鍋島直虎
鍋島 直虎(なべしま なおとら、安政3年2月9日(1856年3月15日) - 大正14年(1925年)10月30日)は、肥前小城藩の第11代(最後の)藩主。明治時代から大正時代にかけての政治家、華族(子爵)。肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男。母は側室・木村矩欽の娘。
鍋島直虎 なべしま なおとら | |
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生年月日 | 1856年3月15日 |
没年月日 | 1925年10月30日(69歳没) |
前職 | 外務省御用掛 |
称号 | 勲三等瑞宝章 |
配偶者 |
鍋島春子(正室) 鍋島貴子(継室) |
親族 |
伯父・伊達宗城(大蔵卿) 兄・鍋島直大(貴族院議員) 弟・鍋島直柔(貴族院議員) 義兄弟・大隈英麿(衆議院議員) 従兄・鍋島直彬(貴族院議員) 娘婿・毛利元良(貴族院議員) 甥・鍋島直縄(貴族院議員) 甥・細川護立(貴族院議員) 甥・堀田正恒(貴族院議員) |
在任期間 | 1890年7月10日 - 1925年7月10日 |
略歴
編集幼名は欽八郎。先代藩主の鍋島直亮に男児がなかったため、文久元年(1861年)9月にその婿養子となる。元治元年(1864年)、直亮の死去により跡を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与して秋田の戦いなどで武功を挙げ、その恩賞として明治2年(1869年)8月に5000両を与えられた。それより2か月前の6月には版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されている。
明治6年(1873年)7月、明治政府からイギリス留学を許可される。同年8月、実兄の鍋島直大や実弟の鍋島直柔と共にロンドンへ遊学する[1]。明治8年6月、2年間の留学予定であったものの、1年の延長を願い出ている。帰国後に外務省御用掛となった。
明治17年(1884年)7月8日、華族令施行により子爵を叙爵した[2]。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選し、5期連続で当選し1925年7月10日まで在任[3]。同年10月30日に死去した。享年70。法号は威徳院殿全機直雄大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。
家族
編集- 親族
栄典
編集脚注
編集- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、509頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』50頁。
- ^ “鍋島氏(肥前小城藩) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~”, 世界帝王辞典 2022年12月13日閲覧。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (小城)鍋島家初代 1884年 - 1925年 |
次代 鍋島直庸 |