小野光洪
昭和から平成初期の政治家、実業家
小野 光洪(おの みつひろ、1920年(大正9年)7月28日[1][2] - 2005年(平成17年)11月9日[3])は、昭和から平成初期の政治家、実業家。塩尻市長(第4代)。父は元衆議院議員の小野祐之[4]。
来歴
編集長野県東筑摩郡塩尻町生まれ。1937年(昭和12年)3月、旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を卒業し[2]、1941年(昭和16年)早稲田大学専門部商科を修了[1][2]。1946年(昭和21年)から小野石灰六名社を経営[要出典]、1960年(昭和35年)に信陽化学工業と改称し代表取締役となる[要出典]。1959年(昭和34年)4月から塩尻市議会議員を5期務め[2]、1963年(昭和38年)同副議長[1]、1967年(昭和42年)には同議長に就任[1]。
1978年(昭和53年)10月に塩尻市長に初当選し[2]、1990年(平成2年)に退任するまで3期務めた[1]。在任中は国鉄塩尻駅の移転事業や、長野自動車道塩尻IC、塩尻北IC開設に尽力した。それに伴って、塩尻ICに近接した林間工業団地を軸に、高度先端技術の拠点づくりを推進し、大門市街地活性化事業、高度情報ネットワークの形成や、塩尻駅を拠点とする広域アクセス道路の整備などの実績を上げた[5]。
栄典
編集脚注
編集参考文献
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