稲尾和久

日本の元プロ野球選手、指導者、野球評論家

これはこのページの過去の版です。K-sta (会話 | 投稿記録) による 2005年8月7日 (日) 02:25個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

稲尾 和久いなお かずひさ1937年6月10日 - )は、大分県別府市生まれの元プロ野球選手投手)・監督

別府緑ヶ丘高等学校(現・芸術短期大学付属高等学校)から1956年西鉄ライオンズに入団。1年目に21勝、防御率1.06を記録し最優秀防御率新人王
1957年から1959年まで3年連続30勝以上をあげ、西鉄黄金時代の主力投手として活躍。
1958年日本シリーズ・対読売ジャイアンツ戦では3連敗後に稲尾の4連投で4連勝。1人で4勝をあげるなど大活躍し、「神様仏様稲尾様」と崇められた。日本シリ-ズ通算11勝は、堀内恒夫と並ぶ最多勝記録。
1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝を記録。
1962年200勝達成。
酷使が祟り1964年に肩を故障。
1966年以降は、主にリリーフ投手としてマウンドに登った。
1969年に引退。
1972年、背番号24は西鉄ライオンズの永久欠番となる(監督時もそのまま背番号24を着用するが、1973年、身売りで失効)。

引退後は1970年1974年に西鉄→太平洋監督。「黒い霧事件」に直面する苦難の中、采配を振るった。
1978年1980年中日ドラゴンズ投手コーチ。
1984年よりロッテオリオンズ監督に就任。所沢に移転したライオンズに替わりロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく1986年限りで退任。落合博満に良き理解者として慕われた。
1993年野球殿堂入り。

現在は野球評論家・RKB毎日放送野球解説者(以前は自身の事業の都合で朝日放送の解説者であったが、その後RKBへ移った)。

記録男稲尾は、数々の記録を打ち建てているが、凄いのは、防御率パリ-グ記録(1956年 1.06)、シ-ズン最多連勝日本記録(1957年 20連勝)、月間最多勝日本記録(1962年 11勝)、年間最多勝日本記録(1961年 42勝)等の記録をそれぞれ別々の年に記録している事である。


獲得タイトル、表彰

通算成績

  • 756試合登板 276勝137敗 2574奪三振 防御率1.98

監督としてのチーム成績

年度年度順位試合数引分勝率ゲーム差チーム本塁打チーム打率チーム防御率年齢球団
1970年昭和45年6位13043789.35534137.2254.1233歳西鉄
1971年昭和46年6位13038848.31143.5114.2314.3134歳
1972年昭和47年6位13047803.37032.5110.2424.1235歳
1973年昭和48年4位13059647.480④⑤116.2393.5836歳太平洋
1974年昭和49年4位13059647.480③④90.2353.4637歳
1984年昭和59年2位130645115.5578.5149.2754.2247歳ロッテ
1985年昭和60年2位13064606.51615168.2874.8048歳
1986年昭和61年4位13057649.47113171.2814.3449歳

監督通算成績

  • 西鉄・太平洋時代 650試合 246勝370敗34分 勝率.399
  • ロッテ時代 390試合 185勝175敗30分 勝率.514
  • 監督通算 1040試合 431勝545敗64分 勝率.442

関連項目