ディクタス
ディクタス(Dictus、1967年4月11日 - 1989年9月20日)は、フランス生産の競走馬、種牡馬である。
ディクタス | |
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欧字表記 | Dictus |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1967年4月11日 |
死没 | 1989年9月20日(22歳没) |
父 | Sanctus |
母 | Doronic |
母の父 | Worden |
生国 | フランス |
生産者 | F.R.ワッティヌ |
馬主 | R.ド・モニイバジョル |
調教師 | J.M.ソリアーノ(フランス) |
競走成績 | |
生涯成績 | 17戦6勝 |
獲得賞金 |
59万6678フラン 2623ポンド |
競走馬としては1971年にG1競走のジャック・ル・マロワ賞に優勝、種牡馬としては日本に輸入されてすぐに1984年にファーストシーズンサイヤーチャンピオンになると、3歳チャンピオンのサッカーボーイをはじめ多くの活躍馬を出した。
1969年より主にフランスで競走生活を送り、引退後の1972年よりフランスで種牡馬となり、1980年に日本へ輸出された。以後フランスに残した産駒からザラテア、パリカラキ、日本ではスクラムダイナ、サッカーボーイといったGI優勝馬を輩出した。
競走馬時代
編集1968年に6万4000フラン(約466万円)でホセ・M・ソリアーノに購買され、R・ド・モニイパジョル厩舎に入厩し、ラテン語で「お告げ」を意味する「Dictus」と名付けられた[1]。
2歳時(1969年)
編集2歳でデビューしたディクタスはダリア賞で3着になり、フォンテーヌブロー競馬場のブーケデュロワ賞(Prix du Bouquet du Roi、1700メートル)に勝って2戦1勝でシーズンを終えた[2][3]。
3歳時(1970年)
編集3歳の時は、春にジュドランジュ賞(Prix Jus d'Orange、2000メートル)、ラク賞(Prix du Lac、2400メートル)に勝ち、3100メートルのパリ大賞典に挑み大敗した。このあと、中距離に戻ってG2コートノルマン賞2着、続くラロシェト賞(Prix La Rochette、1850メートル)に勝った[2][3][1][4]。
チャンピオンステークス挑戦
編集夏を休養して秋初戦のG2アンリデラマール賞で4着のあと、イギリスに遠征してニューマーケット競馬場のチャンピオンステークスに挑戦した。この競走には、この年のイギリスの三冠馬ニジンスキーが出走した。ニジンスキーは三冠達成のあとフランスへわたって凱旋門賞に出て、ササフラに不覚を取った後だったが、適距離の2000メートルに戻って勝利は間違いないと考えられていた。イギリス人の中にはニジンスキーの単勝に200万ポンドも賭けた不動産屋もいた[5][6]。
ところが、ニジンスキーの引退レースを一目見ようと集まった2万人の観衆は出走前のニジンスキーを追いかけまわしてスターティングゲートのところまで取り囲み、ニジンスキーはすっかり興奮して消耗してしまった。ニジンスキーは動きが悪く、早めに抜けだしたローレンザッチョを捕まえられずに3馬身差で敗れた。3着にはホットフット(Hotfoot)が入り、ディクタスは4着だった[5][2][3]。
4歳時(1971年)
編集古馬になったディクタスは、春初戦のエヴリ賞(G3、1600メートル)でファラウェイサン(Faraway Sun)をクビ差おさえて1分36秒5のレコードタイムで勝ち、グループレース初勝利を挙げた。続くガネー賞(G1、2100メートル)ではカロの前に9着に敗れ、次走モーリスドラクソン賞でも4着に終わった[1][2][3][4]。
G1優勝
編集夏はメシドール賞(G3、1600メートル)で首差の2着に敗れたのち、ドーヴィル競馬場のジャックルマロワ賞(G1、1600メートル)に出た。ディクタスはイギリスの3歳馬スパークラー(Sparkler)をゴール前で半馬身捉え、G1初優勝を遂げた[1]。
ブリガディアジェラードに挑戦
編集1マイルのG1競走に勝ったとはいえ、ディクタスの真価が問われるのは次走、イギリスのアスコット競馬場のG2戦、クイーンエリザベス2世ステークスになった。この年のヨーロッパのマイル路線には1頭の傑出馬がいた。春に2000ギニーで本命のミルリーフに3馬身差をつけて切って捨てたブリガディアジェラードである。ブリガディアジェラードはデビュー以来無傷の8連勝でこの競走に出てきた[7]。
ディクタスがこれまで戦ってきた相手を尺度にすると、ディクタスがエヴリ賞でクビ差を争ったファラウェイサンは、その後イギリスへ渡ってサセックスステークスに挑み、ブリガディアジェラードの2着になっていた。とはいえ、着差は大差だった。しかし、ジャックルマロワ賞で半馬身差だったスパークラーは、セントジェームズパレスステークスでブリガディアジェラードとアタマ差の勝負をしていた。これはブリガディアジェラードに最も僅差まで迫ったもので、これ以外の7戦で、ブリガディアジェラードは常に2着に最低でも2馬身以上、合計で27馬身+大差をつけて勝ってきている。
9月末のアスコット競馬場のクイーンエリザベス2世ステークス(G2、1マイル=約1609メートル)には、たったの3頭しか出走しなかった。ほかはみなブリガディアジェラードを恐れて回避した。結局ディクタスはブリガディアジェラードに8馬身の差をつけられて2着になった。これがディクタスの最後の競走となった[1][2][3][4]。
評価
編集この直後、ファラウェイサンはブリガディアジェラードとの対戦を避けて10月にムーランドロンシャン賞・フォレ賞のG1競走を制した[8]。スパークラーは古馬になってG1のモルニ賞を勝っている[9]。
この年、G1競走に勝ったとはいえ、フランスでのディクタスの評価はそれほど高くはなく、フリーハンデでフランス馬でのランクは14位であった[2]。
種牡馬時代
編集1972年よりフランスのマレ牧場で種牡馬となる[1]。1978年に種牡馬ランキングで5位となったのを皮切りに毎年10位以内の成績を保ち、1980年には日本の社台グループに購入された[1]。翌1981年には自己最高のランキング2位(フランス)を記録し[1]、さらに1983年にはザラテアがオークツリー招待ステークス、パリカラキがアーリントンハンデキャップと、産駒がそれぞれアメリカのG1競走に優勝した。日本でも供用初年度産駒から朝日杯3歳ステークス勝ち馬のスクラムダイナを出し、その後もGI競走2勝のサッカーボーイなど数々の重賞勝利馬を輩出した。1989年に23歳で死亡。サッカーボーイが後継種牡馬として3頭のGI競走優勝馬を輩出しているほか、ザラテアの産駒にフレイズ(ブリーダーズカップ・ターフなどG1競走3勝)、サッカーボーイの全妹・ゴールデンサッシュの産駒にステイゴールドがいる。
種牡馬としての評価・特徴
編集ヨーロッパでは長距離馬も送り出したものの、日本では短・中距離向きの産駒がほとんどであった[10]。しかし、瞬発力に優れマイル〜中距離走を得意としていた代表産駒のサッカーボーイは種牡馬として数々の長距離馬やパワー型のダート馬を輩出した[10][11]。ライターの村本浩平は、ディクタスから出たこうした血統的特徴を「"意外性"の血」と称している[11]。
また、社台グループ所有馬で、1980年代の最有力種牡馬であったノーザンテーストを父に持つ繁殖牝馬との相性が良く、「ディクタス×ノーザンテーストの肌[注 1]」は、社台の総帥・吉田善哉が誇る配合だった[12]。吉田と親交の深かった作家の吉川良によれば、吉田はディクタスの死に際して「横綱ではなかったが名大関だったね」と評し、「ひとつの時代が終わったね」と吉田としては珍しく感傷的な態度を見せたという[13]。吉川自身はディクタスについて「社台ファームを支える柱のひとつになっていた[13]」、「社台ファームを日本一の牧場にしたのはノーザンテーストのおかげと言って間違いないが、脇役としてのディクタスの存在を忘れたら正確でない[12]」と評している。
社台グループの白老ファーム場長・服巻滋之によると、ディクタス産駒は「機嫌を損ねると耳を後ろに寝かせ、白目を剥いて睨み付ける」という独特の表情をするものが多く、放牧地でそうした表情を見せる馬を見て「父系か母系にディクタスの血が入っていないか」と確認すると、その通りであることが多かったという[14]。
主な産駒
編集- 1975年産
- ラオスティック/Laostic(フェデリコテシオ賞G2)
- 1977年産
- デイルタウン/Daeltown(コリーダ賞G3、ロンポワン賞G3)
- 1978年産
- パリカラキ/Palikaraki(アーリントンハンデキャップG1)
- 1979年産
- ザラテア/Zalataia(オークツリー招待ステークスG1、ドーヴィル大賞典G2、ポモーヌ賞2回、クープ賞)
- マグワル/Magwal(エヴリ大賞典G2、ジャンプラ賞G2)
- 1980年産
- マリードリッツ/Marie de Litz(ポモーヌ賞G2、ロワイヨモン賞G3)
- 1981年産
- ディアマダ/Diamada(エクリプス賞G3)
- ディクティナ/Dictina(パッカーラップステークスG3)
- 1982年産 - 1984年日本新種牡馬チャンピオン
- スクラムダイナ - 1982年度最優秀3歳牡馬(朝日杯3歳ステークス)
- ミスターブランディ(福島記念2回、関屋記念)
- 1984年産
- クリロータリー(アルゼンチン共和国杯)
- クールハート(新潟3歳ステークス、関屋記念)
- ダイナチョイス(京都4歳特別)
- 1985年産
- サッカーボーイ - 1987年度最優秀3歳牡馬・1988年度最優秀スプリンター(マイルチャンピオンシップ、阪神3歳ステークス、函館記念、中日スポーツ賞4歳ステークス)
- ディクターランド(函館3歳ステークス)
- 1986年産
- 1987年産
ブルードメアサイアーとしての主な産駒
編集- 1988年産
- フレイズ/Fraise:ブリーダーズカップ・ターフ、ソードダンサー招待ハンデキャップ、ハリウッドターフカップなど重賞6勝(父ストロベリーロード、母ザラテア)
- 1994年産
- 1995年産
- マルカコマチ:京都牝馬特別(父サンデーサイレンス、母ナショナルフラッグ)
- 2000年産
- マッキーマックス:ダイヤモンドステークス(父ダンスインザダーク、母クリアーチャンス)
- 2001年産
血統表
編集ディクタスの血統(ファイントップ系 / Blenheim 5×5×5=9.38%) | (血統表の出典) | |||
父 Sanctus 1960 鹿毛 フランス |
父の父 Fine Top1949 黒鹿毛 フランス |
Fine Art | Artost's Proof | |
Finnolse | ||||
Toupie | Vatellor | |||
Tarentella | ||||
父の母 Sanelta1954 鹿毛 フランス |
Tourment | Tourbillon | ||
Fragment | ||||
Satanella | Mahmoud | |||
Avella | ||||
母 Doronic 1960 栗毛 フランス |
Worden 1949 栗毛 フランス |
Wild Risk | Rialto | |
Wild Violet | ||||
Sans Tares | Sind | |||
Tara | ||||
母の母 Dulzetta1954 栗毛 フランス |
Bozzetto | Pharos | ||
Bunworry | ||||
Dulcimer | Donatello | |||
Dulce |
脚注
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h 『優駿』1984年8月号、pp.129-130
- ^ a b c d e f g 『日本の種牡馬録6』p318-319
- ^ a b c d e f 『サラブレッド種牡馬名鑑6』p185-186
- ^ a b c Galopp-Sieger Dictue2014年5月1日閲覧。
- ^ a b マイアミニュース紙 1970年10月19日付 'We still love you' Nijinsky's finale disappoints fans
- ^ 『凱旋門賞の歴史』3巻p127
- ^ 『新・世界の名馬』p303-317
- ^ Galopp-Sieger Faraway Son2014年5月1日閲覧。
- ^ Galopp-Sieger Sparkler2014年5月1日閲覧。]
- ^ a b 『優駿』2005年10月号、p.31
- ^ a b 『優駿』2005年8月号、p.24
- ^ a b 『ステイゴールド 永遠の黄金』p.83
- ^ a b 吉川(1999)pp.399-400
- ^ 『ステイゴールド 永遠の黄金』p.89
参考文献
編集- 吉川良『血と知と地 - 馬・吉田善哉・社台』(ミデアム出版社、1999年)ISBN 978-4944001590
- 流星社編集部編『ステイゴールド永遠の黄金』(流星社、2002年)ISBN 978-4947770134
- 『優駿』1984年8月号(日本中央競馬会)
- 山野浩一「'84三歳新種牡馬レヴュー」
- 『優駿』2005年8月号(日本中央競馬会)
- 村本浩平「2005年2歳新種牡馬紹介」
- 『優駿』2005年10月号(日本中央競馬会)
- 吉沢譲治「『スタミナ血統』が持つ驚異なる力」
- 『日本の種牡馬録6』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1991
- 『サラブレッド種牡馬銘鑑』第6巻,日本中央競馬会・刊,1981
- 『凱旋門賞の歴史』第3巻(1965-1982)アーサー・フィッツジェラルド・著、草野純・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、1997
- 『新・世界の名馬』原田俊治・著、サラブレッド血統センター・刊、1993