に見られる。
上皇側の承久の乱の目的
編集今日において、承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒するために挙兵したとする見方が通説[注 16]となっているが、実はこの見方にはいくつもの問題がある。
- 後鳥羽上皇が北条義時を討伐するために出された院宣および続いて朝廷から出された官宣旨において示された討伐の対象がいずれも北条義時個人であること。
- その討伐理由として次期将軍である九条三寅(後の頼経)を軽んじていること、を挙げているが、院宣には討伐の前に鎌倉幕府内部で北条義時の幕政「奉行」の停止(政治的引退)を説得させようとしていること(もし討幕目的であれば三寅またはその後見人である北条政子の追討を命じる文言が含まれるはずである)。
- それらの文書が送付された対象の中に鎌倉幕府の機関の末端である守護・地頭や御家人が含まれていること、
- 京都守護である大江親広や在京御家人らがこの命令を奉じて鎌倉の北条義時討伐に向かっていること。
など、鎌倉幕府の討幕を目的とするのであれば矛盾する内容になっている。そのため近年の研究者の間では承久の乱は討幕目的ではなく、北条義時を幕府から排除する目的であったとする説が出されている[31]。
京都府京都文化博物館学芸員で中世の公武関係史が専門の長村祥知の研究によれば、この「承久の乱」が討幕目的と認識されるようになった背景には、北条義時を実質上の首班とする鎌倉幕府が「後鳥羽上皇が討幕を目的として兵を挙げた」とみなしたからである。このことがきっかけとなり、承久の乱が「京都対坂東」の戦いであると称されるようになり、幕府は御家人を招集するようになった。その後、その影響を受けた鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や『承久記』の一部の本がこの鎌倉幕府側から見た視点に基づいて「承久の乱」を描いた。さらに『太平記』や『梅松論』などもこれを受け継ぐ形で承久の乱に触れるという形で広まりを見せた。
これに対して『百錬抄』『皇代暦』など京都で編纂された歴史書の中には、院宣や官宣旨の内容を受けて北条義時討伐の戦いとして承久の乱を描いた書が存在していたが、室町時代に入ると京都でも朝廷の事務方を担う外記のトップであった清原業忠および養子の宣賢が『御成敗式目』の注釈において『吾妻鏡』の解釈に基づいて「後鳥羽上皇の挙兵は「関東」・「武家」の「退治」が目的であった」とする解釈を行なった。
『吾妻鏡』および清原氏による『御成敗式目』の注釈は戦国時代に知識人の間で広く読まれており、承久の乱を討幕目的とする見方の一般化に大きな影響を与えた。こうして、14世紀から16世紀にかけて承久の乱が実在の文書から裏付けられる事件の実態から乖離した討幕事件として変容・再構成されたと考えられ、それがその後においても大きな影響を与えているとみられている。
また倒幕説を採用した場合、疑問として残されるのは、「何故、九条三寅(後の頼経)の鎌倉下向を後鳥羽上皇が認めたのか?」という点である。仲恭天皇の母九条立子は三寅の伯母であり、何事もなければ仲恭天皇の治世を祖父である後鳥羽上皇と外戚である九条家がこれを支え、九条家出身の将軍を擁した鎌倉幕府もその影響下に置かれるからである。つまり、後鳥羽上皇と彼を頂点とする「王家」は外戚政策を介して鎌倉幕府の包括に向かって進んでいたと言える[32]のに倒幕説はこの流れに矛盾することになり、この説明が求められることになる[注 17]。
一方で、承久の乱が起きた当時は、“鎌倉幕府”というような武家政権を表現する言葉が日本にはまだなく、討伐の対象としては個人名を上げるのが自然である。平安末期の以仁王の令旨においても討伐対象としては平清盛個人の名前が挙げられており、鎌倉末期の後醍醐天皇の綸旨においても北条高時個人の名前が討伐対象として挙げられている。だからといって以仁王や後醍醐天皇が清盛や高時の排除のみを目指し、平氏政権や鎌倉幕府の打倒を目指していなかったとは考えられない。また幼児の三寅や女性の政子は討伐対象としては不適当であり、義時が当時の幕府の最高権力者であることは明らかなため(後醍醐天皇の綸旨にも、実権の全くなかった当時の幕府の将軍守邦親王の名は成人男性であるにもかかわらず挙げられていない)、北条義時の打倒=倒幕と考えるのが自然だとする反論もある[34][35]。
さらに上皇軍の主力は西国守護を中心とする在京御家人で、なおかつ戦略として三浦義村など幕府内部の有力御家人の寝返りが勝利には不可欠だったため、幕府廃絶などを公言することはできなかったとする推測もある[14]。また、慈円は西園寺公経(三寅の外祖父)に宛てた書状で「実は後鳥羽院は大変にご立腹である。三寅の下向を本心では納得せず反対していたのを、自分がいろいろと工作して漸く下向に漕ぎつけた。やはり院は自分が武士を思うようにできないのは、不本意だと思っておられるようだ」(『門葉記』)と述べており、上皇は三寅の鎌倉下向にも反対だったが慈円の説得で渋々同意したものであって、慈円は後鳥羽の挙兵の動機は将軍擁立問題に対する不満にあると認識している[10]。さらに朝廷から見た幕府は、諸国及び荘園・国衙領の守護を奉行する守護人・地頭を将軍が家人として統率する体制であり、将軍が守護人・地頭を統率できないのであれば治天の君が直接統率するという構想を後鳥羽は抱いたのではないかとし、守護人・地頭は院御所に伺候すべきで鎌倉に伺候すべきではないから守護人・地頭と鎌倉との関係を断つべきだが、三寅の父の九条道家は皇太子・懐成親王(仲恭天皇)の叔父で東宮傅であり、懐成が皇位に付けば摂政に任ぜられる人物のため三寅を傷つけるべきではなく、三寅を推戴して幕府の実権を掌握している義時が追討対象となったとする見解もある[36]。
史料
編集歴史書
編集軍記物
編集歴史物語
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。しかし上横手雅敬は、後鳥羽は武士の臣従を前提とした公武融和路線を進めており、官打ち説は取るに足らぬ俗説とし、幕府と後鳥羽間で、建保6年(1218年)の政子上洛時に、後鳥羽の皇子を実朝の養子とし、将来の将軍として東下させる密約が成立したとした。近年では、後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の官位を進め優遇していたとの見方が強い[6]。
- ^ この説の弱点として、実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことに説明がつかなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は、現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名して将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図るさらなる保障(河内はこれを幕府機構および北条氏以下主要御家人の鎌倉から京都への移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時に、皇族将軍のみならず摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側である。河内は、後鳥羽上皇が必ずしも倒幕を目指していた訳ではなかったため三寅の鎌倉下向を容認したのであり、承久の乱における最終目的も「鎌倉における現行の幕府体制」の打倒であって、後鳥羽上皇影響下の京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかったと説く[7]。また、これらとは別に白根靖大は、後鳥羽上皇は治天としての政治力を背景として家格上昇を望む中級公家層を自己の支配下に置き、さらに後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた(公家社会的な見方からすれば軍事を家職とする新興公家である)鎌倉将軍家=源氏将軍への影響力強化を図ったとする。だが、後鳥羽上皇が将軍後継問題において、北条氏(公家社会の認識では、鎌倉将軍家の家司筆頭で諸大夫・名家級の中級公家に過ぎないとみなされる者)によってその介入を果たせなかったことにより、北条氏の排除を考えるようになったとする。
- ^ 『百錬抄』承久元年7月19日条を根拠とするが、同じ『百錬抄』の承久2年10月18日条に「今日、最勝四天王院上棟」とあり、通常は事始から上棟まで2~3か月であるため、承久2年(1220年)7月19日に事始があったとすれば無理なく理解でき、最勝四天王院の解体・移築は承久2年の7月から10月にかけてと見るべきだとする指摘もある[8]。
- ^ 慈光寺本『承久記』による。古活字本『承久記』では流鏑馬揃えとする。
- ^ 伊勢、伊賀、越前、美濃、丹波、摂津。
- ^ 慈光寺本『承久記』には武田氏、小笠原氏、小山氏、宇都宮氏、長沼氏、足利氏、三浦氏及び北条時房に対して発したとする。他の『承久記』諸本には武田氏、小笠原氏、千葉氏、小山氏、宇都宮氏、三浦氏、葛西氏に対して出されたとする。慈光寺本は成立が一番古い上に『承久記』の中で唯一義時追討院宣の本文を採録されていること、その内容が現存する後鳥羽上皇の他の(義時追討以外の)院宣に類似の形式が見られることから、慈光寺本に記された義時追討の院宣は実際に発給されたものの引き写しであった可能性が高いとする説がある[12]。一方で実物が現存する義時追討の官宣旨に対して、同時代史料で後鳥羽が義時追討の院宣を発給したと記すものがない上に、義時追討の官宣旨と院宣が両方出されたと記す史料は軍記物を含めて一点もなく、慈光寺本『承久記』は院宣にのみ触れて、実在する官宣旨には触れていない(一方で前田家本『承久記』は現存する官宣旨のみを引用している)ことから、慈光寺本『承久記』は実在する官宣旨から院宣を創作したとする説もある[13][14]。
- ^ 『吾妻鏡』に記載される18騎は、泰時、時氏、北条有時(義時四男)、北条実義(義時六男)、尾藤景綱(左近将監)、関実忠(判官代)、平盛綱(兵衛尉)、南条時員、安東藤内(左衛門尉)、伊具盛重、武村次郎(兵衛尉)、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直、横溝資重、安藤左近将監、塩河中務丞、内島忠俊。
- ^ 『吾妻鏡』では、このほか小山朝長、結城朝光も大将軍に任じられたとしている[17]。しかし、『承久記』ではこの二人の記載はなく、遠山景朝、諏訪信重、伊具右馬允入道が軍の検見役として加わっている[17]。実際に東山道軍に加わった武士を整理すると、出身地の判明する御家人は、一人を除いて全てが甲斐・信濃の出身者である[18]。『甲府市史』では、このことから、小山朝長・結城朝光が大将軍になっていたとしても軍事指揮官というよりも、軍の監視役のような役割をしていたものと推測している[17]。なお、乱の論功行賞で甲斐源氏の一族は畿内・西国の所領を与えられており、承久の乱を契機に甲斐源氏の一族は西国へ進出している。
- ^ 越中中世史研究者の久保尚文は、「宮崎求馬氏蔵文書」所収の石黒系図に見える石黒左衛門入道浄覚こそ石黒三郎その人であろうとする。なお、その息子左衛門三郎俊綱は「親に先立って死んだ(先親父死去)」と記されるが、恐らく承久の乱で戦死したのではないかと推測される[20]。
- ^ 『吾妻鏡』等で8日に越中の般若野に着いたとされる朝時軍が翌明け方に砺波山に攻め入った(「しきぶのせい未だあけがたの事なるに、うんがのせいをもてをしよせ時をどつとつくりければ」云々)とする『承久軍物語』や夜通しかけて山を越えた(「よをこめて、いがらしとうをさきとして、山をこえけれハ」云々)とする『承久兵乱記』の記載から、砺波山の戦いを6月9日とする説がある[要出典]
- ^ この戦いで京方の糟屋有久・有長、仁科盛遠、宮崎定範らが戦死しており、激戦であったことが裏付けられる。
- ^ ただし義時は『大日本史料』所引の現地指揮官(市河六郎刑部)宛て御教書(『市河文書』所収)で「たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」と、山狩りをして一人残らず召し捕るよう命じており、決して入京を急ぐことがないよう念押しもしている。そのためか、北陸道軍が入京を果たしたのは、慈光寺本『承久記』では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日と、いずれにしても戦いの帰趨が決した後となっている。
- ^ ただし幕府方のこうむった損害も甚大で、この戦闘において桃井義助、伊佐為宗、熊谷直国、津々見忠季、庄忠家、安保実光、関政綱といった諸将が犠牲となっている。
- ^ その他京方では、藤原朝俊や平保教らの廷臣、多田基綱、佐々木高重、大内惟忠、八田知尚、小野成時らの武将が各地で戦死。山田重継、佐々木勢多伽丸も戦後処刑されている。また僧尊長は、この後6年に及ぶ潜伏の後、幕府方に発見され自害を図り死去している。
- ^ ただし、鎌倉幕府と言えども個々の「皇位」継承には関与できても、治天の君が保持する「皇統」継承の決定には関与できなかったという見方もある。松薗斉は、鎌倉幕府は後白河法皇が定めて源義仲の軍事的要求に対しても変更を拒絶した高倉天皇の子孫に皇統を継承させる方針は維持し、非後鳥羽系の有力皇族(恐らくは宣陽門院覲子内親王か)の意見を聴取した上で即位したことのない守貞親王を治天の君に担ぐ構想を立てたのではないかとしている[25]。鎌倉幕府が皇統の制御を行い得なかったことは鎌倉中期以降に治天の君による皇統決定に異議が出された結果として両統迭立が図られ、その度に鎌倉幕府が仲介に入らざるを得なくなったことからも分かる[26]。
- ^ 例えば『新版 日本史辞典』[30]には「後鳥羽上皇が鎌倉幕府をうつためにおこした兵乱」と定義されている。
- ^ 河内祥輔のように後鳥羽上皇に摂家将軍を廃止する意思があり、それが慈円の『愚管抄』における後鳥羽批判につながっているとする説もある[33]が、河内も承久の乱を倒幕説ではなく親王将軍への交代を目的とする見地に立っているため、倒幕説の観点からの反論ではない。
出典
編集- ^ 「瀬田の唐橋」歴史的建造物 滋賀県 大津市 公益社団法人 日本観光振興協会
- ^ a b 松島周一「承久の乱はなぜ起こったか」(峰岸純夫・池上裕子編『新視点 日本の歴史4 中世編』(新人物往来社、1993年)
- ^ “承久の変(じょうきゅうのへん)とは”. 2020年7月6日閲覧。
- ^ 上横手雅敬・元木奏雄・勝山清次『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』(中央公論新社、2002年)210頁
- ^ 鶴岡八幡宮 公式サイト 境内巡り 8.今宮 写真と解説。鎌倉の神社 小事典 かまくら春秋社 吉田茂穂。鶴岡八幡宮「摂末社」も参照のこと。
- ^ a b 「後鳥羽上皇は倒幕を目指さなかった」承久の乱800年 新解釈や資料発見『読売新聞』朝刊2021年5月13日(文化面)
- ^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年、P285-289・301.
- ^ 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年
- ^ 佐々木紀一「源頼茂謀反の政治的背景について」(『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第31号、2004年)
- ^ a b 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年
- ^ 五味文彦「京・鎌倉の王権」(五味文彦編『京・鎌倉の王権』吉川弘文館、2003年)80頁
- ^ 長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨-後鳥羽院宣と伝奏葉室光親-」(初出:『日本歴史』744号、2010年 所収:『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285)
- ^ 西田知広「書評 長村祥知著『中世公武関係と承久の乱』」『日本史研究』651、2016年
- ^ a b 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年
- ^ a b 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 371.
- ^ a b 長村祥知「承久の乱にみる政治構造」『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
- ^ a b c 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 373.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, pp. 372–373.
- ^ 『大日本史料』第4編第16冊65-71頁
- ^ 久保尚文「巴を支えた石黒氏の末路」『大山の歴史と民俗』26号、2023年、p.7
- ^ a b 野口実「承久の乱」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社、2009年)
- ^ 上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」(『岩波講座 日本歴史5 中世1』岩波書店、1975年)57頁
- ^ 石井進「院政時代」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』2 東京大学出版会、1970年)220頁
- ^ 貫達人「鎌倉幕府成立時期論」(『青山史学』創刊号、1970年)
- ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P84-99.
- ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P54-59.
- ^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』(新人物往来社、2007年)
- ^ 坂井法曄 著「日蓮と鎌倉政権ノート」、佐藤博信 編『中世東国の社会構造 中世東国論』 下、岩田書院、2007年。ISBN 978-4-87294-473-0。
- ^ 安田元久「歴史事象の呼称について : 「承久の乱」「承久の変」を中心に」『学習院大学文学部研究年報』第30号、学習院大学、1983年、p145-167、ISSN 04331117、NAID 110007563533。
- ^ 朝尾直弘編『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)ISBN 4-04-032000-X
- ^ 長村、2015年、pp.110-114、p.131
- ^ 曽我部愛「後宮からみた後鳥羽王家の構造」(初出:野口実 編『承久の乱の構造と展開-転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P175-176.
- ^ 河内祥輔「朝廷再建運動と朝廷・幕府体制の成立」所収:『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02863-9)
- ^ 本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント』文春新書、2019年
- ^ 鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』中公新書、2021年
- ^ 近藤成一『執権 北条義時 危機を乗り越え武家政治の礎を築く』三笠書房知的生きかた文庫、2021年
参考文献
編集- 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1958年
- 村上光徳「慈光寺本承久記の成立年代考」『駒澤國文』1号、1959年
- 上横手雅敬「承久の乱」『岩波講座 日本歴史5 中世1』1962年
- 『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』中公文庫、1974年、ISBN 412200070X
- 安田元久「歴史事象の呼称について」『学習院大学文学部紀要』30号、1983年
- 渡辺保『北条政子』吉川弘文館〈人物叢書〉、1985年。ISBN 4642050027。
- 別冊歴史読本『後鳥羽上皇 野望!承久の乱』新人物往来社、1990年
- 甲府市市史編さん委員会 編『甲府市史』 通史編 第一巻《原始・古代・中世》、甲府市役所、1991年4月20日。NDLJP:9540836。(要登録)
- 河内祥輔「日本中世の朝廷・幕府体制」『歴史評論』500号、1991年12月。/改題所収:河内祥輔「朝廷・幕府体制の諸相」『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年。ISBN 4642028633。
- 栃木孝惟、益田宗、日下力、久保田淳『保元物語;平治物語;承久記』岩波書店、1992年、ISBN 4002400433
- 須藤敬「慈光寺本『承久記』--一つの歴史叙述の試み」『日本文学』46巻7号、1997年
- 白根靖大「承久の乱の歴史的意義-公家社会の立場から-」『日本歴史』603号、1998年。/所収:白根靖大『中世の王朝社会と院政』吉川弘文館、2000年。ISBN 4642027874。
- 弓削繁『六代勝事記の成立と展開』風間書房 、2003年
- 関幸彦『北条政子 母が嘆きは浅からぬことに候』ミネルヴァ書房、2004年
- 野口実「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」『(京都女子大学宗教・文化研究所)研究紀要』第18巻、2005年
- 長村祥知「〈承久の乱〉像の変容-『承久記』の変容と討幕像の展開-」『文化史学』68号、2012年。/所収:長村祥知『中世公武関係と承久の乱』吉川弘文館、2015年。ISBN 978-4642029285。
- 長村祥知「『六代勝事記』の歴史思想--承久の乱と帝徳批判」『年報中世史研究』、中世史研究会、2006年。
- 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』〈中公新書〉2018年。ISBN 978-4121025173。
- 本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント』文春新書、2019年
- 松島周一「承久の乱はなぜ起こったか」(峰岸純夫・池上裕子編『新視点 日本の歴史4 中世編』(新人物往来社、1993年)
- 平岡豊「承久の乱における院方武士の動員についての概観」(『史学研究集録』9号、1984年)