カピタン
カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)は、江戸時代にオランダ東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。ポルトガル語の
西洋商館の歴史
編集天文12年(1543年)種子島にポルトガル人が漂着して以来、多くのポルトガル人やイスパニア(スペイン)人が来日し、貿易やキリスト教布教を始めていた。天文19年(1550年)肥前国平戸に来航したポルトガル商船が永禄4年(1561年)平戸での貿易(南蛮貿易)を許可され、平戸ポルトガル商館を建設した。
元亀2年(1571年)ポルトガルの要請で長崎が開港[注釈 3]した。イエズス会は土地を寄進され[注釈 5]、ポルトガル商館が建ち、貿易港長崎はかつてない発展を遂げた。天正12年(1584年)平戸にイスパニア商船が来航し、平戸イスパニア商館が建設された。平戸及び長崎は南蛮貿易で大きく栄え「西国の京都[要出典]」とも謳われた。
天正15年(1587年)豊臣秀吉はバテレン追放令を発布した。目的は「外交貿易権掌握[注釈 6]」「神社仏閣への迫害[1]」「日本人の奴隷[4]売買禁止」など諸説ある。
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ポルトガルのイエズス会士と神戸の大名[5]
慶長5年(1600年)、ロッテルダムマゼラン社[注釈 7]のリーフデ号が豊後国に漂着し、生存者[注釈 9]の中からウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインは江戸に送られ徳川家康と会見した。関ヶ原の戦い後、両名は外交顧問の旗本[注釈 12]に取り立てられ日英・日蘭貿易に貢献した。慶長14年(1609年)平戸オランダ商館建設の許可(朱印状)[注釈 13]を得たオランダ東インド会社は初代カピタンにヤックス・スペックスを派遣した。
慶長18年(1613年)イギリス東インド会社は平戸にイギリス商館を建設し初代商館長にリチャード・コックスを置いたが、元和9年(1623年)のアンボイナ事件を機に対インド貿易注力に方針転換、平戸の商館を閉鎖し対日貿易から離脱した。
慶長17年(1612年)江戸幕府は禁教令を布告し、慶長18年(1613年)家康が公布させた「伴天連追放之文」が以後の基本となる。元和6年(1620年)の平山常陳事件は幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけた。元和8年(1622年)元和の大殉教以後諸大名もキリシタン迫害を徹底した。元和9年(1623年)幕府はポルトガル人の日本在住禁止、朱印船のマニラ渡航禁止など公布した。
寛永元年(1624年)イエズス会を組織したイスパニア船の来航を禁止し平戸イスパニア商館を閉鎖した。ポルトガル領マカオには宣教師を日本に派遣させないことを要求し、日本との貿易途絶を恐れたマカオは受諾した。
それでも宣教師は諦めず、東南アジアの日本人町に渡航して布教[注釈 15]したり、朱印船で日本に密航を企てたりしたので、幕府は禁教徹底のため朱印船貿易廃止を決定し、その役割を外国人(ポルトガル人・オランダ人・中国人)に代行させる観点から長崎奉行の定員を旗本2人とした。長崎奉行への職務規定(鎖国令)を通じて、中国や東南アジアとの中継貿易拠点としての長崎を整備していった。
寛永10年(1633年)奉書船以外での渡航や5年以上在外居住者の帰朝禁止、寛永12年(1635年)邦人の東南アジア方面往来全面禁止、寛永13年(1636年)ポルトガル人の妻子や縁者をバタヴィアに追放、さらに長崎に出島を建設して長崎ポルトガル商館を移築し出島内にポルトガル人を収容管理した。
寛永14年(1637年)の島原の乱を翌年鎮圧した幕府はポルトガル貿易の打ち切りを望むようになった。寛永16年(1639年)将軍徳川家光・幕閣とオランダ商館長フランソワ・カロンが会談し、台湾経由で生糸などの中国製品を確保できること、台湾に渡航している中国人が密航者ではない明朝官許商であること、オランダが対西葡軍事力を備えていることなどを確認し、ポルトガル貿易の打ち切りを決定した。幕府は全国の大名にポルトガル船に対する警戒と打払い・来航禁止令を発布、ポルトガル人は出島から追放された。
寛永18年(1641年)島原の乱鎮圧を支援したオランダに、西洋諸国の情報収集[15]のため貿易続行は許可し、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移転させ鎖国は完成した。安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約締結まで出島は存続する。
ポルトガル商館長
編集平戸(ポルトガル商館長)
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長崎(ポルトガル商館長)
編集スペイン商館長
編集平戸(スペイン商館長)
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イギリス商館長
編集平戸(イギリス商館長)
編集- リチャード・コックス(1613年-1623年)
オランダ商館長
編集【1609年 - 1650年】
編集平戸(オランダ商館長)
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日光東照宮廻転灯籠 ブレスケンス号乗員開放御礼時「オランダ国王」名義で奉納
- 初代ヤックス・スペックス(1609年-1613年)
- 2. ヘンドリック・ブラウエル(1613年-1614年)
- 3. ヤックス・スペックス(1614年-1621年)(2度目)
- 4. レオナルド・キャンプス(1621年-1623年)
- 5. コルネリス・ファン・ナイエンローデ(1623年-1632年)
- 6. ピーテル・ファン・サンテン(1632年-1633年)
- 7. ニコラス・クーケバッケル(1633年-1638年)
- 8. フランソワ・カロン(1639年3月2日-1640年2月13日)
- 9. マクシミリアン・ル・メール(1641年2月14日-1641年5月)
長崎(オランダ商館長)
編集- 9. マクシミリアン・ル・メール(1641年5月-1641年10月30日)
- 10. ヤン・ファン・エルセラック(1641年11月1日-1642年10月29日)
- 11. ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル(1642年10月29日-1643年8月1日)
- 12. ヤン・ファン・エルセラック(1643年8月1日-1644年11月24日)(2度目)
- 13. ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル(1644年11月24日-1645年11月30日)(2度目)
- 14. レイニール・ファン・ツム(1645年11月30日-1646年10月27日)
- 15. ウィレム・フルステーヘン(1646年10月28日-1647年10月10日)
- 16. フレデリック・コイエット(1647年11月3日-1648年12月9日)
- 17. ディルク・スヌーク(1648年12月9日-1649年11月5日)
- 18. アントニオ・ファン・ブロウクホルスト(1649年11月5日-1650年10月25日)
- 19. ピーテル・ステルテミウス(1650年10月25日-1651年11月3日)
【1651年 - 1700年】
編集- 20. アドリアン・ファン・デル・ブルフ(1651年11月1日-1652年11月3日)
- 21. フレデリック・コイエット(1652年11月4日-1653年11月10日)(2度目)
- 22. ガブリエル・ハッパルト(1653年11月4日-1654年10月31日)
- 23. レオナルド・ウインニンクス(1654年10月31日-1655年10月23日)
- 24. ヨアン・ボウヘリヨン(1655年10月23日-1656年11月1日)
- 25. ツァハリアス・ヴァグナー(1656年11月1日-1657年10月27日)
- 26. ヨアン・ボウヘリヨン(1657年10月27日-1658年10月23日)(2度目)
- 27. ツァハリアス・ヴァグナー(1658年10月22日-1659年11月4日)(2度目)
- 28. ヨアン・ボウヘリヨン(1659年11月4日-1660年10月26日)(3度目)
- 29. ヘンドリック・インディヤック(1660年10月26日-1661年11月21日)
- 30. ディルク・ファン・リエル(1661年11月11日-1662年8月17日)
- 31. ヘンドリック・インディヤック(1662年8月18日-1663年10月20日)(2度目)
- 32. ウィレム・ボルガー(1663年10月20日-1664年11月7日)
- 33. ヤコブ・フルイス(1664年11月7日-1665年10月27日)
- 34. ウィレム・ボルガー(1665年10月28日-1666年10月27日)(2度目)
- 35. ダニエル・シックス(1666年10月18日-1667年11月6日)
- 36. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1667年11月6日-1668年10月25日)
- 37. ダニエル・シックス(1668年10月25日-1669年10月14日)(2度目)
- 38. フランソワ・デ・ハース[22](1669年10月14日-1670年11月2日)
- 39. マルティヌス・シーサー(1670年11月2日-1671年11月12日)
- 40. ヨハネス・カンフフイス(1671年10月22日-1672年11月12日)
- 41. マルティヌス・シーサー(1672年11月13日-1673年10月29日)(2度目)
- 42. ヨハネス・カンフフイス(1673年10月29日-1674年10月19日)(2度目)
- 43. マルティヌス・シーサー(1674年10月20日-1675年11月7日)(3度目)
- 44. ヨハネス・カンフフイス(1675年11月7日-1676年10月27日)(3度目)
- 45. ディルク・デ・ハース[23](1676年10月27日-1677年10月16日)
- 46. アルベルト・ブレフインク(1677年10月16日-1678年11月4日)
- 47. ディルク・デ・ハース(1678年11月4日-1679年10月24日)(2度目)
- 48. アルベルト・ブレフインク(1679年10月24日-1680年11月11日)(2度目)
- 49. イサーク・ファン・スヒンネ(1680年11月11日-1681年10月31日)
- 50. ヘンドリック・カンジウス(1681年10月31日-1682年10月20日)
- 51. アンドレアス・クレイエル(1682年10月20日-1683年11月8日)
- 52. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1683年11月8日-1684年10月28日)(2度目)
- 53. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1684年10月25日-1685年10月7日)
- 54. アンドレアス・クレイエル(1685年10月17日-1686年11月5日)(2度目)
- 55. コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1686年11月5日-1687年10月25日)(3度目)
- 56. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1687年10月25日-1688年10月13日)(2度目)
- 57. コルネリス・ファン・オウトホールン(1688年10月13日-1689年11月1日)
- 58. バルタザール・スウェールス(1689年11月1日-1690年10月21日)
- 59. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1690年10月21日-1691年11月9日)(3度目)
- 60. コルネリス・ファン・オウトホールン(1691年11月9日-1692年10月29日)(2度目)
- 61. ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1692年10月29日-1693年10月19日)(4度目)
- 62. ヘリット・デ・ヘーレ(1693年10月19日-1694年11月7日)
- 63. ヘンドリック・ディックマン(1694年11月7日-1695年10月27日)
- 64. コルネリス・ファン・オウトホールン(1695年10月27日-1696年10月15日)(3度目)
- 65. ヘンドリック・ディックマン(1696年10月15日-1697年11月3日)(2度目)
- 66. ピーテル・デ・ボス(1697年11月3日-1698年10月23日)
- 67. ヘンドリック・ディックマン(1698年10月23日-1699年10月21日)(3度目)
- 68. ピーテル・デ・ボス(1699年10月21日-1700年10月31日)(2度目)
- 69. ヘンドリック・ディックマン(1700年10月31日-1701年10月21日)(4度目)
【1701年 - 1750年】
編集- 70. アブラハム・ドウグラス(1701年10月21日-1702年10月30日)
- 71. フェルディナント・デ・グロート(1702年11月9日-1703年10月30日)
- 72. ギデオン・タント(1703年10月30日-1704年10月18日)
- 73. フェルディナント・デ・グロート(1704年10月18日-1705年11月6日)(2度目)
- 74. ハルナス・メンシング(1705年11月-1706年10月)
- 75. フェルディナント・デ・グロート(1706年10月26日-1707年10月15日)(3度目)
- 76. ハルナス・メンシング(1707年10月15日-1708年11月2日)(2度目)
- 77. ヤスパー・ファン・マンスダレ(1708年11月2日-1709年10月22日)
- 78. ハルナス・メンシング(1709年10月22日-1710年11月10日)(3度目)
- 79. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1710年11月10日-1711年10月31日)
- 80. コルネリス・ラルディヨン(1711年10月31日-1712年11月7日)
- 81. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1712年11月-1713年11月)(2度目)
- 82. コルネリス・ラルディヨン(1713年11月7日-1714年10月27日)(2度目)
- 83. ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1714年10月27日-1715年10月19日)(3度目)
- 84. ギデオン・ボウダエン(1715年10月19日-1716年11月3日)
- 85. ヨアン・アオウェル(1716年11月3日-1717年10月24日)
- 86. クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1717年10月24日-1718年10月13日)
- 87. ヨアン・アオウェル(1718年10月13日-1719年10月21日)(2度目)
- 88. クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1719年10月21日-1720年10月21日)(2度目)
- 89. ルーロフ・ディオダティ(1720年10月21日-1721年11月9日)
- 90. ヘンドリック・デュルファン(1721年11月9日-1722年10月)
- 91. ヘンドリック・デュルファン(1722年10月-1723年10月18日)(2度目)
- 92. ヨハネス・テンデンス(1723年10月18日-1725年10月25日)
- 93. ヨアン・デ・ハルトグ(1725年10月25日-1726年10月15日)
- 94. ピーテル・ボーケスティン(1726年10月15日-1727年11月3日)
- 95. アブラハム・ミンネドンク(1727年11月3日-1728年10月21日)
- 96. ピーテル・ボーケスティン(1728年10月21日-1729年10月12日)(2度目)
- 97. アブラハム・ミンネドンク(1729年10月12日-1730年10月31日)(2度目)
- 98. ピーテル・ボーケスティン(1730年10月31日-1732年11月7日)(3度目)
- 99. ヘンドリック・ファン・デ・ベル(1732年11月7日-1733年10月27日)
- 100. ロヒエル・デ・ラフェル[27](1733年10月27日-1734年10月16日)
- 101. デビッド・ドリンクマン(1734年10月16日-1735年11月4日)
- 102. ベルナルドス・コーパ(1735年11月4日-1736年10月24日)
- 103. ヤン・ファン・デル・クルイッセ(1736年10月24日-1737年10月13日)
- 104. ゲラルドゥス・ベルナルデュス・ビッスヘル(1737年10月13日-1739年10月21日)
- 105. トーマス・ファン・リー(1739年10月22日-1740年11月8日)
- 106. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1740年11月9日-1741年10月28日)
- 107. トーマス・ファン・リー(1741年10月29日-1742年10月17日)(2度目)
- 108. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1742年10月17日-1743年11月9日)(2度目)
- 109. デビッド・ブロウウェル(1743年11月5日-1744年11月1日)
- 110. ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1744年11月2日-1745年12月28日)(3度目)
- 111. ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1745年12月30日-1746年11月2日)
- 112. ヤコブ・バルデ(1746年11月3日-1747年10月25日)
- 113. ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1747年10月28日-1748年11月11日)(2度目)
- 114. ヤコブ・バルデ(1748年11月12日-1749年12月8日)(2度目)
- 115. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1749年12月8日-1750年12月24日)
- 116. アブラハム・ファン・スフテレン(1750年12月25日-1751年11月18日)
【1751年 - 1800年】
編集- 117. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1751年11月19日-1752年12月5日)(2度目)
- 118. ダフィット・ボエレン[32](1752年12月6日-1753年10月15日)
- 119. ヘンドリック・ファン・ホモエド(1753年10月16日-1754年11月3日)(3度目)
- 120. ダフィット・ボエレン(1754年11月4日-1755年10月25日)(2度目)
- 121. ハーバート・ベルメウレン(1755年10月25日-1756年10月12日)
- 122. ダフィット・ボエレン(1756年10月13日-1757年10月31日)(3度目)
- 123. ハーバート・ベルメウレン(1757年11月1日-1758年11月11日)(2度目)
- 124. ヨハネス・レイノウトス(1758年11月12日-1760年11月11日)
- 125. マーティン・フイスホールン(1760年11月12日-1761年10月30日)
- 126. ヨハネス・レイノウトス(1761年10月31日-1762年12月2日)(2度目)
- 127. フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1762年12月3日-1763年11月6日)
- 128. ヤン・クランス[33](1763年11月7日-1764年10月24日)
- 129. フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1764年10月25日-1765年11月7日)(2度目)
- 130. ヤン・クランス(1765年11月8日-1766年10月31日)(2度目)
- 131. ヘルマン・クリスティアーン・カステンス(1766年11月1日-1767年10月20日)
- 132. ヤン・クランス(1767年10月21日-1769年11月8日)(3度目)
- 133. オルフェルト・エリアス(1769年11月9日-1770年11月16日)
- 134. ダニエル・アーメナウルト(1770年11月17日-1771年11月9日)
- 135. アレント・ウィレム・フェイト(1771年11月10日-1772年11月3日)
- 136. ダニエル・アーメナウルト(1772年11月4日-1773年11月22日)(2度目)
- 137. アレント・ウィレム・フェイト(1773年11月23日-1774年11月10日)(2度目)
- 138. ダニエル・アーメナウルト(1774年11月11日-1775年10月28日)(3度目)
- 139. アレント・ウィレム・フェイト(1775年10月28日-1776年11月22日)(3度目)
- 140. ヘンドリック・ホットフリート・デゥールコープ(1776年11月23日-1777年11月11日)
- 141. アレント・ウィレム・フェイト(1777年11月12日-1779年11月28日)(4度目)
- 142. イサーク・ティチング(1779年11月29日-1780年11月5日)
- 著書『オランダ商館長の見た日本:ティツィング往復書翰集』 横山伊徳 編 吉川弘文館、2005年
- 『日本王代一覧』を仏語訳 "Annales des Empereurs du Japon, traduites" パリ 1834年[34]
- 143. アレント・ウィレム・フェイト(1780年11月6日-1781年11月23日)(5度目)
- 144. イサーク・ティチング(1781年11月24日-1783年10月26日)(2度目)
- 145. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1783年10月27日-1784年8月)
- 146. イサーク・ティチング(1784年8月-1784年11月30日)(3度目)
- 147. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1784年12月1日-1785年11月21日)(2度目)
- 148. レーデ・トゥット・デ・パルケラール男爵ヨハン・フレデリック(1785年11月22日-1786年11月20日)[35]
- 149. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1786年11月21日-1787年11月30日)(3度目)
- 150. レーデ・トゥット・デ・パルケラール男爵ヨハン・フレデリック(1787年12月1日-1789年8月1日)(2度目)
- 151. ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1789年8月1日-1790年11月13日)(4度目)
- 152. ピーテルス・セオドルス・シャッセ(1790年11月13日-1792年11月13日)
- 153. ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)
- 154. レオポルド・ウィレム・ラス(1798年7月8日-1800年7月17日)
【1801年 - 1860年】
編集- 155. ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)
- 156. ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
- 157. ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)
- 158. ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
- 159. ヘルマン・フェリックス・メイラン(1826年8月4日-1830年8月5日)
- 160. ヤン・ヴィレム・フレデリック・ファン・シッタース(1830年11月1日-1834年11月30日)[40][注釈 20]
- 161. ヨハネス・エルデウィン・ニーマン(1834年12月1日-1838年11月17日)
- 162. エドゥアルド・グランディソン(1838年11月18日-1842年11月)
- 163. ピーター・アルバート・ビック(1842年11月-1845年10月31日)[42]
- 164. ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン(1845年11月1日-1850年10月31日)
- 165. フレデリック・コルネリス・ローズ(1850年11月1日-1852年10月31日)[43]
- 166. ヤン・ドンケル・クルティウス(1852年11月2日-1860年2月28日)
-
レオナルド・ウインニンクス夫妻婚礼画
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コルネリス・ファン・オウトホールン(№13の人物)
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イサーク・チチング(着席者左から2番目)
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ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(着席者中央)
脚注
編集注釈
編集- ^ "1610 ヤックス・スペックス" から "1845/1850 ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン"まで刻まれた象嵌細工 アムステルダム国立美術館
- ^ 大航海時代には船団を率いたカピタンが商館(砦)を開設してそのまま長となることもあった。
- ^ 宮ノ前事件も参照。
- ^ 千々石ミゲルの伯父。
- ^ 大村純忠[注釈 4]が1570年長崎村、1580年茂木村を寄進した[1][2]。
- ^ 同時代人のベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンも著書[3]に綴っている。
- ^ マゼラン社とはマゼラン海峡を経由する航路によるアジア貿易を目指した会社で、後のオランダ東インド会社の前身にあたる12のプレカンパニーのうちの1社だった。“De VOC site: Geschiedenis; van voorcompagnie naar VOC”. Jaap van Overbeek te Wageningen. 2020年10月2日閲覧。
- ^ 各々カピタンピーテル・ファン・サンテン、ウィレム・フルステーヘンと結婚。
- ^ 事務長メルヒオール・ファン・サントフォールトは江戸の大工の娘・洗礼名イサベラとの間に二女を儲け[注釈 8]1639年第5次鎖国令まで自由貿易で財を成した[8]。
- ^ 金銀島探検が目的の初代駐日スペイン大使・国王親書を携えたセバスティアン・ビスカイノを伴い1611年帰朝。
- ^ 1610年サン・ブエナ・ベントゥーラ号で田中勝介[注釈 10]らとともにヌエバ・エスパーニャへ。更に本国に渡り家康の親書をフェリペ3世に届けた[9]。
- ^ これ以前から家康の顧問格にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606)、ポルトガルイエズス会士ルイス・デ・セルケイラ(第3代日本司教1552-1614)、家康のスペインとの貿易交渉公使でフランシスコ会士アロンソ・ムニョス(日本代理管区長 ? -1620[9])[注釈 11]らがいた。
- ^ ファン・サントフォールトの通訳[8]で特使がオラニエ公マウリッツの親書を携え駿府に向かった[10]。
- ^ イギリス東インド会社代表Sir Thomas Smytheがクローブ号でジョン・セーリスに届けさせた。
- ^ António Francisco Cardimはアユタヤに1626年イエズス会伝道所を設立。何百人もの住民に秘跡を授けた[14]。
- ^ クーケバッケルがDe Rijp号で天草四郎軍を砲撃
- ^ 口縁は唐草文様で6分割し梅竹と牡丹を交互に、見込みには鳳凰・柘榴・椿を染付けたクープ皿 17世紀後半 ピーボディ・エセックス博物館
- ^ 唐草文様染付瓶 銀細工と黒檀製のCellaretはバタヴィア製 1670-1675年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ オランダ獅子勲章騎士コック・ブロンホフが後に、馴染の遊女・糸萩に贈る番の駱駝[38]。
- ^ 同族[41]のLaurens de Witte van Cittersはオランダ貴族高等評議会議長。その甥・娘婿 Arnoldus Andries des Tombe は「真珠の耳飾りの少女」の所有者・美術品収集家
出典
編集- ^ a b 松田.
- ^ " Sumario de las cosas de Japon 1583 Monumenta Nipponica monographs "『日本事集』(1583年):『日本概要』(1592年)への追加 第1巻 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ 著 Jose Luis Alvarez-Taladriz 編(1954年)
- ^ 『日本王国記 Relación del Reino del Nipón a que llaman corruptamente Japón(転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告)』(初稿 第1輯 1598年)
- ^ ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子 著『大航海時代の日本人奴隷』中央公論新社 (2021年) 増補新版〈中公選書〉→「ポルトガルの奴隷貿易 § 日本人奴隷」も参照
- ^ 16世紀末 " Asies Nouvelles - Atlas Géopolitique " livre et assimilé géographie, géopolitique: Sciences humaines et sociales; Michel Foucher, 13/05/2002, Belin:éditeur. EAN 9782701127606
- ^ " A series of accounts of famous Sea and Land-Voyages " 1705年ごろ Pieter van der Aa 作
- ^ 17世紀初頭の図 Vié, Michel 著 "Histoire du Japon des originesà Meiji" Presses universitaires de France出版 1969年 第6版更新
- ^ a b 森.
- ^ a b ブリタニカ.
- ^ ニコラース・ポイク 著『最初のオランダ遣日使節の駿府旅行記』オランダ国立公文書館員ルーロフス 編 東京大学史料編纂所員金井圓ら訳 バーデン州立図書館: 前文「...家康は大航海時代諸外国から注目されていた...」
- ^ 1613年 ボドリアン図書館
- ^ ロンドン塔 中世復古調本小札胴丸仕立 "2013年は日英交流400周年" 〜JAPAN400 のご紹介〜 CLAIR メールマガジン 2013年2月配信 (ロンドン事務所)
- ^ 漆塗用下圖 京都製 1800年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ Ribeiro, M. 著 "The Japanese Diaspora in the Seventeenth Century. According to Jesuit Sources" 2001 Bulletin of Portuguese - Japanese Studies. 3: 53–83. ISSN 0874-8438.
- ^ オランダ風説書
- ^ Nationaal Archief
- ^ 銅版画 1669年 Nederland Koninklijke Bibliotheek
- ^ 1650年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ レシフェの奴隷市場 1637-1644年ごろ Kupferstichkabinett (Residenzschloss Dresden内ドレスデン美術館分室)
- ^ 旋削加工 1650-1660年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ confiserie用 1671-1690年ごろ ピーボディ・エセックス博物館
- ^ François de Haese オランダ東インド会社ペルシャの知事 (1671-1673年)・ベンガルの知事 (1673–1676年)
- ^ Dirck de Haas オランダ東インド会社アンボンの知事 (1687–1691年)
- ^ 裏面梨地仕上 1690-1700年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ Willem van Outhoorn オランダ領東インド総督 (1691-1704)
- ^ Kashkul 1700年ごろ ピーボディ・エセックス博物館
- ^ Rogier de Laver オランダ領マラッカ総督(1736-1743年)
- ^ 1700-1724年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ グラヴュール加飾:オランダ北部 吹きガラス:ドイツ製 1725-1750年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ 1775-1800年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ 著者没後刊行オランダ語版 "Bijzonderheden over Japan, behelzende een verslag van de huwelijks plegtigheden, begrafenissen en feesten der Japanezen, de gedenkschriften der laatste Japansche keizers, en andere merkwaardigheden nopens dat rijk" OCLC: 7472268 マーストリヒト大学図書館 Johannes Allart出版
- ^ David Boelen オランダ領マラッカ総督(1758-1764年)
- ^ Jan Crans オランダ領マラッカ総督(1772-1776年)
- ^ "Ouvrage revu, complété et corrigé sur l'original japonais-chinois, accompagné de notes, et précédé d'un aperçu de l'histoire mythologique du Japon." par J. Klaproth, Koninklijke Nederlandse Koloniale Bibliotheek
- ^ 『出島日記細目 1740-1800』学術叢書第21 日蘭学会 2004年、Johan Frederik baron van Reede tot de Parkelaar他著 (Johan Frederik van Reede, heer van de Parkeler 1684-1735 の孫)
- ^ 1816-1848年ごろ アムステルダム国立美術館
- ^ 山東庵京山 1824年 オランダ国立民族学博物館
- ^ 【発見!長崎の歩き方】出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~ 4.出島を通した文化交流
- ^ 小引出箪笥 1800-1823年ごろ オランダ国立民族学博物館
- ^ "Portret van Jan Willem Frederik van Citters (1785-1836)" ミニアチュール 1800-1836年ごろ Zeeuws Museum
- ^ 共に Willem van Citters (VOC取締役 1713-1757) の父 Aernout van Citters の玄孫
- ^ Pieter Albert Bik (1798-1855)
- ^ Frederik Cornelis Rose (1808–1880)
- ^ Mikko Toivanen 著 "The Travels of Pieter Albert Bik: Writings from the Dutch Colonial World of the Early Nineteenth Century" 2017.
関連文献
編集以下の片桐一男の著書を参照。ほか多数
- 『江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府』 (中公新書、2000年)
- 『開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報』 (講談社現代新書、1997年)
- 『出島 異文化交流の舞台』 (集英社新書、2000年)
- 『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』(歴史文化ライブラリー・吉川弘文館、2008年)
- ブリタニカ『国際大百科事典』Britannica Japan Co., Ltd.〈小項目事典〉。
- 松田毅一『大村純忠伝:付日葡交渉小史』教文館〈改訂版〉、1978年。
- 森良和『メルヒオール・ファン・サントフォールト:日本で生きることを選んだリーフデ号船員の生涯』玉川大学〈論叢:玉川大学教育学部紀要〉、2014年3月。 81-98頁
- 東京大学史料編纂所 イギリス商館長日記 原文編 1615年6月-1622年3月
- 東京大学史料編纂所 オランダ商館長日記 訳文編 訳8(上)1643年11月-1644年7月 - 本文弐拾六頁: ブレスケンス号事件、本文四拾六頁: 東照宮奉納燈籠の件(真鍮職人Carel Jonassen)
- 広川獬 (丹羽漢吉 校訂)『長崎聞見録 寛政12年 巻之5』長崎文献社〈長崎文献叢書〉、1800年。: 長崎への洋上Huis te Spijk号で客死したヘンドリック・ゴッドフリート・ドゥルクープの墓碑を挿画「長崎県の郷土史料」
- Frank Lequin (2005). Isaac Titsingh in China (1794-1796) : het onuitgegeven journaal van zijn ambassade naar Peking. Alphen aan den Rijn. ISBN 90-6469-809-0〈Titsingh Studies, vol.3〉
- Andreas Everardus van Braam Houckgeest, par Médéric Louis Élie Moreau de Saint-Méry. Voyage de l'ambassade de la compagnie des Indes Orientales Hollandaises, vers l'Empereur de la Chine, en 1794 et 1795 : où se trouve la description de plusieurs parties de cet empire inconnues aux Européens. Chez Garnery, Chez Levrault. NCID BA66966150〈 tiré du journal d'A. E. van Braam Houckgeest, publié en 1798 V. st. (An 6 de la république) 〉
- Johan Frederik van Overmeer Fisscher (1833). Bijdrage tot de kennis van het Japansche rijk. J. Muller, Amsterdam
- ヘルマン・フェリックス・メイラン 著『日欧貿易概観(日欧貿易史)』原題:" Geschiedkundig Overzigt van den Hendel der Europezen op Japan ", 初出『バタヴィア学芸協会雑誌(Verhandelingen van het Bataviaasch Genootschap der Kunsten en Weetenschappen)』第14号 Egbert Heemen 出版 1833年
- 歴代日本商館長年代記(雑誌「インド史料」第2巻所収) J.N. GRIMMIUS 著(1849年) 出版地 バタヴィア
- 天明老人内匠 編 歌川広重 画『狂歌江都名所図会』- 長崎屋 画面左上の看板に"紅毛人旅宿" (1856年)
- "Nederlandse Historische Brinnen 5"(オランダ史料5)「II 中国貿易によってオランダと日本の間に生じた重要な違いの真の起源、継続、子孫の記憶に残る物語」p.82- 日本関連(1985年) P.H.D. Leupen 著 Koninklijk Nederlands Historisch Genootschap
関連項目
編集外部リンク
編集- de VOC site
- Stanford University Press 2007 - Jan Frederik Feilke:ドゥーフの全江戸参府に随行の出島付医官