闘鶏
闘鶏(とうけい)は、鶏の雄を戦わせる競技。
歴史
古代から世界各地に見られた。インダス文明の遺跡からは闘鶏をモチーフとした出土品が見られ、ニワトリを家禽とした初期の時代から闘鶏が行われていたことが伺われる[1]。
古代ギリシアではアイリアノスによると、テミストクレスがペルシア軍との戦闘を控えたギリシア軍に道端で戦う鶏を示し、彼らを鼓舞した。ギリシア軍が勝利するとその功績を称え、公的行事として毎年闘鶏を行うよう定めたという[2]。ギリシア・ローマの文献には闘鶏がたびたび登場し、プラトンも闘鶏に熱中する人々の姿を『法律』の中で描写している[3]。
中国では周の時代(紀元前10世紀)には既に闘鶏が行われていたという説があり、紀元前8世紀の『春秋左氏伝』にも闘鶏に関する記述がある[1]。
闘鶏は東南アジアにおいても古くから行われてきた。特にタイの軍鶏はその強さで知られている。元々は賭け事ではなく、喪に服す家族を慰問する行事の一種であったとする見方が存在する[4]。
日本で闘鶏が始まったのがいつごろなのか定かではない。公家のみならず庶民の娯楽として、起源が不明なほど古くから行われてきたと推定される[1]。最も古い記録は8世紀前半に編纂された『日本書紀』であり、以後の公家の日記や史書にも闘鶏の記事は数多く見られる。
宮中の闘鶏は9世紀から10世紀には、闘鶏を好む天皇や公家によって正月後にしばしば催されていた。平安時代の頃より鶏合(とりあわせ)と呼ばれ宮中や貴族において3月3日に行われるようになった[5]。唐の玄宗が乙酉生まれだったため好んで清明の節に催した故事が由来とされる。鳥合わせの様子は承安2年の『古今著聞集』に詳しいが、歌舞や酒宴が主体で、闘鶏というよりもニワトリの鑑評会というのが実態となっていた[1]。
江戸時代のはじめには、タイから軍鶏が輸入されるとさらに盛んになっていった。しかし庶民の間で賭博の対象とされることが多くなり、幕府は幾度か禁止令を発し、明治時代には法令で禁止される地域があった[6]ものの、全国的には生き残っていった。
武器
蹴り合いの威力を増すため、地域ルールによっては蹴爪に鋼鉄製のナイフを装着させる。このルールでは、負けた鶏はほとんど致命傷を負って死亡する。
育成方法
雄鶏の育成には7ヵ月〜1年ほどかかる。広いスペースを与えて脚や翼(羽)の力を強化する。鏡に映る自身を敵と思わせて闘争心を養う手法も取られる。
闘鶏が登場する作品
脚注
- ^ a b c d 増川宏一『合わせもの』<ものと人間の文化史> 法政大学出版局 2000年 ISBN 4588209418 pp.21-28.
- ^ Mervin R. Dilts, Clavdii Aeliani Varia Historia, 1974, 2.28(アイリアノス(松平千秋・中務哲郎訳)『ギリシア奇談集』第3巻12.2)
- ^ プラトン(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)『法律』、第7巻798c(『プラトン全集13』、岩波書店、1975)
- ^ アンワル・ジンペ・ラフマン 「一発即死―トラジャの闘鶏『パラミシ』」アジ研ワールド・トレンド通巻142号
- ^ 「年中行事事典」p517 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
- ^ 白川県明治六年第四三号。なお違式詿違条例(軽微な犯罪を処罰する明治初年の条例)への採用の議論があったものの、明治6年7月19日太政官布告違式詿違条例には採録されなかった。詳しくは上野平真希「警察機構の創出と違式詿違条例」(熊本史学 2006.07.30)[1][2]