ユダヤ人問題の最終的解決

ユダヤ人問題の最終的解決(ユダヤじんもんだいのさいしゅうてきかいけつ、エントレーズング、: die Endlösung der Judenfrage: the Final Solution to the Jewish Question)とは、第二次世界大戦中、ヨーロッパにおけるユダヤ人に対して組織的にホロコースト(大量虐殺)を行うナチス・ドイツの計画のことを指す。

1942年2月26日に出したドイツの外交官マルティン・ルターへの手紙で、ラインハルト・ハイドリヒは「ユダヤ人問題の最終的解決 (Endlösung der Judenfrage)」の実行における行政上の援助をルターに求め、ヴァンゼー会議の決定を推進する。ヴァンゼー会議の記念館におけるこの手紙の写本と英語訳を参照。

概要

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翻訳によっては、「的」の字がないユダヤ人問題の最終解決と書かれる場合もある。この用語は、虐殺の推進を管理していた親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンにより作られた言い回しである。この表現には、ヨーロッパのユダヤ人の存在自体が「問題」であるというナチスの信条と姿勢を反映していた。

最終的解決の計画が完全に準備される1942年よりも前に、既に100万人に近いユダヤ人が大量殺害されていた。しかし、「死の収容所」とも呼ばれる絶滅収容所を建設し、ユダヤ人の大量殺害を工業的に行うことを本気で開始したのは、ヨーロッパに住む全てのユダヤ人を根絶させることを決定したとき以降であった。この決定は、1942年1月20日ベルリンのヴァンゼー(ヴァン湖)にある別荘でのヴァンゼー会議においてなされた。その会議では、「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定した、ナチスの高官の集団により行われた議論があった。この会議の記録と議事録は、戦争終結時に連合国によって完全な形で発見され、ニュルンベルク裁判で価値ある証拠として提出されることになる。

1942年春、それ以前に死の部隊や大量殺戮により既に数十万のユダヤ人が殺されていたが、ラインハルト作戦 (Operation Reinhard) によって、ユダヤ人の組織的な根絶が開始された。1943年10月6日ポーゼン会議におけるハインリヒ・ヒムラーの発言によって、初めて、帝国の集められたリーダーたちの前で「最終的解決」が実際に意味しているものが、簡潔で残忍な表現で説明された。

歴史学的な考察

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第二次世界大戦が始まる前の1939年1月30日の政権獲得6周年記念の式場、総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパでいずれ発生するホロコーストを予言するかのような発言を行った。これはヒトラーのユダヤ人絶滅計画の存在を、暗示していたとも解釈されている。

今日、私は再度予言する。たとえヨーロッパ内外の国際的なユダヤ人資本家が国々を再度世界大戦に突入させることに成功しようとも、結果は地上のボルシェヴィキ化すなわちユダヤの勝利ではなく、ユダヤ人種の絶滅に終わることになるだろう!

歴史家のあいだで現在でも議論の対象となるのは、ヨーロッパのユダヤ人を根絶する決定をナチスの高官らがくだしたのは、正確にはいつのことかという問題である。最終的解決の概要が1941年の夏から秋にかけて徐々に行われた点については、意見の一致が見られる。

ホロコーストの研究家クリストファー・ブラウニングは、ユダヤ人を根絶するという決定は、2段階で行われたと述べている。第一段階は1941年7月、親衛隊の特別編成部隊である国家保安本部特別行動部隊(アインザッツグルッペン)がドイツ軍占領下のロシアでユダヤ人を大量虐殺した。第二段階は1941年10月、残るヨーロッパのユダヤ人を根絶するというものであった。この視点では広い証拠が存在する。たとえば、1941年7月31日、ヒトラーの指示のもと、ヘルマン・ゲーリングSSのナンバー2であるラインハルト・ハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決を望ましい形で実行するために必要な行政的なシステムと金銭的な方策の計画を可能な限りすぐ自分に提出するように」命令した[1][リンク切れ]

クリスティアン・ゲルラッハは異なる時系列を主張している。1941年12月12日のナチス党全国指導者 (Reichsleiter) と地方組織である大管区指導者 (Gauleiter) の集会での演説が行われた際に、決定はヒトラーにより提案されたというものである。ヒトラーの個人的な発言の翌日の1941年12月13日の日誌の記録では、ヨーゼフ・ゲッベルスは、以下のように記述している。

ユダヤ人問題に関して、総統は問題を簡単にすることにした。総統は、ユダヤ人が新たな世界大戦を引き起こすのであるなら、彼ら自身を破滅させることを警告した。これは意味の無い言葉でなく、世界大戦は起こっている。ユダヤ人の破滅は結果として必然だ。我々はそれに対して感情的になってはいけない。ユダヤ人に対して思いやりを持ってはいけない。同情はドイツ民族に対して行われるべきだ。ドイツ人が16万の犠牲者を東方の戦線で出しているが、この流血の犠牲は彼らの命で払われなくてはいけない。 — [2]

この決定後、最終的解決を効果的に行う計画が立てられた。

たとえば、12月16日に、ポーランド総督府の高官による集会で、ポーランド総督ハンス・フランクはヒトラーの演説を引用して、ユダヤ人の根絶を行うと言うことを記述している。

ユダヤ人に関して言えば、私は彼らに終わりをもたらすため1つか2つの方法を率直に述べることができる。総統は、次のような方法を提案した。もし、ユダヤ人同士の協力した力が世界大戦を起こすことに再度成功したら、それは、ヨーロッパのユダヤ人の終わりということだ。・・・私は、君たちにこう言う。私と共に立ち上がろう。・・・少なくともこの考えで、ドイツの人々への同情心を取っておき、世界の他の人々のためにそれを無駄に使うなどとしてはいけない。・・・それゆえ、私は彼らが消滅していくという根本的な期待をしている。彼らは取り除かれるべきである。現在、私は彼らを東へ取り除くための議論に参加している。1月にこの問題について議論するための重要な会合がベルリンで行われる。私はこの会合に次官のビューラー博士を送る予定だ。国家保安本部の高官とラインハルト・ハイドリヒの元で行われる会合だ。その結果で、ユダヤ人の大量の移住が始まる。だが、これらのユダヤ人に何が起こるのか?きみたちは、彼らが東方に移住し村を作って住んでいるところを想像できるだろうか?ベルリンで我々は話した。なぜ、これらの問題全てが我々に降りかかっているのか?東方や帝国の辺境で、我々が彼らにできることは何も無い。彼らは自分たち自身を消し去るしかないのだ!・・・ここには、我々が射殺することも、毒殺することもできない350万のユダヤ人がいる。しかし、我々ができることは、1つか2つの策、それは彼らを消し去ることである。帝国では方策に関連して議論中である。・・・これがどこで、どの様に行われるかは、我々が構築し運営しようとしている組織の問題である。我々は、この任務に関して適当な時に報告する予定である。

これらの発言に基づいて、戦後行われたニュルンベルク裁判では、ヒトラーはユダヤ人を絶滅させる計画を持ち、それを実行に移すようナチス党員に命令したと言う司法判断が下されている。しかし当時、そのようなユダヤ人絶滅のためのヒトラーの命令文書や計画書は発見されておらず、現在(2024年)に於いても発見されていない。このため、ヒトラーのユダヤ人絶滅命令は、それ自体が存在しなかったとする説も浮上している。

マダガスカル計画

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フランスがドイツに降伏した1940年頃、ヨーロッパの全ユダヤ人をフランス領であったマダガスカルへ送るという漠然とした計画が立案された。アドルフ・アイヒマンは1942年のヴァンゼー会議以前にはこの選択を支持していたが、この会議の席上で、"最終的解決"が何を意味するかということを告げられた。SS長官のヒムラーは1940年に、一民族を根絶させるというのは共産主義的なやり方[注釈 1]であるとして却下するならばアフリカ等に強制移住させるのが最も穏便かつ最善の策だと述べていた[1]。この計画は英国が降伏後イギリス海軍を使用して行うこととなったが、イギリスは降伏せず、マダガスカル計画は放棄された。

最初の絶滅収容所

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1941年11月1日に、最初の絶滅収容所が建築された。ベウゼツ (Belzec)、ソビボル (Sobibor)、トレブリンカ (Treblinka)、ヘウムノ (Chełmno)、マイダネク (Majdanek)、そして、最後にはアウシュヴィッツ=ビルケナウの順に建設された。ユダヤ人の大量虐殺は、1942年の初めに開始された。

絶滅の命令、計画、組織、予算はなかったとする見解

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最終的解決が絶滅だという主張に懐疑的な立場

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ゲルマー・ルドルフは、最終的解決が絶滅である説に対し、反論を行なっている。 ゲルマー・ルドルフの主張は、おおよそ以下の通りである。

1941年半ばまで、「移民」、「疎開」、「移送」、「国外追放」という用語が、そのままの言葉の意味であった。という正史派の主張については全くその通りである。

しかし、1941年半ば以降、これらの同じ用語が突然、全く意味が異なるもの、つまり殺害を意味する暗号となった。という主張には同意する事は出来ない。 しかも、その命令を受ける側にどのように説明をして、どのように理解させていたのか?という説明を全く行なっていない。 第三帝国の役人は従順で、文面通りの命令の行動を遂行することが要求されていた。 もし命令以外の行為を行った場合、厳罰に処されていた。 命令が、「収容者を移送し重要な生産現場で強制労働をさせよ。」というものであったにもかかわらず、その命令を受けた側が、誤って勝手に収容者を殺害したのであれば、厳罰は免れない。 つまり、命令を与える側が、命令の言葉を違う意味に解釈し、命令の指示とは全く違う行動をしなければならない事を、命令を受ける側にどのようにして伝えていたのか? さらに、命令を与える側が、殺害の意味で解釈してはいけない「移民」、「疎開」、「移送」、「国外追放」という、そのままの意味で実行すべき命令を、受け取る側が命令を殺害の意味で受け取ってしまうことを、どのように防いでいたのか?全く明らかにしていない。

当時、命令に背く殺人行為は、厳罰であり死刑に処されていたのである[2]

歴史学者で大学教授の加藤一郎も、Sonderbehandlung(特別措置)、Sonderaktion(特別行動)、Umsiedlung(移送、移住)、Evakuierung(疎開) という害の無い意味の言葉を使って、殺害を指示していたという「カモフラージュ」説・「コード言語」説を批判している[3]

ジョン・ウィアー(英: John Weir)は、最終的解決が絶滅である説や、口頭で絶滅命令が出された説に対し、次のような反論を行なっている。

ナチスドイツは官僚主義であり、ほぼ全てのことを行うには書類が必要であった。

つまり、何らかの行動を取る時は、当局に許可を求め、当局は求められた許可を与える書類を発行しなければならなかった。 しかし、ユダヤ人絶滅においては、この法則は適応されず、証拠書類は存在せず、これについて合理的な説明がされた事は、一度もなかった。 口頭命令が行われたとする主張もあるが、仮に口頭命令であったとしても、書面による命令と同様に、実際には記録が残るのである。 具体的には、権限を持つ人物が 「絶滅収容所」 を通りかかった時、大量の死体が折り重なっている場面を見たら、収容所の責任者に収容者を殺害する権限を与えた命令書を見せるよう要求を行なうだろう。 命令が口頭命令で与えられていた場合、収容所責任者は当該命令書を提示することが出来ない為、要求者は事実確認を求める為に、ベルリンの政府に連絡書を書く事になる。 ベルリンはこれに応答しなければならなかったのである。 仮に絶滅収容所が口頭命令による承認で運営されていたとしたら、このような状況報告を求める連絡書類が大量に見つかり、これらの確認応答の書類は、証拠書類となってしまうのである。 証拠書類の欠如を説明する為に行われる反論として、犯罪を隠す為にナチスの手により関係文書は破棄されたのだ。というものがある。 だが、これらの大量の文書を全て追跡して破棄することは不可能であり、これは成しえない。 逆に虐殺命令を実施していたなら、戦後、犯罪行為で起訴された時に、これらの命令書は自分たちの弁護活動に有利に働く為、 廃棄せずに保管していたはずである。

絶滅説の主張の根底には、ナチスにはユダヤ人を絶滅させる政策があったに違いない。従ってその命令が存在するに違いない。という結論が先に立っており、最初の前提からして間違っているのである[4]

ツンデル裁判に於けるユダヤ人絶滅政策の根拠

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ヒトラーのユダヤ人絶滅の命令は存在しておらず[5]、正史派側も、ヒトラーの命令書が無いのは、認めている[6]。また、修正派は、正史派が主張するような何百万人もの規模の大量虐殺が本当に起こったなら、命令、計画、組織、予算が存在していたはずであり、命令、計画、組織、予算が存在しないなら、主張されているような規模の大量虐殺は、実際には起こっていないのではないか?と考えている[7]。この状況を説明するのに、ホロコースト研究の第一人者であるラウル・ヒルバーグは、テレパシーのようなものを使った。と主張した[8]

1985年、ツンデル裁判(英: R v Zundel)が開かれ、この裁判に於いても、この点は問題視された。これは、カナダトロントにおいて、ドイツ系住民のエルンスト・ツンデル(英: Ernst Zündel)が、「600万人は本当に死んだのか?」(リチャード・ハーウッド著)を出版し、「虚偽のニュースを広めた罪」で「ホロコースト記憶協会」により起訴された裁判である[9]

裁判ではラウル・ヒルバーグが証人として出廷した。 法廷の証言台でヒルバーグは、ユダヤ人絶滅政策とされるものには、命令も計画も組織も予算も無かったと認めた[10]。 ツンデルの弁護側から、ドイツが、命令、計画、組織、予算も無い状態で、何百万人ものユダヤ人を絶滅させるという大事業を、どうやって行ったのか?質問されたヒルバーグは、「ナチスのさまざまな機関で、信じられない程の意見の一致、遠く離れた官僚による読心術があった。」と証言した[10]

1988年の第二審のツンデル裁判において 何度も出廷要請があったにもかかわらず、ヒルバーグは裁判への出廷を拒否した[10]

1985年の一審判決では、ツンデルに15ヶ月の刑期が下された。この判決は1988年5月13日の二審判決でも支持されたが、刑期は9ヶ月に短縮された。1992年8月27日、カナダ最高裁は、言論の自由の範囲内であるとして、ツンデルに対し無罪判決を下した[9][11]

ヒルバーグは、著作の邦訳版においても、ユダヤ人絶滅に命令、計画、組織、予算は無い。と主張している[注釈 2]

ヒトラーが本当に「絶滅」と述べていたか

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ヒトラー達が、「Ausrottung」や「Vernichtung」のドイツ語を用いて、ユダヤ人の絶滅を話していた。という主張が存在している。

これについて、ドイツ語圏の者により、これらの単語は実際には絶滅の意味では用いられておらず、ドイツ語の意味の誤訳が行われている、という指摘がなされている。 ユルゲン・グラーフ(英: Jürgen Graf)は、「Ausrottung」の意味について、ヒトラーの「我が闘争」から、引用を行なっている。

Ungeheuer waren die Lasten, die man dem deutschen Volk zumutete, uner hört seine Opfer an Steuern und an Blut, und dennoch mußte jeder nicht gänzlich Blinde erkennen, daß dies alles umsonst sein würde. Was uns dabei am meisten schmerzte, war die Tatsache, daß dieses ganze System moralisch gedeckt wurde durch das Bündnis mit Deutschland, womit der langsamen Ausrottung des Deutschtums in der alten Monarchie auch noch gewisser maßen von Deutschland aus selber die Sanktion erteilt wurde.

ドイツ国民に課せられた負担は膨大であり、税金と血の犠牲は想像を遥かに超えるものであったが、盲目でない者は、これらが無駄になる事を認めなければならなかった。 我々を最も傷付けたのは、このシステム全体がドイツとの同盟によって道徳的に支えられていたという事実であり、これは旧君主制におけるドイツ性の絶滅(Ausrottung des Deutschtums)が、ある程度ドイツ自身によって承認されている事を意味していた。

アドルフ・ヒトラー著 「我が闘争」より

この箇所で明らかにされているように、ヒトラーは、皇帝のフランツ・ヨーゼフがドイツ系オーストリア人を「ガス室で殺害したり、銃殺しようとしている。」と述べているのでは無い。 ドイツ系オーストリア人が、スラブ人によって「権力を失う危険に晒されている。」という事を述べているのである。 つまり、ヒトラーは「Ausrottung」を「権力を剥奪する、影響力を奪う」という意味で用いている。

ここで、ヒトラーが1939年9月1日に、ユダヤ人によって「Ausrottung der arischen Völker」(アーリア人の絶滅)の為の戦争が開始されようとしている。と話している事を想起すべきである。 ここでも、ヒトラーは「ユダヤ人が、ヨーロッパ住民を絶滅しようとしている。」という意味で「Ausrottung」を使用しているのでは無い。 ヒトラーは「ユダヤ人が、ヨーロッパ住民を従属させようとしたり、権力の剥奪を行おうとしている。」と述べているのである。 ユルゲン・グラーフは、多くの資料において、ヒトラーの発言が著しく歪曲されて引用が行われているが、実際はこのような意味で使用していたのである。と主張している[13]

ゲルマー・ルドルフは、「Vernichtung」は必ず殺害の意味がある訳ではない。と指摘している。 具体的には、経済的基盤や、社会的な結束において、「喪失」や「破壊」を意味している。 また「vernichtende Niederlage」はスポーツにおいて、「惨敗」を意味する言葉であり、殺害などの意味は持っていない[14]

ドイツ国防軍の将校で法学博士のヴィルヘルム・シュテークリヒ(独:Wilhelm_Stäglich)判事も、ヒトラーは「Ausrottung」や「Vernichtung」の言葉を絶滅の意味で使っておらず、ヒトラーはユダヤ人の絶滅は考えていなかった。と主張している[15]

脚註

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注釈

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  1. ^ ボリシェヴィキがロシアの知識人階級を根絶しようとしたことを指す。
  2. ^ 結局、ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産物というよりも、精神とか、共通理解とか、一致や同調の問題であった。ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかったし、特定の予算も割かれなかった。それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし、それぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった。出現したのは、実行計画ではなく、幅広い官僚層が抱いた信じられないほどの精神の一致、総意の読み取りであった。[12]

出典

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参考文献

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  • Browning, Christopher R. 「最終的解決の起源 (The Origins of the Final Solution)」, William Heinemann, London, 2004.
  • Gerald Fleming, 「ヒトラーと最終的解決 (Hitler and the Final Solution)」, University of California Press, Berkeley, 1984.
  • Christian Gerlach. 「ヴァンゼー会議。ドイツのユダヤ人の運命と原則として全てのヨーロッパのユダヤ人を根絶するヒトラーの決定 (The Wannsee Conference, the Fate of German Jews, and Hitler's decision in principle to exterminate all European Jews)」, The Journal of Modern History. Chicago: Dec 1998.Vol.70, Iss. 4; pg. 759, 54 pgs
  • Longerich, Peter. 「書かれていない命令―最終的解決におけるヒトラーの役割 (The Unwritten Order – Hitler's Role in The Final Solution)」, Tempus Publishing Limited, Stroud, 2003.
  • Baumslag, Naomi. 「残忍な医学研究―ナチスの医者の人体実験と腸チフス (Murderous Medicine – Nazi Doctors, Human Experimentation, and Typhus)」, Praeger Publishers, (an imprint of Greenwood Publishing Group, Inc.), 2005. ISBN 0-275-98312-9
  • ヒルバーグ, ラウル 著、望田幸男原田一美井上茂子 訳『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』 上、柏書房、1997年。ISBN 978-4760115167 

関連項目

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関連した文学作品

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外部リンク

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